平成22年度法話
   ここでは当道場で観音様より賜りました
   お言葉を掲載致します。

   (H22.7/1掲載)
正法の道標

人生最大の目的は、佛と成る事にあり。
されば、成仏の道への示標とも申すべき、
正法の師とは何者にもかえ得ざる、唯一絶対の対象にあり。

師に対しての絶対の信頼と従順の心なくんば、
至福の境地はあり得ざるなり。

師たる者の責務とは、神仏よりあづけられたる人の魂の
方向あやまたさざるべく、己が役目の重大さをば、しかと悟りて
己を捨つる覚悟を以て、弟子への慈しみと厳しさに徹し切る事の
出来得る者にあらざれば、その資格なし。

されば人生に於いて、この師に巡り逢う事、容易には非ず。
自ら求めて得らるるものには非ず。

おのずからなる、過去世の因縁により、様々なる糸に操られ操られて、
ようように巡り逢わさるるものにあれども、
亦これぞ至高の我が師なりと、悟り得るは容易の事には非ず。

様々なる因縁に操られて、或る時は疑い、或る時は背き、又ある者は去りゆく人の有様、

これ皆、それぞれの過去の因縁と申す姿なれども、
それぞれの遠き道程、幾世々を経巡りて、今ようように離れがたき、
絆に結ばれたる者、これぞ今世の最大の功徳なり。

信じ難き己が自我、ようように目覚めさせ頂きて、
何ものにも代え得ざる御方なりと信じ切る者、
これぞようように成仏の道、まっしぐらに連れ参らるる処に迄、
近づき得たる至福の者なり。

されど、これ迄の心の決定容易の事には非ず。
死をも許されざる苦難の因縁、乗り越えて初めて開かるる心の悟りなればなり。

成仏とは、さ程に成り難き事なり。
さ程に迄、垢にまみれし己とは、なかなかに分別つかざるが故の現世の有様なりとは、
尚更に目覚め得ざる人の心の浅ましき故に、正邪分別つかざる現実こそ、
我欲そのものなる邪教、悪法はびこりて、餓鬼道そのままを
現し見る世相とも悟り得ざる人心には正法も分からず。

まして、至高の師と仰ぎみる相手の姿も、見分けつかざる明盲なり。

この浅ましの人心には、己が魂に至福とは何たるかは、
容易に悟らるる筈も無く、求むる心も起り得ざれば、
只目先の欲に眼くらみて物質の欲にむさぼり寄る、浅ましき集いをば、
宗教と申す看板にだまされたる、地獄の形相とも知らざる無知蒙昧の現世の有様、
最早許されざる極に達したれば、一刻の猶予もなき瀬戸際なり。

さればこそ、正しき道の在り方ここなりと示され、
ついて参れと救いの道に導き下さるる師の有り難さ、
ひとしおなるを尚悟り得ざれば、弟子とは申されざるなり。

如何に守護神必死なればとて、直々に道案内は頂き得ざる、
低き次元の己をば悟られざる故、道誤るものなりとしかと悟りて、
この師あればこそ神仏の道案内、直々に現世に在りて示し頂かるるなりと、
信じ得る心の修業こそ、最も肝心要なり。

短き人生に、今又最後の審判下されんとなす時にあたりての心構えとは、
絶対なる信をもって師に従う心構えこそ、唯一の救いなり。

悪を正して善を興さんとなす、神仏の大慈大悲、
現世に現わさしめんとの役目与えて、現世に出させし正法の道標をば見誤りて、
悔い千載に残すが如き愚者となりては、
如何なる修業も甲斐なき事なり。


 合掌


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