平成13年度法話
  ここでは当道場で観音様より賜りました
  お言葉を掲載致します。

  (H13.6/1掲載)
愛の心を養うとは

先祖供養とは、愛を養う行である。

先祖に捧げる真心は、先祖から返される感謝によって、
自分の心にほのぼのとした温かい愛の湧き出づるを覚え、
その愛は誰かに何か親切をして上げたくてたまらない感情となって、
自分の言動に自然に現れ、それは人を喜ばせ、人から感謝の念となって返さるるものとなり、

その喜びと感謝を受けて又自分の心は温かく潤され、
こんこんと湧き出づる泉の様に、人を思う愛の心が充満し、
人の為に尽くさねばいられない親切となって現れるのである。

マザーテレサのむくわれる事のない愛の奉仕は、
この果てしなき繰返しの度に益々ふくれ上がり、
湧き出づる大愛の故にしなくてはいられない愛の現れであり、
それはまさに神そのもの仏そのものの現実の姿である。



人間とは、報いのない奉仕をあえてなす者ではなく、
例え最愛の我が子であっても遂に「親に対して・・・」と無意識に報いを求むる
心を持つ故に、その愛はやがて最愛の我が子にすら、うとましく思はるる様になるもので、
よくよく考えれば、これも亦眞の愛とは申し難きものであって、

所詮人間の自我にしか過ぎず、ましてや他人に対して自分を捨てて
尽くし切るなどとは到底考えられない程、次元の低い者である事が
容易に悟り得られず、遂に報われる事のない世界と孤独の闇に閉じ込もらねば
成らぬ終末となるは当然の因果である。

それ故にこそ、人は絶対に信仰に依る大いなる愛の心を養わなけらば
真の幸は悟り得られぬものである。



現世物質界に出でて、全てを物質によって生きねばならぬ自分を見つめた時、
自ら物欲はなくては生きられない現世に在りて、物欲にとらわれるが故に、
愛を忘れ野獣に等しき己となり下がる現実に気付く為にも、
絶対的なる神仏に心の眼を見開かなければ、

人間として最下等の者と成り下がり、
遂には一物も身につけ得ざる終末に来りては只物欲の鬼と化し、
妄執の亡者となりて未来永劫無明の闇に落ちねばならない己を作り、
現世に生れし甲斐なき一生と成り下がるなり。

この哀れなる己が末路を思う時、人は人間らしく生きねば、
絶対許されざる己であると一時も早く悟らねば相成らぬものなり。

されば人間らしくとは、つまり義を重んずる事が第一である。
この第一の義とは、親への恩を知りて返さねばと悟ることである。
先祖供養とは、人として第一の義を果たす事である。

この義即ち愛を生み、育て、知らず知らずに無限の徳を積み重ねゆく
大愛の人と成りゆく素である。

しかして遂にそれは、神への仏への感謝報恩へと発展いたして、
遂に人といたしての第一義とは、広大無辺なる無量無限の大愛にまで
己を高めゆく事であると悟り得て、人は遂に成仏成し得るものである。

 合掌

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