平成21年度法話
  ここでは当道場で観音様より賜りました
  お言葉を掲載致します。

  (H21.6/1掲載)
師即法成

人智人力の遠く及ばざる処に、まさに現し神とも申すべきは、
生くる密教行者の理想なり。

されば、その師とは即ち法なり。

師が道を過れば法は正しからざるものとなり、
師正しきが故に、法又正しきにあり。

正法とは、人情を越えたる処にありて、人情に堕して自らの道あやまれば、
如何に次第書通りに作法すればとて、法は生かされざるなり。

法とは、心正して、人情に堕さざる崇高なるものにあり。
されば人間同士、人情を以て道徳なりと思う処に事をなしては、
常にあやまるものなり。

心正すとは、人情を超越いたして、只一心に佛のみ心に順い、
何事につけても私心を捨てて無になりて、師の教えを順奉いたす処に、
人智にては分別なし得ざる高き境地を悟り得るものにあり。

まして、師の知らざる処にて、人情を以て道義と思い違いいたして事を成すなどとは、
もっての外の法をあやまるものにして、法であるべき師を無視いたして、
陰にかくれてなしたる言動は、皆法を無視いたしたる事となり、
一心に行ずればとて、到底法は生きず、従って如何に精進いたさばとて、
正しき法は身得いたされざるは当然の事なり。

人間の眼を如何にくらまさんとも、法の眼からはのがるるものには非ず。
さればこそ、如何に精進努力なさんとも、師を無視いたしては、すべて甲斐なし。

師は即ち法なり。
姿、形無き法は、師の言動に現わされ教えらるるものにあり。
さればこそ、師過てば
法は無し。

師たる者の責務とは、自ら法を生かせ、自ら姿なき御仏の姿となりて、
現わしゆくが故に尊く、ありがたき存在なり。

されば、人、皆師を選ぶべき事、第一の重大事なり。

師を選ぶべき己、盲なるが故に地獄の使いと知らずして、
共に地獄に堕ちゆく者、まことに哀れなり。
これ皆、自らの私心あやまてるが故なり。

即ち、人情に堕して、私利私欲と悟り得ざるが故の無智なる罪なり。

法は絶対なり。されば師も亦、絶対に過ちは許されざるなり。
さればこそ、弟子たる者の第一の義とは、絶対に師の心にそむかざる事、
即ち師の意を無視いたしたる行動は、己自らをぼう法の罪となす事となるなり。

一々に、師のみ心に順奉致すが故に尊き法も生かされ、
自らも亦、精進努力の甲斐現わるるものにあり。

法とは、かく絶対厳正なるものにあり。
いささかの過ちをも許されざる処に、真の価値あり。
故に、人間といたしては、成りがたき成仏の道も開かれゆくものにありて、
現世に生くる最高の道となり、又最大の功徳を身に受くるものなり。

求めて止まざる正法に、自らを過つが如き愚法あえていたしては、
甲斐なき精進悔い千歳に遺
すものなり。
しかと心に刻み置くべし。

 合掌


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