『多可参与会通信』への寄稿
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金蔵寺・蓮華寺住職として、『多可参与会通信』に発表した年代です。

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ナンバーワンよりオンリーワンを!
『多可参与会通信』第53号(2000/10/27)より


  「私たちがこれから目指す人間像は、従来のようにナンバーワンではなく、
オンリーワンである。」
  このことばを聞いた時、私ははっとしました。八月十八日、加美町交流会館
での「二十一世紀へのまちづくり講演会」でのことです。講師は、吉本興業株
式会社常務取締役の木村政雄さんという方でした。演題は「元気なまちづくり
は、人づくりから」ということで、吉本興業のタレントの例を出しながら、軽妙な
語り口の中にきらりと光ることばがあり、笑いと驚きの連続でした。
 「第三次加美町総合計画づくりに向けて」という副題を持つこの講演会に、
吉本興業の方が来て講演をされるのを知ったのは七月下旬のこと。八月
十八日の夜ということを知らされて、金蔵寺の盆・施餓鬼の行事が一段落する
日でもあるので、まあ、お笑いもいいだろう、というような野次馬根性丸出しで
参加した私でしたが、終始考えさせられることが多い講演会でした。
  何事においても、最も優れているというナンバーワンを目指すなら必ず競争
が起こり、ナンバーワンになった一人を除いて全員が希望を達成できません。
ところが、自分が他人とは違った独自性をもつオンリーワンを目指すなら、それ
ぞれが個性を持った一個の人間として認められるわけですから、全ての人に必
ず希望があるわけです。
 木村さんは、現代という時代を政治・経済・社会等の様々な観点から分析し、
この先行き不安な時代・激変する現代を乗り切るためには、大昔から昨日まで
の支配的なひとつの考え方にすぎない「常識」では対応できない。新しい問題が
続出する中で、この新しい問題を解くには新しい方程式を立てなければ解けない。
その新しい考え方のひとつとして、人間像としては、ナンバーワンを目指すという
従来の考え方ではなく、オンリーワンを目指す新しい考え方を打ち出したかった
のだと思います。
  どちらが、人権を尊重する人間像であるかは明らかですね。
  ところで、釈尊が、この世に生を受けられたとき、六歩半お歩きになって、右手
を上げて天を指さし、左手を下ろして地を指して、「天上天下唯我独尊」(てんじょ
うてんが、ゆいがどくそん)とお叫びになったという話をご存じの方も多いと思いま
す。
  このことばは、今もって多くの人たちに誤って使われ、また誤った解釈がなされ
ています。「この世の中で自分だけが尊く、また、自分ほどえらいものはいない。
我こそが天下国家を統治する指導者である」との独りよがりのことばとして解釈を
する人が今でもいますが、このような誤った解釈は、実は、ナンバーワンを目指す
考え方からくるのではないか、と思いながら講演を聴いていました。
  釈尊のことばは、「天上天下、ただ我一人にして尊い」、すなわち、全宇宙のい
のちと恵みを一身に受けて、一人の人間として生まれてきた素晴らしさを、尊さを
お叫びになったことを意味します。これは釈尊だけのことではなく、私たち一人一
人の人間が、人間として唯一無二の身体を持って生まれ出たという意味で、この
叫びは人間の誕生の喜びの声であったのです。
 生まれながらにして私たちは、一人一人尊い身体・ことば・心を持っています。
この「生まれながらにして一人の仏である」という自覚が仏教信仰の基本です。
釈尊のご誕生の時の叫びは、釈尊が競争社会においてトップに立つことを目指
すというナンバーワンの生き方ではなく、人間社会における一人一人の人格を
認めるオンリーワンの生き方を目指されたのだ、と考えるとより理解しやすいの
ではないでしょうか。
  この夏、ある酒の席で、私の同級生の消息をしきりに聞いてきた人がありまし
た。「○○さんは、どうしておられますか」というごく普通の会話でした。ところが
次第に彼の質問の中心が、私の知人がどんな人間かということよりも、どんな職
業に就いているか、どんな会社・団体に属しているかに移ってきたようです。私は、
自分の知っていることを話しました。そして、その話の最後に、「その中で、一番の
出世頭は誰ですか。」と聞かれましたので、私は、木村さんの講演を持ち出して、
自分がオンリーワンになることの大切さ、ある一人だけが浮かばれるのではなく、
私たち一人一人が浮かばれる話をしようと言ったものです。
                   〔『かなくら山報』第91号(2000/09/08)に修正加筆〕

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