|
人が真実を行なう時には、神が宿っているのです。
偽りを行なう時には、悪魔が宿っているのです。
簡単に自分の心の善悪を見分けるのは、この様にじっと内心を見詰めてみれば、
よく分かる事です。
偽りをあえて、心に咎めなければ、己れは既に、
悪魔に住処を与えている訳です。
偽りを咎めて、心に疚しさを感ずる時には、
神に諌められている訳です。
人の心に善悪のありて、常に戦う間は、望みのある間です。
戦いの心が起こらず、平気で悪を為す時は、
既に己れを悪魔に売り渡しているのです。
悪とも善とも気づかず、常に自我のままに行なうは、愚か者です。
何事を為すにも、常に善悪を見極めて行なう処に、
信仰者の価値はあるのです。
拝めばとて、いつも神仏に向っているとは限りません。
己が心のあり方に依る処に、神にも悪魔にも通じてゆくのです。
自我を捨て、正しきを以て、偽り無き様にと、
必死に祈る真心にこそ、神仏は受け取り給るものなのです。
我欲のままに、善悪の見極めもつかず祈る処には、
悪魔のほくそえむ姿があるのです。
人と付き合って、相手の真実を知る事は、
その言動に偽りの有無を、しかと見定める事です。
自分の心が白紙であれば、相手の心はすぐに分かります。
自分の心に歪みがあれば、相手の心は歪んで写るのです。
それ故に、常に自分を白紙にして、自我を捨てる修行こそ、
絶対に必要なのです。
自分が歪めば、相手も歪むのです。
悪魔となるも、神となるも、この心一つの違いです。
信仰とは、常にまず己れを白紙と為して、
善悪をば常に見定める事が大事です。
自分が歪んだままの心で、一心に自我をぶちつけて祈れば祈る程、
益々地獄に近づく事を、しかと心に申し聞かせて、
絶対に自我を出さぬ心がけこそ、唯一の正しき信仰なのです。
自分の思うままになると喜ぶ心には、
既に悪魔に誘われていると、反省する事です。
一切を委ねきる自我滅却の彼方にこそ、
神や仏は招かれるものなのです。
せっかく信仰しながら、神仏と信じて拝む相手が悪魔や畜霊であっては、
何と情け無い事をしている事でしょう。
しかと相手を見定め得る道は、自分の心に疚しさは無いかと問いて、
いささかなりとも、我欲我執の祈りであれば、直ちに止める事です。
相手は己が心のままに、映るものです。
人間界にやっと上がってきて、またしても畜生道に落ちてゆく様な
信仰だけはしてはならないのです。
それ故にこそ、盲に正しき自分を正すべき道はここなのですと、
正法を教え導いて下さる師をこそ、
絶対に信頼出来得る自分をなる事が、第一の修行なのです。
正法の師を信ずる事の出来ぬ己れは、
今だ真の信仰はしていないのだと悟りてこその、自己反省なのです。
常にこの反省がなければ、知らず知らずに神の心から遠ざかり、
邪道にひかれゆく己れであると、気が付かぬ故、
正法から離れてゆくものです。
人の哀れとは、この心を申すものです。
救われがたき己れならずやと、常に反省、懺悔しながら、
一歩一歩正しく歩む処にこそ、成仏の扉は開けゆくものです。
合掌 |
|
|