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御仏の御功徳とは、どういう事でしょうか。
毎日々々、ご飯を頂き、そして健康において頂ける事を、
本当に有り難いと喜ぶ心、この心こそ、本当の御功徳なのです。
どんなにして頂いても、当り前と思う心は、悪魔の心です。
一粒のお米が、自分の身の養いとなるという事は、
人間の力では、絶対出来ない事です。
口に入れ喉を通るという事も、これは自分の力では、絶対に出来ない事です。
一滴の水も喉を通さず、苦しみながら、悶え、足掻いて死んでゆく人の姿を見る時、
健康で何の気なしに、ガブガブお水が飲めるという事は、
何という有り難い事でしょう。
一粒のお米でも、一滴の水でも、頂いて自分の身の養いとなり、
本当に心豊かに、有り難いと思う事こそ、これが無上の御功徳なのです。
この心を頂く事が、信仰の眞の功徳なんです。
仏様の御慈悲を有り難いと感じ、何とかして、この御恩に報いなければ、
申し訳ないと気がつく心こそ、御功徳なんです。
何でもかんでもお願いして、聞いて頂く事は当然のように思い、
自分が元気で、毎日好き勝手な事をして、当たり前と思う心は、
何と惨めな次元の低い、悟りを知らない心なのでしょう。
これでは到底、成仏する事など出来ないんです。
本当の幸せとは、仏様の御慈悲を、全てのものに感じ取り、
有り難いなと思える心こそ、信仰の功徳なのです。
全てを有り難いと、感謝する心のない信仰をする事は、
何の功徳もないわけなんです。

信仰とは全ての事に、一粒の米でも、一滴の水でも、
これは無上の御慈悲であると心から感謝して、そしてこの御恩には、
必ず報いねば成らないと思う心の悟りを得る事が、
本当の功徳なのです。
「なんぼ拝んでも功徳はナンにも頂きません」とおっしゃる方があるんです。
哀れな方だなぁと思うんです。
仏様もそう思ってらっしゃると思うんです。
ところが、その御仏のお心が、現実に現れるという事は、どういう事でしょう。
元気でおいて頂いて、毎日両手の合わせられる事を、当然の事に思う様な心は、
やがて、手も足も萎えて、思う様に動かせない、不自由な体となり、
何を食べても美味しくない、食欲のない様な、ひ弱な体となってしまうのです。
だんだん弱っていって、何に対しても感謝なく、不平不満で愚痴だらけの毎日は、
何と侘しい、そして喜びのない不幸な日々でしょう。
本当の幸せを知らない心に、何の感謝も喜びも与えては頂けないでしょう。
感謝の心が涌き出でて、喜び一杯に暮らす事の出来る生活こそ、
人生最高の幸せなのです。
人から受ける好意に対しても、当然の事と思い、
自分が知らず知らずに平気で人を傷つけ、何の感謝もない心を咎められた時、
それは皆、人が悪いからと思う心、自分が悪事を咎められると、人のせいにする、
まことに幼稚な、悟りのない心に、幸せは来る筈はないんです。
自分をだんだん不幸に陥れる原因であると、悟らせて頂く事こそ、
信仰の本当の功徳なのです。
人はこの世に生きて、日々を必ず成仏しなければならないと、
仏様に諭されて生かせて頂いているんです。

成仏の道とは全てに感謝し、この感謝の心、必ず報恩として人に仕え、
仏に仕え、身を粉にして、命懸けでお返ししなければ申し訳ないと思う心を、
悟らせて頂く事が、本当の功徳であり、又、日々の生き甲斐であるわけなんです。
感謝の喜びは、一つ一つの細胞を、生き生きと甦らせて、
生きる力を湧きおこさせて下さるのです。
人間この世に生きて、生き生きと希望に向かい、
理想を求めて仏に縋り、実現しようと一生懸命努力する事こそ、
本当の生きる喜びなんです。
この感謝報恩の努力のない生活は、本当の生き方を知らない、
生き甲斐のない人生となって、日々に魂を曇らせ、
やがて自分で自分に地獄を作っていく事なんです。
人生の歓びとは、全てに感謝し、そして本当に有り難いと喜ぶ心に目覚めて、
この有り難さを、どうしてもお返ししなければあい済まぬと思う心が、
湧き出ずる時、本当の人生が開けて行くのです。
人と生まれたからには、必ず仏とならねば成らないという、使命がある事を悟り、
その使命とは、感謝報恩の真を尽し切る事であると悟る処に、
人間の価値が出てくるのです。
人と生まれて畜生の様な心では、何の価値もないのです。
人間が人間らしく生きる事は、必ず仏と成らねばならぬと決心して、
仏の心を、自分がしっかり悟り得る様に、努力精進していく事が、
人間としての生きる価値なのです。
人が、動物や畜生の様な心で、生きて日々を人に疎まれ、嫌われ、
そして人を傷つけて、闘争心ばかり燃え立たす様な生涯は、
必ず、地獄を作っていく、人間として生きる価値のない、自分であるとしっかり悟って、
たとえ本当に何物も持たず、財産もなく、家もなく、又、家族もなく、
たった一人の孤独に生きていく人生でありましょうとも、
其処には大きな神仏の御慈悲があればこそ、生かせて頂いているのです。

いつでも仏と共に生きていく自分を感謝し、
喜び、御仏の前に、恥かしくない様に、必ず喜んで頂ける様にと、
努力していく人生にこそ、無一物即無尽蔵な喜びを、感じ取る事が出来る訳なのです。
人として生きる価値とは、只々、仏となるべき日々の精進努力にこそ、
自分を本当に、価値ある人間としていくものであるとしっかり悟り、
日々の生き方にこそ、自分自身を仏としていく道がある事を悟り、
信仰の真意とは、遂に仏となる道であるという事を、しっかり腹に刻み、
仏とは、一切衆生を喜ばしめんがためにこそあわれるものであります故に、
自分もあらゆる人に、喜んで頂ける様な自分を作り上げていく事が、
仏と成る道であると悟る事であります。
遂に仏座に蓮華の座を約束されて、必ず昇る事の出来る自分であると、
しっかり覚悟して、一段一段昇らねばならない人生である事を、
しっかり腹に据えて、一言にも一事にも、この言動が仏座への道標であると悟って
言動していく事こそ、自分自身が仏座に昇っていく道であると悟らるる事こそ、
信仰の功徳であります。
その悟りのない人は、どんなに拝んでも、どんなに御経をあげてみても、
仏座に昇る事は、到底ありえないものであります。
人は、遂に仏になる道にこそ、人生の真の価値がある事をしっかり悟り、
日々の言動に身を慎み、人の心を思いやって、好き勝手な言動をしない様に、
常に戒め戒めて、日々を過ごしてゆきたいものであります。
合掌 |

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