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事を行うと云う事は、例えそれが失敗であれ、
進歩と向上の為には絶対に必要な事である。
それ故に神仏は、先々明了に分かっていらしても、
止めようとは仰せられないものである。
何事にもあれ一生懸命努力して、物事の成り行きを見極める事は智慧となりて、
身と心の養いとなるものである。
故に例えば家を建てるに当たっても、その土地の因縁、
方向環境等見極めて適当な値段ならば求めて建つるに分相応にして、
尚失敗のありとしても最初からその失敗は教え給わらぬ事もあり。
何故ならば本人の信解と懺悔の如何によりては、
より信解なさしめんが為又、真の懺悔、改悔となさしめんが為、
あえて黙認遊ばされ今世の懺悔清浄の為、又次なる飛躍の為
本人の覚悟決定固めさせんが為にこそと、
真の大慈大悲以て見過し給わる事もあり。
結婚しかり、就職しかり、人生の大事何事に於いても、
神の大慈大悲とは常に温室にある如き温かく温かくと甘えの安逸は許されざるなり。
されば何時如何なる事に遭遇なさんとも絶対なる信解を以て、
一切は皆神仏のものなれば、只修業の材料として与えられしものなりと達観いたし、
失うも又神の意志なりとけいげ無き心となりて、
一切万有の中に生くる我となり得る時、人は初めて成仏の境地を覚り得るものにあり。
相手に対し執着心のある間は、まだまだ己のものにあらざる事をしかと悟り得れば、
家にしても、結婚にしても、親子、肉親、財産等々、
全て愛着ある己が内心を見つめたる時、いつ何時取り去られんやも
計り難しと悟るべきなり。
肉眼に映るもの、皆夢幻の如く、我が命すらも空しき現世なるを
しかと自覚致してこその信仰なりと心定めて、
只祈れば必ず聞きとられ将来は必ず己が欲するままに満たされるなどと
物欲の為の信仰ならば、何十年祈り続けたるとも甲斐なき信仰なり。
何故ならば神仏はその様な欲界には在しまさざる故、通じる筈もなし。
物質と申すは、全て己が欲心が作りたる幻に過ぎず。
欲心去りなば幻は消え、真理の中に必要なるものは物質化されて
おのずから現わるるこそ、真実なればなり。
手にとりて触るるは只物として与えられたる己が修業の糧なりと、
よくよく解脱いたすべき修業にこそ、信仰の真髄を悟るべし。
合掌 |


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