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法は義なり。義は礼節なり。
先づ長幼の礼儀わきまえざれば、法の第一義は欠けるものなり。
それ、親への礼儀、先祖への礼儀をわきまえる心ありて、
神への礼儀悟りゆくなり。
人と人との礼節とは、年長者への礼儀ありてこそ、
人の和は保たるるものにあり。
己れ、年若くして世間知らざるを、わきまえなくしては、
学におごり財におごり長幼の礼を欠く事、これ幼にして今世の悪因、
作りゆくなり。
如何に学ありとても、財ありとても、へり下りたる礼節のわきまえなさ故に、
心おごりて増上慢のあなどり受く事は、何一物とて無き者にも劣りたる者にして、
仏のまなこより見下ろさば、さながら幼児の我強しと友をあなどり、
いさかいを挑むが如き愚者なり。
人といたしての真価とは、徳そなわればそなわる程に、
へり下る頭の低きを以て、第一となす者にあり。
いささかの学に誇り、わずかな財に人を見下す増上慢こそ、
神仏の勿もいまわしと思し召さるるものなり。

修行とは、うまずたゆまぬ真剣さを以て、己が徳をこそ積みゆく事なり。
修行にこだわりて、己が徳むしろ失うが如き愚者となりては、
正法行者とは申されぬなり。
正法此処にありと、道示し下さるる今世の師をこそ、
第一に尊びて仕えゆく己が心の真こそ、
道明らけく悟り得る唯一の行なり。
師の尊さを知らざるが故に、己一人にて修行なしたりと、
思う心の増上慢は、我一人成長いたし今日ありと、
心おごりて親を親とも思わざる不幸の者と等しきなり。
親の大恩あればこそ、今日の我あり。
師の大恩あればこそ、我神仏を悟り得るなりと、よくよく己が心に申しきかせて、
露程も師にそむかざる心こそ、正法行者と申すなり。
己が言動の足らざるが故の、意のままならざる現実現わさるるなり、
と深く悟りて、我が意のままにならざる現実に、
深き懺悔の境地を開きて、御仏の大慈大悲のいづくにありやを、
しかと悟りゆく處に明らかなる道、開けゆくなり。
合掌 |

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