平成13年度法話
  ここでは当道場で観音様より賜りました
  お言葉を掲載致します。

  今回は、光照先生の霊夢によるお諭しを
  掲載致します。

  (H13.3/1掲載)
夢の話

午前二時・・・・・・・
大勢の信者や弟子と共に在りて、目の前に大福餅を山の様に盛ってある。
皆で食べようとするが、誰一人として食べる事が出来ない。
喉を通らないのである。

そこで、私が説法をした。
「何でもなく食物を食べるという事は、当り前であって、
何の不自然も感じた事のない私共でした。
ところがどうでしょう。このおいしそうな大福を、誰一人として食べる事の
出来ない現実を、どう感じますか。

食物を食べるという事は、決して自分の力でないと教えられているのです。
目にも見えず、心にも感じない御仏の存在をこの様にして、
確かめさせて頂いているのです。

この世の中の事、何一つとして、自分の力で出来る事はないのです。
皆御仏の御慈悲によって、させて頂けるのです。

私共に、その原理が分からないので、自分で勝手に食べていると思っていた
感謝の無さが、今ここにありありと示されたのです。

自分の体でありながら、小餅一つ食べる事の出来ないふがいなさ、
無力の現実をまざまざと、体験してみて初めて『我の力に有らず』という事が、
しみじみと解るでしょう。

一粒の米、一滴の水に無量の御慈悲あればこそ、
私共の身の養いとなり生命の元となって、健康な身体が維持出来るわけであります。
健康とは、決して自分の力で保ち得るものでない事が、これでよくよく解ったでしょう。」

と、法話して寝覚めたのが、午前二時過ぎでした。
起き上がって、瞑想に行き、聖堂から帰宅して又、床に入ること
午前四時半・・・・・・・



又夢を見た。
風呂に入ろうとして、電気のスイッチを押したが、一向にお湯が出ない。
何度押しても押しても、一滴のお湯も出ないので、ほとほと困っていると、
いづくともなく声がする。

「スイッチを押せば、お湯が出て、ぬくぬくと風呂に入る事、
贅沢とも何とも思わない心の慣れ・・・・恐ろしい事である。
昔、薪を焚いていた時代の事を思えば、隔世の感である。

それに対して、何れ程の感謝があるのか。
あたり前と、贅沢に慣れては、又元の不自由に返される事は当然である。
何物にも感謝のない心が、全てを失うものである。

只々、それを失いたるは、感謝無き結果と思えば他は皆同じ。
感謝報恩の心を忘れた処に、全てを失う結果ありと、骨の随まで刻んでおくべし。」

目が覚めたのが午前五時半。

 合掌

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