『加美仏教』への寄稿1970〜79
最終更新 

蓮華寺住職として、『加美仏教』に発表したものです。

ホーム かなくら雑筆集

 「ルーツ」の教えるもの
            『加美仏教』第23号(1977/11/01)より

 10月になって、久しぶりに見応えのあるテレビ番組を見た。アメリカの
テレビ映画「ルーツ」だ。これは、アレックス=ヘイリーという人が、12年が
かりで、自らの祖先を追跡調査してまとめた歴史物語の映像化である。
 今から約200年前、アフリカで平穏な生活をおくっていたマンディンカ族の
クンタ=キンテが、ある日、太鼓を作るために木をさがしにいく途中、突然、
白人に生け捕られ、奴隷船でアメリカに連行され競売に付される。飼いなら
され、祖国のことばを奪われ、白人に従順な奴隷が多い中で、彼はただひ
とり、鎖につながれながらも、自由を求めて抵抗を続ける。脱走に失敗し、
足を切られても屈しない。むちでいくら打たれても、白人からつけられた
トビーという名前でなく、親からもらった誇り高き名クンタ=キンテを口にす
る。
 自由を求めてのあくなき抵抗。その中で、彼は、誇り高きマンディンカ族
の歴史を子孫に伝える。そして、ついに100年後、彼の子孫は自由を勝ち
取るのだ。
 私たちは、この映画から様々な教訓を得ることができよう。私が訴えたい
のは、単に、黒人差別の残酷さではない。≪差別の意識構造≫である。
 クンタ=キンテが競市にかけられようとした時、パトリック=ヘンリーの演
説会があることを知らされた奴隷商人が、「私は、パトリック=ヘンリーの
演説には大いに共鳴している」という場面がある。
 パトリック=ヘンリーは、当時、ますます強化されつつあったイギリス本国
政府の植民地政策に真っ向から反対して、熱烈にアメリカ植民地の独立を
説いてまわった人だ。「自由を与えよ。しからずんば死を!」という彼の演説
は歴史上有名である。
 このヘンリーに共鳴する奴隷商人の心のあり方が問題だ。植民地人とし
ての自らの自由は主張しても、黒人の自由は平気で無視して競市を始め
る。イギリスの植民地政策の非人間性は見抜けても、奴隷に対する自らの
非人間性は見抜けないのだ。
 このような白人は、南北戦争後、奴隷が≪解放≫された時、決して喜び
はしなかった。それどころか、奴隷解放によって、奴隷と同じ身分に落とさ
れたと感じたのだ。
 私たちは、この奴隷商人たちの意識を、100年前の、あるいは海の向こ
うの問題として見てはならない。
 わが国には、同じ国民同士の部落差別の問題がある。明治4年8月の
「解放令」で、部落の人々は、身分も職業も≪平民同様≫とされたが、これ
を喜ばない人々がたくさんいた。
 同年10月、播磨国市川の流域で「解放令」反対をスローガンにかかげた
一揆がおこり何千もの人々がこれに参加した。
 さらに、問題にすべきは、当時の県当局がこの一揆の鎮圧に部落差別を
利用したことである。県の「告諭書」をみると、「昔の身分の程を考えていば
ることのないように」と部落の人々に言い聞かせ、他の民衆を、「部落の
人々と婚姻せよというわけでもないし、友人となって特別に親しくせよという
わけでもない」となだめていることがわかる。
 また、「解放令」発布直後、私たちの多可郡では、「郡中諸事取締之事」と
いう申し合わせをしている。これは、「部落の人を雇い入れてはいけない」と
いうものであり、この申し合わせに違反すると、村々の掟で処罰するという
但し書きまでついている。
 部落解放を求める多くの人々のねばり強い運動によって、「同対審答申」
や「同和対策事業特別措置法」が出されたため、現在では、昔のような露
骨な差別はなくなりつつある。もはや差別を是認する人はあるまい。
 しかし、残念ながら、根こそぎ絶えたと言いきることはできない。 なぜ
か。私たちの意識構造に問題がありはしないか。
 明治初年の民衆の意識は、何か自分より下の者をつくらねば安心でき
ないという人間のあり方、何とかして、また、何らかの意味で他人より上で
ありたいという意識ー私は、これを、≪差別の意識構造≫と呼びたいーで
はないのか。このような意識は、今日の私たちには、絶対にないと断言で
きるだろうか。
 この≪差別の意識構造≫は、やっかいなことに、ふだんは、意識されて
はいない。「差別をしよう」と意識して差別をする人などいないからだ。差別
発言を糾弾された人が、いつも「そんなつもりではなかった」とか「無意識の
うちに…」とか言うように、差別は無意識になされる。「私は、こう見えても、
士族の出身でしてねえ」という人は、自己の差別性には気づいていないの
だ。
 差別の存在は、すべての人々を不幸にする。差別される人は勿論のこ
と、差別する人にも、差別される不安はつきまとう。
 差別を温存してきた≪差別の意識構造≫が、自らの生活の中になかっ
たかどうかを点検することが、差別解消への一つの営みになると言えよう。

TOP ホーム かなくら雑筆集