平成14年度法話
  ここでは当道場で観音様より賜りました
  お言葉を掲載致します。

  (H14.5/15掲載)
御仏の御功徳

御仏の御功徳とは、どういう事でしょうか。
毎日々々、ご飯を頂き、そして健康において頂ける事を、
本当に有り難いと喜ぶ心、この心こそ、本当の御功徳なのです。
どんなにして頂いても、当り前と思う心は、悪魔の心です。

一粒のお米が、自分の身の養いとなるという事は、
人間の力では、絶対出来ない事です。
口に入れ喉を通るという事も、これは自分の力では、絶対に出来ない事です。

一滴の水も喉を通さず、苦しみながら、悶え、足掻いて死んでゆく人の姿を見る時、
健康で何の気なしに、ガブガブお水が飲めるという事は、
何という有り難い事でしょう。

一粒のお米でも、一滴の水でも、頂いて自分の身の養いとなり、
本当に心豊かに、有り難いと思う事こそ、これが無上の御功徳なのです。
この心を頂く事が、信仰の眞の功徳なんです。

仏様の御慈悲を有り難いと感じ、何とかして、この御恩に報いなければ、
申し訳ないと気がつく心こそ、御功徳なんです。

何でもかんでもお願いして、聞いて頂く事は当然のように思い、
自分が元気で、毎日好き勝手な事をして、当たり前と思う心は、
何と惨めな次元の低い、悟りを知らない心なのでしょう。
これでは到底、成仏する事など出来ないんです。

本当の幸せとは、仏様の御慈悲を、全てのものに感じ取り、
有り難いなと思える心こそ、信仰の功徳なのです。
全てを有り難いと、感謝する心のない信仰をする事は、
何の功徳もないわけなんです。



信仰とは全ての事に、一粒の米でも、一滴の水でも、
これは無上の御慈悲であると心から感謝して、そしてこの御恩には、
必ず報いねば成らないと思う心の悟りを得る事が、
本当の功徳なのです。

「なんぼ拝んでも功徳はナンにも頂きません」とおっしゃる方があるんです。
哀れな方だなぁと思うんです。
仏様もそう思ってらっしゃると思うんです。
ところが、その御仏のお心が、現実に現れるという事は、どういう事でしょう。

元気でおいて頂いて、毎日両手の合わせられる事を、当然の事に思う様な心は、
やがて、手も足も萎えて、思う様に動かせない、不自由な体となり、
何を食べても美味しくない、食欲のない様な、ひ弱な体となってしまうのです。

だんだん弱っていって、何に対しても感謝なく、不平不満で愚痴だらけの毎日は、
何と侘しい、そして喜びのない不幸な日々でしょう。
本当の幸せを知らない心に、何の感謝も喜びも与えては頂けないでしょう。

感謝の心が涌き出でて、喜び一杯に暮らす事の出来る生活こそ、
人生最高の幸せなのです。

人から受ける好意に対しても、当然の事と思い、
自分が知らず知らずに平気で人を傷つけ、何の感謝もない心を咎められた時、
それは皆、人が悪いからと思う心、自分が悪事を咎められると、人のせいにする、
まことに幼稚な、悟りのない心に、幸せは来る筈はないんです。

自分をだんだん不幸に陥れる原因であると、悟らせて頂く事こそ、
信仰の本当の功徳なのです。
人はこの世に生きて、日々を必ず成仏しなければならないと、
仏様に諭されて生かせて頂いているんです。



成仏の道とは全てに感謝し、この感謝の心、必ず報恩として人に仕え、
仏に仕え、身を粉にして、命懸けでお返ししなければ申し訳ないと思う心を、
悟らせて頂く事が、本当の功徳であり、又、日々の生き甲斐であるわけなんです。

感謝の喜びは、一つ一つの細胞を、生き生きと甦らせて、
生きる力を湧きおこさせて下さるのです。

人間この世に生きて、生き生きと希望に向かい、
理想を求めて仏に縋り、実現しようと一生懸命努力する事こそ、
本当の生きる喜びなんです。

この感謝報恩の努力のない生活は、本当の生き方を知らない、
生き甲斐のない人生となって、日々に魂を曇らせ、
やがて自分で自分に地獄を作っていく事なんです。

人生の歓びとは、全てに感謝し、そして本当に有り難いと喜ぶ心に目覚めて、
この有り難さを、どうしてもお返ししなければあい済まぬと思う心が、
湧き出ずる時、本当の人生が開けて行くのです。

人と生まれたからには、必ず仏とならねば成らないという、使命がある事を悟り、
その使命とは、感謝報恩の真を尽し切る事であると悟る処に、
人間の価値が出てくるのです。

人と生まれて畜生の様な心では、何の価値もないのです。
人間が人間らしく生きる事は、必ず仏と成らねばならぬと決心して、
仏の心を、自分がしっかり悟り得る様に、努力精進していく事が、
人間としての生きる価値なのです。

人が、動物や畜生の様な心で、生きて日々を人に疎まれ、嫌われ、
そして人を傷つけて、闘争心ばかり燃え立たす様な生涯は、
必ず、地獄を作っていく、人間として生きる価値のない、自分であるとしっかり悟って、
たとえ本当に何物も持たず、財産もなく、家もなく、又、家族もなく、
たった一人の孤独に生きていく人生でありましょうとも、
其処には大きな神仏の御慈悲があればこそ、生かせて頂いているのです。



いつでも仏と共に生きていく自分を感謝し、
喜び、御仏の前に、恥かしくない様に、必ず喜んで頂ける様にと、
努力していく人生にこそ、無一物即無尽蔵な喜びを、感じ取る事が出来る訳なのです。

人として生きる価値とは、只々、仏となるべき日々の精進努力にこそ、
自分を本当に、価値ある人間としていくものであるとしっかり悟り、
日々の生き方にこそ、自分自身を仏としていく道がある事を悟り、
信仰の真意とは、遂に仏となる道であるという事を、しっかり腹に刻み、

仏とは、一切衆生を喜ばしめんがためにこそあわれるものであります故に、
自分もあらゆる人に、喜んで頂ける様な自分を作り上げていく事が、
仏と成る道であると悟る事であります。

遂に仏座に蓮華の座を約束されて、必ず昇る事の出来る自分であると、
しっかり覚悟して、一段一段昇らねばならない人生である事を、
しっかり腹に据えて、一言にも一事にも、この言動が仏座への道標であると悟って
言動していく事こそ、自分自身が仏座に昇っていく道であると悟らるる事こそ、
信仰の功徳であります。

その悟りのない人は、どんなに拝んでも、どんなに御経をあげてみても、
仏座に昇る事は、到底ありえないものであります。

人は、遂に仏になる道にこそ、人生の真の価値がある事をしっかり悟り、
日々の言動に身を慎み、人の心を思いやって、好き勝手な言動をしない様に、
常に戒め戒めて、日々を過ごしてゆきたいものであります。

 合掌

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