平成13年度法話
  ここでは当道場で観音様より賜りました
  お言葉を掲載致します。

  今回は出版物の「乾坤の道」下より
  引用しております。

  (H13.4/1掲載)
奉仕の報酬

人は自分の為、自分の欲望だけに生きる時、
小さい自分の力尽きた時、過去からの自分の作った業に振り回されて、
どうしようも無い無力を悟り、失望と落胆と悲哀に人生の果なさを知って、
この世の無情に泣かねばならない晩年の、惨めな生涯を迎えては、
救われ様も無く、死の恐怖に恐れ、おののきながら一時も早くと死を待ち望む
浅間しい姿となるものです。

けれどもこれではならぬと目覚めて、人の為に役立つ自分とならねばと
必死の努力に立ち向かう時、今迄眠っていた細胞が活々と蘇り、
自分の力とは思われない程の力が湧き上がって来るものです。

老年とは自分の力弱きを果なみ、何も出来ないと、
自分自心で畏縮してしまうから哀れな、みじめな姿をむき出しにさらけ出して
しまうものですが、人の世話にならない様にと心がけるばかりでなく、
人様の為に、それも人の魂の目覚めの為に役立つ事は、

神仏への最高の御奉仕であり、御功徳であり、
引いては自分の懺悔であると目覚めて、必死に精進努力し様と心を定めた瞬間から、
人は年齢を超えた歓びと勇気とが、お腹の底から湧き上がり、
知らず知らずに面相は笑顔となり、曲がった腰も伸び、
弱々しかった体にも活気が満ち満ちて生きる歓びに日々が、
何と短く過ぎ行く事でしょう。



自分一人の事だけに齷齪と生きる人生の老後は、
一日の長さに退屈し行く末の不安に知らず知らずに心がしなび、
体も弱まり自分ではどうし様も無い無力に縮んでしまう、寂しい、惨めな
老人となってしまいますが、神仏の御前に恥ない自分とならねばと気付き、
それにはこの体、人の為に役立ててこそ生かせて頂く価値があるのだと、
気付かせて頂いた時から、その人生は何と尊く、有難いものと変わる事でしょう。

人は皆御神仏の御慈悲によって生かされているのです。
生きる歓びとは、その御恩に報いなければ申し訳ないと悟った瞬間から
湧き上がって来るのであります。

人の為に生きる歓びとは、尽くしても尽くしても疲れる事を知らない力が、
自ら湧き上がって来るのを覚えます。
それは自分を忘れ、人の喜びと感謝を受けるからなのです。

自分の殻ばかりに閉じ籠って自分の事のみに齷齪していては、
ただ自分の力だけしか働けないのですが、人の為に尽くすという事は、
尽くす相手の感謝と歓びの念が自分の体内の一つ一つの細胞に活気を与え、
甦らせて力となって働いて来るから益々元気な体となってゆくのであります。

報酬を受ける喜びは如何に大きくても、その報酬で働きは計算されて
帳消しとなりますので、神仏の御喜びとはなりませんから、
知らず知らずに湧き上がる力とはなりません。
この我の力でない力が即ち、神仏の御喜びの報酬なのであります。



奉仕とはこの様な事で、何の報いも求めない無心の心が即ち、
神仏に通じ神仏の御喜びが自分に還って来て、生かされてある自分の体内に
歓びの活力を産み出すものであります。

金銭では購う事の出来ないこの報酬こそ、人生最高のものでありまして、
何の不安も恐れもない晩年の安楽は、神仏にゆだね切った
心の平安から得られるものであります。

金銭、財宝に埋れても、手足の自由を奪われては何の有難さがありましょうか。
身に一銭の財はなくても、日々に安心して身体健全で、
御神仏に使って頂ける事の功徳は何物にも、代え難い幸せであります。
これこそ一切の罪業の消滅となり、未来への最高の積徳となるからであります。

人が自分の欲得だけの為に生きる人生とは、何と無意味で、
果なく、寂しいものでありましょう。
それは本来の真の生き方でないからなのです。
人は己の罪障消滅の為にこそ、この人生を与えられたのであります。

それ故にこの生涯にこそ一心に懺悔しなくて、いつの日罪障消滅が出来るのでしょうか?
御神仏に生かせて頂く、この一生こそいともあり得がたい機会なのであります。
我欲の為に無為に過しては悔いを千歳に残すのみであります。

地獄の底で嘆き苦しむよりは、只今の人生にこそ
極楽往生の成果を積むべきだと悟り得てこそ人と生まれた甲斐であります。

 合掌

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