平成14年度法話
  ここでは当道場で観音様より賜りました
  お言葉を掲載致します。

  (H14.6/15掲載)
自我滅却

人が真実を行なう時には、神が宿っているのです。
偽りを行なう時には、悪魔が宿っているのです。
簡単に自分の心の善悪を見分けるのは、この様にじっと内心を見詰めてみれば、
よく分かる事です。

偽りをあえて、心に咎めなければ、己れは既に、
悪魔に住処を与えている訳です。
偽りを咎めて、心に疚しさを感ずる時には、
神に諌められている訳です。

人の心に善悪のありて、常に戦う間は、望みのある間です。
戦いの心が起こらず、平気で悪を為す時は、
既に己れを悪魔に売り渡しているのです。

悪とも善とも気づかず、常に自我のままに行なうは、愚か者です。
何事を為すにも、常に善悪を見極めて行なう処に、
信仰者の価値はあるのです。

拝めばとて、いつも神仏に向っているとは限りません。
己が心のあり方に依る処に、神にも悪魔にも通じてゆくのです。

自我を捨て、正しきを以て、偽り無き様にと、
必死に祈る真心にこそ、神仏は受け取り給るものなのです。
我欲のままに、善悪の見極めもつかず祈る処には、
悪魔のほくそえむ姿があるのです。

人と付き合って、相手の真実を知る事は、
その言動に偽りの有無を、しかと見定める事です。

自分の心が白紙であれば、相手の心はすぐに分かります。
自分の心に歪みがあれば、相手の心は歪んで写るのです。
それ故に、常に自分を白紙にして、自我を捨てる修行こそ、
絶対に必要なのです。

自分が歪めば、相手も歪むのです。
悪魔となるも、神となるも、この心一つの違いです。



信仰とは、常にまず己れを白紙と為して、
善悪をば常に見定める事が大事です。

自分が歪んだままの心で、一心に自我をぶちつけて祈れば祈る程、
益々地獄に近づく事を、しかと心に申し聞かせて、
絶対に自我を出さぬ心がけこそ、唯一の正しき信仰なのです。

自分の思うままになると喜ぶ心には、
既に悪魔に誘われていると、反省する事です。
一切を委ねきる自我滅却の彼方にこそ、
神や仏は招かれるものなのです。

せっかく信仰しながら、神仏と信じて拝む相手が悪魔や畜霊であっては、
何と情け無い事をしている事でしょう。

しかと相手を見定め得る道は、自分の心に疚しさは無いかと問いて、
いささかなりとも、我欲我執の祈りであれば、直ちに止める事です。

相手は己が心のままに、映るものです。
人間界にやっと上がってきて、またしても畜生道に落ちてゆく様な
信仰だけはしてはならないのです。

それ故にこそ、盲に正しき自分を正すべき道はここなのですと、
正法を教え導いて下さる師をこそ、
絶対に信頼出来得る自分をなる事が、第一の修行なのです。

正法の師を信ずる事の出来ぬ己れは、
今だ真の信仰はしていないのだと悟りてこその、自己反省なのです。

常にこの反省がなければ、知らず知らずに神の心から遠ざかり、
邪道にひかれゆく己れであると、気が付かぬ故、
正法から離れてゆくものです。

人の哀れとは、この心を申すものです。
救われがたき己れならずやと、常に反省、懺悔しながら、
一歩一歩正しく歩む処にこそ、成仏の扉は開けゆくものです。

 合掌

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