檀信徒随筆集1995
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 「檀信徒随筆集」は、「かなくら山報」に寄せられた
檀信徒の随筆等を編集したものです。
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かなくら山報50号
『かなくら山報』第51号 1995/12/10

                       奥荒田 S・F

 檀家に配布される『かなくら山報』49号が届いた時にふと
思った。もう一枚で50号になる。
 それから暇あるごとに探した。「昭和62年5月30日発行、
発行責任者金蔵寺総代」と記されている。和尚様の「発刊の辞」、
6、7月の行事、「ご挨拶に代えて」の総代さんの名前は、Y・H、
K・Y、Y・Kの3人、編集後記には、「この一枚の通信が檀家の
みな様と寺院を結ぶ糸となり、益々連携を密にする『かけ橋』と
なることができれば何よりと存じます。」と手書きで刷ってある。
年3,4回発行の予定とある。
 なつかしく繰り返し読む。2号ない。3号ある。10,11月の
行事、御詠歌の稽古、お悔やみなど。また、「今回より副住職の
ご協力で、ワープロで編集していただきました。」と記されている。
 4号から10号までは紛失です。11号、12号13号ある。また、
14号・15号・16号雲隠れです。17,18号あって19,20号も
見あたらない。21.22号ありました。次23,24、25、26号ま
で全部ない。
 山報を一枚一枚読む。懐かしく思い、月々の行事、お悔やみ、
お大師迎えにお大師送り、和尚様の仏の教え、お寺の改造、
自動車参道のこと、総代さんの交替、お彼岸・お盆の説明、八日
会の奉仕、御詠歌大会、数々の行事、思い出に残る山報」です。
 そして、次は27号です。「写経会をはじめます 住職東野正明」
と記されてある。「和尚さんが交替されたんやな」 その時を思い
浮かべつつ読む。「住職になって2か月がまたたくまに過ぎた」と
書いてある。「急がしかったんやな」と思う。本堂のおやくっさんの
説明、八日会の募集、「かなくら文芸」と近代的に編集される。
 そして、50号まで、白青赤黄緑と色を取り合わせながら、御詠
歌とともに色々の行事、仏教を解説しながら編集されております。
その中でも、お寺の46年目の御開帳法会、稚児行列、餅投げ、
10日間にわたる大行事の記、また、晋山式の解説、楽しかった
 「高野の山は君を待つ」、檀家76名の高野山参拝、参拝の感
想文、これも心に残る山報です。
 昭和から平成へと指折り数えて9年、10年どっちかなと思いつ
つ檀家のみんなが知らなかったと思う「金蔵山案内」の本堂の説
明、和尚さんの真言の教え、身近な通信、「かなくら山報」50号
に思いをよせて読んでおります。  

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播磨奉納奉詠舞大会
『かなくら山報』第50号 1995/11/07

                       的場 K・K

朝曇りなる七時過ぎ
「バスが入ったよ」
友の威勢のよい声に
出際の思い独居が
ガスは切ったか
電気は消したか
玄関の戸締まり終えても
袈裟は持ったか
数珠あるか
ぼけた頭に問いかける

集合場所の警鐘台
今日出場の揃い服
黒のスカート白上着
清楚な姿もその昔
白百合の君と呼ばれし人もあり
静かな朝の一刻に
手繰り寄せつつ
今日一日立派に咲かせて見せましょう

カッコよい神姫バスにて姫路まで
二年ぶりなる出場に
心も身(からだ)も引き締めて

姫路の風にふれまする
その場に臨んで思う事
練習の如何にと感極まれど
人それぞれ
今後心に鞭打てはげまん
余生あるかぎり
手足まといの老婆にも
檜舞台が踏めるのも
御詠歌あってのありがたさ
南無大師遍照金剛     

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高野山参拝を終えて
『かなくら山報』第48号 1995/08/01

                    檀徒総代 奥荒田 K・Y

 今回金蔵寺の檀家を対象にした高野山参拝旅行を計画い
たしました。総代会で企画し、4月の金蔵寺運営委員会で
日程を7月15日(土)〜16日(日)と決めていただきました。
 5月初旬に参加者の募集を始めたときは、正直言ってど
れだけの人に参加していただけるか不安でしたが、そのう
ちに、「金蔵山の高野山参りなら、知り合いも誘うからつれ
にしておくれ…」 多くの方からこういう温かいことばをいた
だきました。
 一応の申込締切の6月10日現在で集計してみますと
53人、あとまだ何人かあるかもしれない、7月の暑い日に
無理矢理人を詰め込んで無理をして行くよりもう1台出して
ゆっくりと参っていただこうと決定。
 その後、続々と参加者が増え、奥荒田21名、的場34名、
寺内15名、中町・西脇市・滝野町6名、総勢76名。近年
他寺にはあまり例を見ない大勢の方のご参加を得ましたこ
と、大変ありがとうございました。
 2号車には、住職、奥荒田、寺内、中町の方、1号車に
は、名誉住職、的場、西脇市の方、2台のバスに分乗して
高野山へと向かいました。
 途中、九度山にある弘法大師のお母さんが住まわれた
という慈尊院に参拝。高野山登山口の「かじかドライブイン」
での昼食の後、バスは一路高野山へ。
 九十九折りの参道にさしかかってからは、バスの中で住職
の金剛流御詠歌とお話。弘法大師第1番から第3番までと
宗歌「いろは歌」を一緒に唱えたり、聞いたり、中には寝たり、
いつの間にか高野山の大門に到着。
 一の橋から奥の院へと約2キロに及ぶ参道には千年の歳
月を経た老杉木立。その両脇にある歴史上の数々の有名人
の墓を右左に見ながら、ことば巧みな案内人の語りかけ、後
で聞くと老僧の知り合いとか。我々一同、歴史の中に誘い込
まれるような気分でした。
 普段なら2キロといえば遠い道程もいつの間にか奥の院。
「高野山参拝和讃」に「霊杉(すぎ)の参道霧深く、玉川渡れ
ば奥の院、お大師さまの御廟前、この世の浄土高野山」と
歌われておりますが、みんな揃って御廟の前でお線香をあ
げて、「全員無事にお参りできました。」と般若心経と御詠歌
をお唱えいたしました。なぜか、ふと心の故郷へたどり着い
たような気がいたしました。
 宿坊光明院での夕食、食事は当然精進料理。何としても
圧巻は金蔵寺檀信徒76名の大宴会。皆一堂に会して知人
同士、友達また村人同士それぞれに席を取り、皆和気藹々、
同じ村の人であればわかっていても、やはり他村となれば
顔は知っていても話をしたことも亡いというお方が大勢あった
と思います。
 どんな集まりもそうですが、今回寺を通じてお互いが紹介し
合い、顔見知りになられた風景があちこちで見受けられまし
た。
 2日目は5時半起床、6時から光明院本堂でのお勤めに
全員参加。高野山の朝の空気は清々しく、梅雨期の最中
でしたが、15〜16日は我々のために晴れてくれたのかな
あと思う程よい天気でした。
 根本大塔はじめ金堂など、お山にある数々の伽藍を拝観
し、今旅行中の最大イベントである般若心経写経、授戒の
舞台である大師教会へ。
 まず般若心経一巻に各人それぞれに願いをこめて「南無
大師遍照金剛」と書きました。
 次に授戒と写経奉納式。お堂には200人位は入れるであ
ろう広さ。奥の方には弘法大師の御影(みえい)と灯明の明
かりだけ。隣に座る人が誰だかわからない程の暗闇。高野
山開以来1180年とか、ここに限らずどこでもですが、電気
がなかった時代は、このような生活を皆していたんだろうな、
今の我々何て幸せなんだろう、こんなことを考えました。
 待つ程に、暗闇の中、阿闍梨様が着座され真言宗の教え
の中の十善戒を授かりました。勿論そのお顔は見えません
が、一語一語諭すような、言うて聞かせるようなそのおこと
ばに弘法大師様が直接我々に言っておられるように思えま
した。
 引き続き先程書いた写経の奉納式に移りました。金蔵寺
から持参したものも含めて写経129巻を奉納、高野山真言
宗管長稲葉義猛(ぎみょう)猊下よりの感謝状を金蔵寺に
いただきました。
 普通の旅行やお寺参りでは到底味わえなかった素晴らし
い体験が思い出として心に残ることでしょう。私だけでなく
参加された皆様方も一様に同じ想いではなかったかと思
います。
 この後、総本山金剛峯寺・徳川家霊台と拝観し高野の
山をあとにしました。
 下りる道すがら、ようも千何百年も昔に、大した道もな
かっただろうに、あれだけのものがようできたなあと感心
いたしました。
 金蔵寺主催ということで住職様ならびに名誉住職様
には大変ご苦労をかけましたが、おかげさまで充実した
参拝ができました。また、宿坊の光明院様にも金蔵寺様
と親戚関係ということで特別寛大なお接待を受けましたこ
と厚くお礼申しあげます。
 振り返ってみて、「よかったなあ。こんなに大勢の方に
参加していただいて。」
  仏教のことばの中に「悟り」ということばがありますが、
この「悟り」は多分ことばに言い表せないものでしょう。
でも何か頭の中にふと何ともいえない喜びか満足か
得心かそのようなものが浮かんできます。
 企画してから約半年、今年度の金蔵寺の一大イベントと
しての檀家だけでの高野山参り、住職様が晋山されて
初めての試みとして取り組みました。時期がよかった
のか、それとも皆様がそのようにお思いになっていたのか、
想像もしていなかった大勢の方々のご協力により、かくも
盛大な行事ができましたこと、住職ともども大変嬉しく思い
ます。
 また、次の機会には、一人でも多くの方に参加していただ
きますようどうぞよろしくご協力の程お願いいたします。

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高野山参拝に想う
『かなくら山報』第48号 1995/08/01

                    的場  K・K

高野参りの観光バス
吸い込むごとく参加者迎う
心うきたつこの旅を
降らず照らずの好天気
手を振る家人を後にして
頼みますよと目が笑う
今日大安の出発日
村中今日明日寂しかろう

道中立ち寄る慈尊院
女人高野と名も高く
語りつがれる九度山を
大師と母公の物語
孝行松の見事さに
不孝者にも孝の字に
見えて法話は終わるなり
漬物とお茶の接待ありがたく
おみくじ引けば末吉と
明日を占う旅日和

かじかの昼食美味なりて
海老がうろうろ浮気する

一の橋から奥の院
一八丁を三時間
案内人のメガホンに
聞き洩らさじと
続く高野の石畳

光明院の宿坊に
今宵一夜の夢結ぶ
善男善女老若の
笑顔もたえず時よとまれと

金蔵のお得意さまの三嶋にて
何回となく土産物
買うて楽しむ身分眺めて
楽しむばかり

帰路もかじかの昼食に
柿の葉ずしの美味なりて
ああ幸せと言いたき一時

帰路に河内の観心寺
過ぎし彼の日蓮華寺に
聞きし法話の名僧に
再会できしよろこびを
僧を称えばまた僧も
吾が住職を学者と称えくだされし
爽快感に浸りて辞せり

吾が村は土の性かとふと思う
芸の達人総揃い
歌手はだしで逃げるほど
歌の上手に見なおすばかり
歌手誕生遠くない

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うちの阿弥陀はん
『かなくら山報』第47号 1995/07/01

                    的場  K・K

 子供の小指程の仏像が古ぼけた小さなお堂の中で立っておられる。我が
家では阿弥陀はんと拝んでいる。我が家に鎮座なされてから140年は経っ
ている。その頃横達さん付近に住居があったとか。その畑の中から出てこ
られた仏像で、その頃の名僧が阿弥陀様であることを教えてくだされたらし
い前後は判っても大変に傷ついておられるお姿である。
 仏像には間違いなく、身内の者は「金だ!金だ!」と騒ぎ立て火箸をあて
て溶け具合をみて、「金に間違いなし。売ろう。」と決め中町の叔母が持ち
帰った。
 その翌朝、祖父を起こしたところ、耳が聞こえなくなっており、「夢枕に阿
弥陀さんが立たれた。早う取り返して来い。」とのこと。父が早速走ったと
か。まだ売られておられず取り戻すことができた。
 その後は大事大事とあまり手に触れないようにして拝んでいる。あの世
への救いはとってくださると父母が話しているのを子どものころに聞いて
いた。
 母が不治の病床永く、「早う救いとってほしい。阿弥陀はんをいただかし
てくれ。」と何遍も言っていたけれど、父は聞き入れず、仏間の戸を釘付
けにしたことを覚えている。それでも、最後に阿弥陀様を拝んで美しく息を
引き取って逝った夜を忘れることはできない。
 その後は噂になって、あっちこっちへ阿弥陀はんも出張なされ、救い
とっておられた様子で、我が家の仏前に留守の時もあって、父が、「早う
もろてこんとあかん。」などと言っていた日もあった。
 うちの阿弥陀はんは金やと言っても、金ならば輝いているのではないか
と思う。金かと思えば真鍮だったというようなことであろうか。
 毎日見守られて生きていることの幸福に感謝しながら、余生を尋ねても
返事はないが、よい頃に救いとってくださいと拝んだり拝がまなんだり…。
 自分勝手なことを書いていると阿弥陀はんに笑われますから筆を止め
ます。

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