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我が身が塵あくたの如く泥にまみれている内は、
きたなきとも、よごれているとも思われざるなり。
されど、除々に除々に我が身の垢を落としてゆく内に、
次第々々に己が身清浄となるにつれて、
周囲のきたなさ、みにくさ、いかにも次元の低きこと、
おぼろげ乍らに感じ取り、不快の念、おぞましき思い、嫌悪の情にかられて、
いたたまれぬ心地となりゆくものなり。
されば、到底我が身のおき処に非ずと悟りて、
一時も早く逃れ出でんと、必死の思いにすがりゆく仏の慈悲に
目覚めゆく時、始めて解脱の道の示さるるなり。
蓮華の汚泥に染まざるが如き心境とは、
如何なる悪の中に交わりても、その悪を憎まず、
悪に染みて尚悪とも知らざる愚かなる者を哀れみ、
如何にも救はばやとの心を起こし、必死で導く慈しみを起こした時、
人は始めて、身の清浄を悟らしめらるるものなり。
悪を憎まず、蔑げずまず、又見捨てんともせず、
たえず哀れみと慈しみの心起こして、真の目覚めに必死の力そそぐ時、
人は仏と成り得るものなり。
さればこそ、親子、兄弟姉妹の肉親と申す間柄に、
本能的に愛さずにはいられない情をさずけられし、み仏の御心とは
この肉親の情を通じて仏心を悟らしめんとの大慈悲心なり。
この御慈悲なくば、畜生の如き人間凡夫の
到底成仏なし得るすべなし。
されば、いかにおぞましき相手なりとも肉親の縁は断切りがたきなり。
夫婦とは他人にありて互いに肉親以上の情を交わせ、
我が身を思う以上に思い合う心を起こし、
必ず相手を真に幸にしなければと、必死につとむる処に
己が心の仏心を目覚めしむるものなり。
合掌 |

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