平成14年度法話
  ここでは当道場で観音様より賜りました
  お言葉を掲載致します。

  (H14.11/1掲載)
成道は智慧なり

私達の不幸の元は全部無智から起こった事です。
それで、余りに智慧の無い私達を哀れみ、
いつくしむ心が神仏の御慈悲なのです。

大きな御慈悲を持って、何とかして此の苦しみから救ってやり度いと、
その救われる為の智慧を授けて下さるのが愛です。
即ち神です。

理非善悪の区別が分らない無智故にあやまるのです。
物事の一つ一つの事に当たって、これはどの様に処理すれば
正しいのかと云う理性を働かせる、明らかな智慧さえあれば、
間違った事はしないでしょう。

その智慧が無い故に、小さな自分の器で計る自我の欲心に囚われて、
物事の処置を過まるが故に悪因縁を作り、
後々にまで因果を残す事となってゆくのです。

此の因縁、因果の繰り返しが輪廻し、輪廻して
只今の救い様も無いまでの、悪い世の中を作ってしまったものです。

此の原理をしかと悟って見る時、幸を願う心とは、
先づ只今の自分となっている原因は皆、
余りに智慧の無い自分自心の作った罪だと気付き、
再び過ちを犯さない為にも、明らかな、正しい神の智慧を頂く事が
第一だと気付く事です。

それ故に、本当の幸福を願う心とは、正しく、明らかな
神仏の御智慧を頂く様一心に祈る事です。
これが真実の信仰なのです。



因縁、因果の法則に従って、自分の作った因縁は、
自分自身が因果として受けなければ絶対に許されない
此の世のおきてに従って、苦しみを受けて、
その罪のさばきをさせられているのだと悟った時、

私達は、再び此の様な苦しい因果を受けない為の、
正しい智慧を頂ける様、自我を消滅して、
神仏の御慈悲にすがり奉るのです。

いくら一生懸命祈ってみた所で、自分の我見、我欲はしっかりと握ったままで
自分の欲しい事を願う祈りでは、その我欲充満の心に、
神仏の明らかな御智慧の入る余地はありませんので、
到底正しい判断をする事は出来無い訳です。

それ故先づ、自分の間違った我欲、我慢の心を消してゆく為の
修行こそ信仰の第一歩なのです。

読経も写経も瞑想も亦その他いろいろの方法がありますけれど
皆、先づこのいろいろの物に執着した囚われの心を
消滅してゆく修行なのです。

次第々々に物に囚われた愚かな自分の「我」が消えてゆきますと、
除々に除々に神仏の御智慧が流れ入って来るのです。

そして遂に、一切の「我」を失くした時、自分自身とは
一切の物事を見あやまる事の無い明らかな、正しい智慧者となり、
間違いだらけの愚かな人々を、心から哀れみ、
何とかして救って上げたいと切望する、慈悲の自分と成っているのです。
これが「成仏」と申すものです。



気の遠くなる様な、遥かな道ではありますけれど、
此の一筋の道をめざして、一心に歩み続けて行く事が仏道であり、
信仰であり、又、人として生れた第一の使命である処なのです。

此の根本を悟る事が出来ない愚か故に、目先の我欲に囚われて、
自ら求めて苦を集めている様な私達の現状なのです。

正しい信仰とは、人間本来の使命を悟り得て、
その為にこそ一心に修行する事です。

過ぎ去って見れば、人の一生は誠に短いものです。
その一生こそ、救われて神の座に還えられるか、又地獄に落ちて、
再び苦難のどん底をなめねばならないかの分れ道なのです。

それ故にこそ真の幸を願う正しい心にこそ、
神仏の無量の御智慧が頂かれる訳です。

つまり、神仏とはこの明らかな、正しい智慧と無限の威力とを以って、
その御存在を現世に現わされ給うものです。

真の信仰を見あやまる事なき様、只ひたすらに己の「我」を消滅して、
「無我」の心ですがり奉り、祈り奉る素直な心にこそ、
神仏は必ず感応致され給うものです。

 合掌

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