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人智人力の遠く及ばざる処に、まさに現し神とも申すべきは、
生くる密教行者の理想なり。
されば、その師とは即ち法なり。
師が道を過れば法は正しからざるものとなり、
師正しきが故に、法又正しきにあり。
正法とは、人情を越えたる処にありて、人情に堕して自らの道あやまれば、
如何に次第書通りに作法すればとて、法は生かされざるなり。
法とは、心正して、人情に堕さざる崇高なるものにあり。
されば人間同士、人情を以て道徳なりと思う処に事をなしては、
常にあやまるものなり。
心正すとは、人情を超越いたして、只一心に佛のみ心に順い、
何事につけても私心を捨てて無になりて、師の教えを順奉いたす処に、
人智にては分別なし得ざる高き境地を悟り得るものにあり。
まして、師の知らざる処にて、人情を以て道義と思い違いいたして事を成すなどとは、
もっての外の法をあやまるものにして、法であるべき師を無視いたして、
陰にかくれてなしたる言動は、皆法を無視いたしたる事となり、
一心に行ずればとて、到底法は生きず、従って如何に精進いたさばとて、
正しき法は身得いたされざるは当然の事なり。
人間の眼を如何にくらまさんとも、法の眼からはのがるるものには非ず。
さればこそ、如何に精進努力なさんとも、師を無視いたしては、すべて甲斐なし。
師は即ち法なり。
姿、形無き法は、師の言動に現わされ教えらるるものにあり。
さればこそ、師過てば法は無し。
師たる者の責務とは、自ら法を生かせ、自ら姿なき御仏の姿となりて、
現わしゆくが故に尊く、ありがたき存在なり。
されば、人、皆師を選ぶべき事、第一の重大事なり。
師を選ぶべき己、盲なるが故に地獄の使いと知らずして、
共に地獄に堕ちゆく者、まことに哀れなり。
これ皆、自らの私心あやまてるが故なり。
即ち、人情に堕して、私利私欲と悟り得ざるが故の無智なる罪なり。
法は絶対なり。されば師も亦、絶対に過ちは許されざるなり。
さればこそ、弟子たる者の第一の義とは、絶対に師の心にそむかざる事、
即ち師の意を無視いたしたる行動は、己自らをぼう法の罪となす事となるなり。
一々に、師のみ心に順奉致すが故に尊き法も生かされ、
自らも亦、精進努力の甲斐現わるるものにあり。
法とは、かく絶対厳正なるものにあり。
いささかの過ちをも許されざる処に、真の価値あり。
故に、人間といたしては、成りがたき成仏の道も開かれゆくものにありて、
現世に生くる最高の道となり、又最大の功徳を身に受くるものなり。
求めて止まざる正法に、自らを過つが如き愚法あえていたしては、
甲斐なき精進悔い千歳に遺すものなり。
しかと心に刻み置くべし。
合掌 |


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