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「加美仏教』第189号(平成18年3月10日)
南正文さんのこと
       
金蔵寺 東野正明

 二月のある日、日本画家の南正文さんの『活きる』ーあなたにできる事ー という講演を聞く機会が
ありました。南さんは昭和二十六年九月、大阪の堺に生まれました。小学校三年生の春休みに製材業
を営む父を手伝っている時、機械のベルトに巻き込まれて両腕を失ってしまいました。
 この事故のために手のない不便な生活を余儀なくされた南少年は、周囲の冷たい目に耐えながら、
二年遅れて、養護学校へ四年生から入学、やがて足で鉛筆を持って字を書くことを覚え、口と足と肩を
使って勉学と生活訓練に励みました。
 十四歳の時、近所の人のすすめもあって、両親と共に京都の大石順教尼を訪ねました。
 大石順教尼は、明治二十一年、大阪の道頓堀に生まれ、本名を大石よねと言います。十七歳の時、
舞踊の修業を指導していた養父が狂乱の末、一家五人を斬殺するという「堀江六人斬り事件」の巻き
添えとなり両腕を失いますが奇跡的に生還します。 その後、絶望と周囲の好奇の目に耐えつつ、巡業
芸人生活、画家との結婚、二児の出産、離婚などを経て、高野山にて金山穆韶大僧正について出家
得度、名を「順教」と改めます。
 この間、巡業中十九歳の時、カナリヤが雛を育てるのを見て、口に筆をとることを思いつき、以後、
独学で書画の勉強に励まれたということです。
 昭和十一年には京都山科勧修寺境内に身障者福祉相談所「自在会(のち仏光院)」を設立し福祉
活動に献身する一方、口で筆をとり絵画・書に励み、昭和三十年、口筆般若心経で日展書道部入選、
同三十七年には世界身体障害者芸術家協会会員として東洋初の認証を受け、昭和四十三年、八十歳
にて遷化されました。(以上、大石順教『無手の法悦』春秋社、参照)
 南少年が訪ねたのは、順教尼の晩年でした。
 順教尼は、少年の両腕を失ってからの身の上話をすべて聞いた後、「分かった。私の弟子になりた
かったら、三つだけ条件がある」と言って、次の条件を提示されたそうです。
 一つは、堺から京都まで一人で来なさい。そして、今までは足を使っていたかも知れないけれども、
これからは口を使いなさい。そして、三つめは、絵を描きなさい。勉強しなさい。
 これを聞いて、少年は、耳を疑いました。一人では何もできません。絵は嫌いです。足で一所懸命
やっていたのに口を使いなさいとは、・・・。自分の今の気持ちと全く反対のことを提示された少年は、
普通だったら、心に余裕があったら、嫌ですと言って断るところ、今回は藁をもつかむ思いで順教尼
を訪ねていますので、「弟子にしてください」とお願いしました。
 そして、一週間後、南少年は一人で堺から京都まで交通機関を五回乗り換えてやっとの思いで
仏光院に着いたのです。
 「よう来た。よう来た。」と温かく迎えてくれた順教尼に、その日の出来事を次から次へと話したそう
です。トイレに行かなくてもいいように考えたこと、また、切符はどうして買ったか、その時々に出会っ
た様々な人々の態度・・・。親切な人、気持ち悪がる人、・・・。あんな事もありました。こんな事もあり
ました。
 順教尼は、少年の話を全部聞いた後、「よかった。よかった」と言われたので、「何がよかったの
かなあ」と思っていると、
「 切符を買ってくれる人はいい人、買ってくれない人は悪い人、そうではないんだよ。みんな、あなた
にとっては先生なんだよ。」「世間に出れば、あんな人もいる、こんな人もいる、とその人を通して
みんな、教えてくれたのだから。」
 順教尼は、南少年に一人旅をさせることによって、世間を経験させ、人間としての生き方の修行
の第一歩を踏み出させたということでしょう。
 南さんの話から、順教尼の思いの深さと含蓄あることばを沢山聞きました。
 日本画を描くときには、紙を下に置いて、それに口にくわえた筆で描くその姿勢のために肩こり
に悩んだ南少年は、順教尼に、「足を使ってはいけませんか」と問うと、順教尼は、少し顔色を変
えて、「日本画は、どこに掛けてもらうのですか。床の間や応接間に、買ってもらって、大事なところ
に掛けてもらうものでしょう。足で描くのは失礼なことです。」「足で描いても人には分からないかも
知れないが、足で描くのと口で描くのとは違います。人が見ていないからと言っていい加減なことを
してしまうとそれが習慣となってしまう。人が見ていたらいい格好する。見ていなければ、目に見え
ないところでどれだけ真心を尽くせるかということがその人の生き方で表面に出てくるんだよ。」
 「毎日毎日の積み重ねることが大事なんだよ。それが人の個性なんだよ。」
 「一人で生きていく努力をしなさい。しかし、皆さんに支えられて生きていることも忘れないように。」
 「人のできることは誰でもできる。人のできないことをしなさい。」
 
 血のにじむような努力の結果でしょう。やがて、南さんは、一人でトイレを使うこともできるように
なり、そして、自転車に乗り、水泳、スキーなどのスポーツ、アイロンかけ、料理、掃除、洗濯など
全部できるようになったということです。
 これら日常生活の中で、最も困ったのはボタンかけでした。あれこれとやっているうちに、もう
どうでもいいという考えが起こる。いや、だらしない格好をしているとだらしない気持ちになる。
「人の見ていないところに真心を尽くせ」という順教尼の教えを思い出し、毎日毎日、一日六時間、
七時間という練習を繰り返す。ある時、ボタンがかかった。時計を見ると四時間もかかっている。
これでは駄目だ、もっと速くしたいということで、やがて三時間、一時間、三十分、そして今では
数秒でできるようになった。「できないことと、しないことは意味が違うんだ。」という順教尼のことば
を思い出す。
 「体はいくら障害があっても致し方ないが、心の障害者になってはいけない」という順教尼の教え
を受けて南さんは言う。
 「障害を持つことが不幸ではないのです。それをどう生きていくかが大切です。できないのでは
なく、やろうという努力からいろんな事が学べるのです。」
 
 一時間におよぶ南さんの話を聞いて、静かな語り口の中に秘められた生きる力のたくましさと
他のものへの思いやりとやさしさを感じました。
 最後に、南さんが聴衆の前で、口に筆をとって実際に「他のものへのやさしさ」と色紙に書いた
時、話の内容とその字のすばらしさに打たれた満場の拍手が鳴り響きました。
 それにしても、学校の宿題の絵を絵の上手な友人に描いてもらって自分は少しだけ手を入れ
て提出するほど絵が嫌いであった南少年。その彼がなぜ、という疑問が残ります。
 「好きこそ物の上手なれ」というのは本当でしょうが、能力が発揮されるのは、単純な好き嫌い
からではなく、もっと深いところにあるのでは・・・と考えさせられました。
 次に、南さんの描かれた絵画が掲載されているサイトを紹介し、筆を置かせていただきます。
http://www.mfpa.co.jp/shoukai/minami-m/main23.html

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