平成13年度法話
  ここでは当道場で観音様より賜りました
  お言葉を掲載致します。

  (H13.2/15掲載)
真の歓び

  人間の歓びとは、その魂にあるもので
  只表面の心にのみ感ずる喜びとは又別であります。

  信仰とは一心に心の統一を計って、もの事の善悪を見極める智慧、
  即ち善智識を得る事でありましてその善智の判断で、
  正しい魂の歓喜をこそ人間の真の歓びと申すものです。

  それ故に、例へば勝負事やかけ事をして勝つ喜びは、
  相手の悲しみを思わず只自分の利益のみを喜び満足するという事で、
  これは正しい歓びではなく、従って裏に泣く人を作ったという因縁をも
  共に身に受けている訳で、その因はいつか又、自分も泣かされねばならないという
  果を作っている訳ですから、考えて見ますと決して幸を作っている喜びには
  つながらない訳であります。

  先祖の為に供養する一心は、例えば一本の木の根に水をやり肥しをやる事と同じで、
  根が肥え太り、広がればそれだけ幹も葉も太り広がる訳でありまして、
  先祖は根であり自分は幹であり、子孫は枝葉であります。

 

  目に見えない先祖を一心に供養する事は人知れず、
  自分の魂に磨きをかけている事でありまして、悪を悪とも善を善とも判断のつかなかった様な
  曇った魂が、だんだんに磨かれて善悪の判断が明白になり、
  悪を嫌い善を喜ぶ自分とならなければ、いくら御経を読み、御供えをして祈って見た処で
  先祖は成仏するものではありません。

  亡き先祖をしのび、子孫としての孝養をつくさんとする一心が先祖供養でありますのに、
  人は先祖を対象にして自分の欲を祈る事の方が多いのではないでしょうか。
  これでは神仏に通じて先祖を成仏させて頂く事の出来得る
  誠の真心とはならないのです。

  形ばかりの気休めに過ぎず従って、気休め信仰では垢にまみれて曇りに曇った
  私共の魂は決して磨かれるものではありません。
  その証拠に何年何十年信仰しても、その根性は少しも
  変らないではありませんか。

  先祖供養とは、人間の根本である先祖を何とかして神や仏の御慈悲におすがりして、
  迷いから目覚めさせて頂き度いと祈る事でありまして、
  それはつまり代々の先祖の血でつながる子孫である只今の我を、迷いから
  目覚めさせて頂く事となるのです。

 

  迷いの中では、善も悪も見極めがつきませんので、
  真の善とはどの様な事か、悪とは何をもって判断するのかを明確に悟る事の
  出来得る智慧者となる事でありまして、これを神仏にすがり奉る一心で
  授けて頂く事が真の功徳と申す訳であります。

  病気を治して下さい、貧乏から救って下さいと願はなくても、
  病気の原因は何処にあるのか、又貧乏の原因は何処から来ているのか、
  それがはっきり分る智慧さへあれば、その原因を取りのぞけば結果として現われている
  現状は自然に解消していく事は当然であります。

  目先の小欲にとらわれる事なく、苦の元を知る智慧を頂く大欲に目覚めて見ると
  幸とは、真の歓びを得る魂の歓びである事がはっきりと悟られるものであります。

   合掌

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