親鸞伝 善信聖人親鸞傳絵  原本は日本語Wikipediaより転写、学習のためHP上で変更しています。



あんじょうのごえい
安城御影
幼名 松若磨・松若丸・十八公麿
俗名(配流時) - 藤井善信(よしざね)
法名 〔叡山修行時〕範宴
〔吉水入門後〕綽空⇒善信(ぜんしん)
〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞
〔房号〕善信房
諡号 見真大師(1876年追贈)
尊称 親鸞聖人・宗祖聖人・開山聖人
生地 京都法界寺付近
没地 京都・善法院(押小路南万里小路東)
宗旨 浄土真宗
著作 教行信証』、
大谷本廟(本願寺派)
大谷祖廟(大谷派)
御廟拝堂(高田派)
佛光寺本廟(佛光寺派)他

法然
弟子 (厳密には、親鸞に師事した人物)
善鸞如信、河和田の唯円
二十四輩性信真仏順信乗然、
信楽、成然、西念、證性、善性、是真、
無為信、善念、信願、定信、入西(道円)穴沢の入信、念信、八田の入信、
明法(弁円)、慈善、唯仏、戸森の唯信、
畠谷の唯信、鳥喰の唯円、他

安城御影(国宝 西本願寺所蔵)


親鸞聖人生存中の姿を描いた「安城御影」の服装や所持品などが、念仏聖たちのものと一致する。親鸞聖人は晩年に『善光寺如来和讃』を作って、「善光寺の如来の、われらをあはれみましまして、なにはのうらにきたります(善光寺の阿弥陀如来は私たちをあわれみ救うために、百済(朝鮮半島の国)からはるばる日本の難波(大阪)の港にわたって来られた)」といっている。また『親鸞聖人伝絵』に親鸞聖人の姿を描こうとした絵師が「夢にみた善光寺本願の御房とそっくり」と言ったという話がしるされ、善光寺と親鸞聖人とは深い関係があった。




親鸞(しんらん、承安3年4月1日旧暦〈1173年5月21日ユリウス暦〉 - 弘長2年11月28日〈1263年1月16日〉)は、鎌倉時代初期の日本の僧

浄土真宗の開祖(宗祖)とされる (浄土真宗の開祖(宗祖)と定めたのは、本願寺三世覚如である。) 。
同宗旨では、「親鸞聖人」と尊称される。
明治9年(1876年)11月28日グレゴリオ暦に明治天皇より「見真大師(けんしんだいし)」の諡号を追贈されている。

* 本項では、暦の正確性、著作との整合を保つ為、旧暦表示(性歿年月日を除く)とした。




親鸞は、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

一部の研究者は、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説が提唱された。しかし大正10年(1921年)に、西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状『恵信尼消息』10通が発見され、その内容と親鸞の動向が合致したため、実在したことが証明されている。小豆が好きであった。

明治9年(1876年)11月28日に明治天皇より「見真大師」(けんしんだいし)の諡号を追贈されている。真宗仏光寺及び東西本願寺の御影堂の宗祖親鸞の木像の前にある額の「見真」はこの諡号に基づく。



影響を与えた人物・書物

* 七高僧…称名念仏の教えを説き示し、受け伝えた高僧として、以下の7人を挙げている。

インド仏教
 ・龍樹菩薩…『十住毘婆沙論』「易行品」、『十二礼』  
 ・天菩薩(世親菩薩)…『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)』

中国仏教
 ・曇大師(どんらんだいし)…『無量寿経優婆提舎願生偈註(浄土論註)』、
         『讃阿弥陀陀佛偈』
 ・道禅師(どうしゃくぜんじ)…『安楽集』
 ・導大師…『観無量寿経疏(観経疏)』、『往生礼讃偈(往生礼讃)』、
         『転経行道願往生浄土法事讃(法事讃)』、
         『依観経等明般舟三昧行道往生讃(般舟讃)』、
         『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門(観念法門)』

日本仏教
 ・源和尚(げんしんかしょう)…『往生要集
 ・源聖人(法然上人)…『選択本願念佛集

* 聖徳太子…「和国の教主」として尊敬し、観音菩薩の化身として崇拝した。
         『十七条憲法


教え
親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐のである『大無量寿経』が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した。如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、ただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。

教義に関しては、各派により解釈などが異なるため下記のリンク先を参照の事。

真宗各派における教義に関して
教義・教学の項目について


* 浄土三部経」と総称される、釈尊により説かれた『佛説無量寿経』、『佛説観無量寿経』、『佛説阿弥陀経(小経)』を、拠り所の経典と定める。
特に『佛説無量寿経』を大無量寿経(大経)」と呼び、教えの中心となる経典として最重要視した。
* 阿弥陀仏にこの世で救われて「南無阿弥陀仏」と報謝の念仏を称える(称名)身になれば、死ねば阿弥陀仏の浄土(=極楽)へ往って、阿弥陀仏と同じ仏に生まれることができる。
なぜなら阿弥陀仏によって建てられた48の誓願(=四十八願)が完成されており、その第18番目の願(=本願)である第十八願に「すべての人が救われなければ、わたしは仏とはならぬ」(「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」)と誓われているからである。
この為、人(凡夫) が往生出来るのは阿弥陀仏の本願によってであり、この理(ことわり)を信ずること(=信心)によって、往生する事が出来る(易行道)とし、信心正因称名報恩という。
しかも、この信心も阿弥陀仏から賜ったものであるから、すべてが阿弥陀仏の働きであるとし、これを他力本願(たりきほんがん)と呼ぶ
ここで言う人(凡夫)とは、仏のような智慧を持ち合わせない人を言う。自力で悟りを開こうとする人(難行道を選ぶ人)を否定するものではない
また、正信偈に「彌陀佛本願念佛 邪見?慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯」とあり、誤り無く信心を持ち続けるのは、非常に難しい事だとも述べている。
* 他力とは阿弥陀仏の働き(力)を指す
「他人まかせ」や「太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働き」という意味での使用は、本来の意味の誤用から転じ一般化したものであり、敬虔な浄土真宗信者(門徒)は、後者の表現を嫌悪・忌避する。
* 「悪人正機」と呼ばれる思想も親鸞独自のものとして知られている。
既に親鸞の師・法然に見られる思想であるが、これを教義的に整備したのが親鸞であるともいわれる。
『歎異抄』に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無い)」と有るのは、上記「他力本願」とも関係する思想であるが、その意味は、<人(凡夫) は自力で善(往生の手段となる行為)を成すことは不可能である。
人(凡夫)はすべて悪(往生の手段とならない行為)しか成せない。
だから、悪人と自覚している人の方が、自分は善人だと思っている人より、本願により救われる道を自覚している事になる>という逆説的な表現である。
大乗無我思想のひとつの到達点といえる。
* 阿弥陀仏に救われている私であるとして、信一念時に、死んで極楽浄土に往生出来る身に定まった現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)の身となり喜ぶことを勧めた。
この考え方は法然を超えたもので、浄土宗と浄土真宗の教義上の違いの一つである。



生涯  参考文献として「親鸞聖人正明傳」存覚作を附す

親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多く、研究中であり諸説ある。また本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、弟子が記した書物(『御伝鈔』など)によるところが多い。それらの書物は、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。
年齢は数え年とし、日付は文献との整合を保つため旧暦(宣明暦)表示とした(生歿年月日を除く)。


 時代背景 [編集]

 永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる。(「末法」の到来を参照。)
 保元元年(1156年)7月9日保元の乱起こる。
 平治元年(1159年)12月9日平治の乱起こる。
族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。

御伝鈔 上

   本願寺聖人親鸞伝絵 上

出家学道

【1】 それ聖人(親鸞)の俗姓は藤原氏、天児屋根尊、二十一世の苗裔、大織冠[鎌子内大臣]の玄孫、近衛大将右大臣[贈左大臣]従一位内麿公[後長岡大臣と号し、あるいは閑院大臣と号す。贈正一位太政大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息なり]六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫皇太后宮大進有範の子なり。

しかあれば朝廷に仕へて霜雪をも戴き射山にわしりて栄華をもひらくべかりし人なれども、興法の因うちにきざし、利生の縁ほかに催ししによりて、九歳の春のころ、阿伯従三位範綱卿[ときに従四位上前若狭守、後白河上皇の近臣なり、上人(親鸞)の養父]前大僧正[慈円慈鎮和尚これなり、法性寺殿御息、月輪殿長兄]の貴坊へあひ具したてまつりて、鬢髪を剃除したまひき。範宴少納言公と号す。

それよりこのかた、しばしば南岳・天台の玄風を訪ひて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなへに楞厳横川の余流を湛へて、ふかく四教円融の義あきらかなり。



誕生
* 承安3年4月1日親鸞は、自伝的な記述をした著書が殆ど無い(もしくは、現存しない)為、「出生日」、「幼名」、「婚姻の時期」「歿地」など不明確(研究中)な事柄が多く様々な説がある事に留意されたい。(太陽暦換算:1173年5月21日本願寺派高田派などでは、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、入滅日を1月16日に改めた。大谷派佛光寺派興正派木辺派出雲路派誠照寺派三門徒派山元派などでは、旧暦の日付をそのまま新暦の日付に改めた。)に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮の大進(だいしん)・日野有範(ありのり) (最近の研究では、出自を日野氏とする事に疑問とする意見もある。) の長男として誕生する。母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光女(きっこうにょ)参考文献:真宗聖典編纂委員会 編『真宗聖典』真宗大谷派宗務所出版部、1978年、ISBN 4-8341-0070-7。」 (母の名は、「貴光女」とも。) とされる。幼名は、松若磨参考文献:高松信英・野田晋 著 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年刊行、ISBN 4-8341-0164-5。」、「松若丸参考文献:瓜生津隆真・細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年新装版、ISBN 4-8318-7067-6。」 (幼名は他にも、「十八公麿」「鶴満丸」「忠安」などが伝わる。) 。 

承安3年(1173年4月1日[14][15]グレゴリオ暦換算 1173年5月21日[2][16])に、現在の法界寺日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進[17] 日野有範(ありのり)の長男として誕生する[18]。母[15]は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光女」(きっこうにょ)[19]とされる。幼名[15]は、「松若磨[19][20]」、「松若丸[21]」、「十八公麿[22]」。

治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。

治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)
戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。


法界寺


親鸞聖人正明傳
 釈親鸞聖人、姓は藤氏、大織冠鎌足の苗裔、勘解由相公、有国五代の孫、皇太后宮大進有範卿の嫡男なり。母は、源氏、八幡太郎義家の孫女、貴光女と申しき。常に意を菩提の道に帰せり。
入胎
(にゅうたい)五葉(ごよう)の夢
 一宵、浮世の無常を観じ、ひとり西首して臥したまう。夜まさに半ならんとする に霊夢あり、忽に光明ありて、身をめぐること三匝、ついに口より入れり、貴光女おどろき、臥ながら光のきたる方所を見るに、枕の西に一人あり。面容端厳に して、瓔珞のかざりあり。すなわち告げてのたまわく、我は如意輪なり、汝に一男子を授くべしと云云。貴光女、是より有胎いませり。 
 承安三年、夏のはじめ誕生まします、御名を十八公麿ともうしき。生れて仲冬より、起居歩行したまう。人みなあやしめり。常に念珠を採り合掌し、経巻を見てはこれを戴拝するの癖ましませり。
 安元二年二月十五日、晩景のころ、十八公麿ひそかに庭におり、泥沙をもて仏像三躯を造りてこれにむかい、礼拝恭敬あることしばしばなり。
 同年の夏、厳父后宮大夫逝去あるのあいだ、十八公麿、舎弟朝麿ともに、伯父業吏部(若狭守範綱)の猶子となり、しばしば俗典をならい、聚蛍のみさを、か つて懈りなし。七歳の春より倭歌の御稽古あり、歌集なむども多くよみおぼえたまう。八歳のとき、南家の儒士、日野民部に従て、儒典の本経なんどを読みわた りたまえり。

 八歳五月の末のころ、御母堂貴光女かくれ給えり。いまだ、四十にたらぬ御齢にて侍りき。臨終のとき、範綱卿夫婦を呼びまいらせて申されけるは、二人の幼兄ども、四歳にして先考におくれ、八歳にしてまた母をうしなう、故にためしなき単孤無頼の者にてはべるなり。かならず、二人ともに出家となし、父母の菩提 をとむらわせさせ給うべし。さりとても、足下にましませば、有範世におわさんよりも頼敷くこそさぶらへと。涙の裏にのたまいければ、二位殿も、猶子は我児 に比すと古より申伝え侍り。露ばかりも、意にかけたまうことなかれ。ひとすじに菩提の道に赴きたまわんことこそあらまほしけれと。御返事あれば、貴光女、歓喜のいろ面にあらわれ、仏号を七八十返ばかり唱えて、安らかに身まかりたまいき

 十八公殿は、この嘆にしずみ、痩おとろえて、起もあがらすおわしけり。三位範綱卿みるにも忍びがたく、『法華経』の中『四要品』をおしえ、是にて先妣の菩提を弔うべし。何ぞ哀傷に沈みて、益なく月日を送らんこと、却て不孝の咎なるべし。諌を容れられければ、十八公殿、この諌にちからを得て、昼夜をわかた ず要品を読誦し、あまつさえ法華八軸みなみなに暗誦するばかりに読みおぼえたまう。是よりしきりに出庫の志もよおして、今年の明くるを待わびたまいき。

 誠に宿善のきざし既に発し、済度の強縁とき至れるものか。無勝化来の世雄すら、老病死の誘を得ながら、しばらく宮中色味の絆にまとわれたまえり。況や、凡夫の身に於てをや。殊に御父は唇纓高貴の人にて、母なん武門権勢の頼あり。今もし愛別の悲に因りたまわずは、発心の御企もなからまじ。賢くも、父母には 別れ給いき。是時、御発心もなくて朝廷に衣冠をかがやかし、射山に長裾をひく御身にて止りたまわば、末代凡愚の輩、いかでか生死の昏衢をてらし、涅槃浄楽 の道路を知ることを得んや。しかあれば、今師の発心の端的を以て、すなわち凡夫迷情の信心開発の時節なることを知るべし。一華ひらくれば、これ天下の春なればなり。



得度

* 治承5年(1181年)9歳、京都青蓮院(しょうれんいん)において後の
天台座主慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。

伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、

「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。


青蓮院(宸殿)
お得度の間

 親鸞聖人正明傳
 九歳の春のころ、御出家なり。是は、先考有範卿終焉の時、かねて遺言あり。今年春の初より、十八公麿しき りに伯父三位へ薙染の請達ありければ、若狭守殿も、今は力及ばずとて、青蓮院前大僧正、慈円和尚の禅室にともない給いて、御出家を遂げらる。戒師は大僧正 (于時二十七歳)十八公麿(九歳)権智房阿闍閲正範と申人ぞ、除髪をつとめられける。御名を範宴少納言と授けたまえり、于時養和元年三月十五日なり

叡山での修行
* 出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏(ふだんねんぶつ)の修行をしたとされる比叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。

 親鸞聖人正明傳
 同年、叡峯によじのぼり、入壇して円頓菩薩の大戒を受けんとす。大衆さえぎりて云く、夫円頓の大戒は一得永不失の妙戒にして、上古よりこのかた伝々相承 の科々〈しなじな〉あり。十歳未満の人、此戒場を践むこと、いまだ先蹤を聞かざるところなりと。和尚の仰にいわく、抑伝法受戒は其人の器を見るにあり、異国をば知らず、我山家大師よりこのかた、人壇の人に年齢の定式なし。其人、其器にあたらば、何ぞ老若を選ぶべき。もし百歳の老愚に是戒を授けば、其人よく戒体を知るべきや。されば、龍女が八歳は、円教速疾の規模ならずや。矧んや、白河先徳をはじめ、十歳末満の輩、登壇の例すくなからずと。権智房を以て大衆の中へ申されしかば、弟子を見ること師に如くはなし、かかる明匠の種子の我山に生ずるこそ、二葉の栴檀なれと喜びて、登壇受戒に障者〈さわるもの〉なかりけり

 さても、受戒伝法の時の器量を伝え聞くほどの人々、各偏執をすてて、是なん文殊の化現ならんかと称美せり。又なま才覚なる僧徒等、よりあいては、いやいや称美も詮なかるべし、近頃の法然文殊の出来たるは、却て山の害とは成りぬ、好事にはあらずと申人々もありとなん。 
 十歳、寿永元年、慈円僧正勅令に由て山に登り、天下静謐の御祈祷の事あり。是は去年夏のころ、客星出て
(箒星、彗星)天変つねならず、木曾義仲北国に起りて謀叛のきこえ専なるによりてなり。このとき、少納言殿、僧正にともないて叡南無動寺の大乗院に登り、『四教儀』を読み 始め給う。権少僧都、竹林房静厳を句読の師とす。それより小止観三大部を読み習いたまえり或は山を下り、京洛にいましては、南都の碩学と聞えし覚蓮僧都なんどを招請して、唯識百法を学びたまう。是僧都は、法隆寺の西国院に住せる人なり。或時は、日野民部太輔忠経を師として、俗典文章の稽古なんども侍るとぞ。

 十五歳の春は叡山にのぼり、毘盧舎那秘密潅頂を受けたまう。師範阿闍梨は慈円和尚にてぞおわしける。亦毘沙門堂の明禅法印は、是時一山にかくれなき密学の碩才なればとて、此人に徒いて密法の秘奥を習いたまいき。かくて、相つづき三大部の御学問あり。亦御室に岡慶尊〈おかのけいぞん〉とて華厳の明匠あり。 是に従いて華厳を学びたまいき。斯慶尊は、法橋慶雅の弟子なり。師の慶雅は、源空上人壮年のとき、華厳の師範たる人なり。又十七歳の時は、南都興福寺の碩才、大僧都光俊空円律師等にあい、法相三論の奥旨を学びたまえり 

◎磯長の夢告
(しながむこく)
 建久二年草亥(十九歳)七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申したまいしかば許されき。やがて、 立越て西園院覚蓮僧都の坊に七旬ばかり、ましまして、因明の御学問あり。幸の序なりとて、九月十日あまりに、河内国機長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけ り。十二日の夜より十五日に至るまで、三日三夜こもりて重々の御祈願あり。十四日の夜、親〈まのあたり〉に霊告まします。御自筆の記文に曰く、

 爰仏子範宴、思入胎五松之夢、常仰垂迹利生。今幸詣御廟窟、三日参籠懇念失己矣。
 第二夜四更如夢如幻。聖徳太子従廟内自発石偏*(ケイ 扉−非+(向−ノ))〈けい・かんぬき〉、光明赫然而照於窟中。別三満月在現金赤之相。告勅言

ここに、若い仏弟子であるわたし(範宴)は、母の胎内にはいるとき、如意輪観音より五葉の松の夢告があったことをおもい観音の垂迹(すいじゃく・仏が日本の神として姿をあらわすこと)である聖徳太子の御徳によって、このわたしの生涯をみちびかれることを仰ぎ願ってきた。今、幸いに聖徳太子のゆかりの、この磯長の廟窟(びょうくつ・たまやのほこら)におまいりし、三日間“おこもり”していっしょうけんめい祈り念じた結果、失神してしまった。第二夜にあたるときの四更(しこう・午前二時)に、夢のように、幻のように、聖徳太子が廟(たまや)の中から、自ら石の戸(石ケイ・せきけい)を開き、光明があかあかとして、いわや(窟)の中を照らした。そのとき別に、三つの満月の光があって、金赤(こんじゃく)の相(そう)をあらわした。そして聖徳太子が、告勅(ごうちょく・尊いことばの告げしらせ)を下して言うには

 我三尊化塵沙界 【わが三尊(弥陀仏、観音、大勢至の三菩薩)は、ちりのようなこの世をみちぴこうとしている。】
 日域大乗相応地 【日本は大乗仏教(多くの人々のための、愛の願いを中心とする仏教)のさかえるにふさわしい土地である。】
 諦聴講聴我教令 【耳をすましてよくきけ、よくきけ、わたしのおしえを】
 汝命根応十余歳 【お前に今からあまされたいのちは、もう十年あまりしか、ないだろう。】
 命終即入清浄土 【その命が終わる時がきたら、お前は、すみやかに清らかな場所へはいってゆくだろう。】
 善信善信真菩薩 
【だから、お前は、今こそほんとうの菩薩を心から信じなければならぬ。】

 行者よ。貴方が宿世の報いで仮に女性を性的関係で犯すことがあるなら、自分こそが玉のような美しい女性となって貴方の前に現れ、貴方に犯されよう。一生の間貴方をよく守り、死ぬ時には貴方を極楽浄土に導こう。これは、救世菩薩である自分の誓いである。善信よ。この誓いの趣旨を広く人々に伝え、あらゆる人々に聞かせなさい。教行信証の後序はいう。「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」。雑行である比叡山での修行を捨て、阿弥陀の本願を建てている法然上人の下に加わった。それが建仁元年である。

 于時建久二年辛亥暮秋中旬第五日午時記前夜告令畢。仏子範宴云云。

時に、建久二年九月(暮秋)十五日、午時初刻、前の夜(十四日)の告令(こくれい)を記し終わった。仏弟子(ぶつでし)、範宴(はんえん)」

 斯霊告を得たまうといえども、ふかくつつみて口外なかりき。唯その記文のみ御廟寺にあり。
 そもそも、〈件〉の告命六句の文に就て、古来の口訣あること予これを聞けり。ここに去応長正中のころ、関東高田専空上人登られしに、洛の善法院并に河東 岡崎の旧坊に於て両度面謁し、祖師一生の事事具さに之を聞く。今此伝に載る所、恐くは滅後展々伝聞の説にあらず、聖人面授の人の口説なり。
 然るに、今の告令のことを懇ろに問いしかば、我是を惜むには非ず、他聞を禁ずるの制ありとて伝えざりき。

 其伝習はいまだこれを聞かずと雖ども、彼返答の余言を以て、ひそかに案ずるに、十九歳磯長の夢想と、二十九歳六角精舎の告命とは、大凡相似たる趣なりと きこえたり。御廟寺の真筆は、かならず我往て拝見せん。専空和尚に親聞しながら、此口授を漏すること、是余(存覚)が生前の恨なり。後来の徒、ふかく尋ねて伝えず はあるべからず。 

 二十歳の頃とかや聞し、南都招提寺の文乗法師にしたがいて、の淵源を聞きたまえり。文乗は、鑑真和尚の法号なりといえり。一号には、開元寺の沙門思託の法流なりと云えり。然らば、鑑真和尚の法弟なり。又東大寺の光円得業は、倶舎にも律にも誉たかき人なり。 これに従いて、件の法文どもを学びたまいき。

 二十一歳の春の頃にやありけん、横川の飯室におわして、一心三観の思惟の定中に源信和尚に謁したまうことあり。これ夢にもあらず、うつつにもあらず、誠 に観定悉地の徳なり。


赤山明神
での不思議な女性との出会い

 二十三歳の秋九月、横川の禿谷と云ところに於て、光全定尊俊教など云う朋友に請せられ、竊に『小止観』『往生要集』を講ぜらる。三塔の名徳たち、これを 立聞してかえり、弟子等に語りていわく、天晴僧正や、能き弟子をこそ持たれたれ。天晴少納言や、北岳の駿馬の種子ならんと、ののしりあえり。 
 建久九年、範宴、初春の祝儀ことおわりて京より山へ帰りたまうに、おりふし、赤山明神へまいり、法施ここ ろしずかにしておわしますに、神籬の蔭より、あやしげなる女姓、柳裏の五衣〈いつつぎぬ〉に、ねりぬきの二重なるを打被、唯一人出来れり。其しな気高く て、いかさま大内に住みけんありさまに見けり。
 彼女姓、いとはしたなく、範宴の御傍ちかくまいりて云よう、御僧は、何より何地へ行せたまうと、御供にありける相模侍従、これは京より山へかえるにてそ うろう。
 女の云く、妾も年来比叡山へ参詣の志ふかくありしが、今日思立てそうろう。初ての所なれば、案内もいささか知りはべらず、一樹のかげ、一河のながれとや らん申こともありときく。今日の御なさけに、いざ連れて登りたまわりそうらえと、染染〈しみじみ〉と申けり。
 範宴も興さめて、女姓なれば其事は知りたまわじ。抑我比叡山は、舎那円頓の峯高く聳え、五障の雲のはれざる人は登ることを許さず。止観三密の谷深く裂けて。三従の霞に迷ふ輩は入ることを得ず。『法華経』にも女人は垢穢にして仏法の器に非ずと説きたまえり。されば、山家大師の結界の地と定めたまうもことは りなり。浦山しくも登る華かなと、読みし歌をもしろしめされなん。
 唯是よりかえられるべしとのたまえば、女姓、範宴の御衣にすがり、涙の中に申けるは、さてちからなき仰をも聞くものかな、伝教ほどの智者、なんぞ「一切 衆生悉有仏性」の経文を見たまわざるや。そもそも、男女は人畜によるべからず、若この山に鳥獣畜類にいたるまで、女と云うものは棲まざるやらん。円頓の中 に、女人ばかりを除かれなば、実の円頓にはあらざるべし。十界十如の止観も、男子に限るとならば、十界皆成は成ずべからず。『法華経』に「女人非器」とは 説ながら、龍女が成仏は許されたり。胎蔵四曼の中にも天女を嫌うことなく三世の仏にも四部の弟子は有ぞかし。さはありながら、結界の峯ならば、登るべきに 便なし。妾山にのぼらば、知識をたずねて捧げんとて持てる物あり。今はよしなし。是を師にたてまつるペしとて、袖より白絹に包みたる物を出し一、是は天日
の火を取る玉なり。それ一天四海のうち、日輪より高く尊きものなく、又土石より低く陋きものなし。然に、天日の火ひとり下りて、燈炬となることなし。陋き 土石の玉にうつりてこそ、闇夜を照すの財とは成るなれ。仏法の高根の水、ただ峯にのみ湛えて、何の徳用あらん。低く陋き谷に降りてこそ、万械を潤す功はあむなれ。御僧は末代の智人なるべし。よも此理に迷いたまわじ。玉と日と相重るのことわり、今は知りたまうまじ。千日の後は、自ら思い合うことの侍らんと て、玉をばさしおき、木蔭に立かくれて失せ去りぬ。


 其後
二十九歳の冬のころ、九條殿下の息女に幸したまうのとき、娘の御名を玉日と申に意づきて、是なん日火を明玉にうつして、一切衆生の迷*(コン 聞− 耳+昏)〈?昏 ?闇〉を照し、五障三従の女人まで、ことごとく引導すべしとの教なりと、始めて悟りたまえり。かの玉を献りし化女は功徳天女にてありける。本地は如意輪観音にてまします 

◎たうそう(塔僧)

 建久九年戊午は、範宴二十六歳なり。今年叡山西塔に、一切経蔵を建立したまうことあり。本尊には、弥陀、 普賢の二躯を案置せらる。是は、先考先妣の菩提の資糧、ならびに猶父獅母現当の福田のためなり。これ叡南にこそ立てらるべきに、西塔にはこころえがたしと 人人申けり。範宴ききたまいて、無動寺には蔵経不足なし。西塔を見れば、度度の兵乱の後、経本も大半散失し、蔵もまた傾敗せり。見るに忽びがたければとの たまいき。殊に、去年夏のころ、範宴聖光院に拝任あり。此時にあたりて、西塔をば聖光院より荷担すべき縁あればなり

 範宴は、去年夏のころ、小僧都を申たまいしが、其後あるいは山王神社に七日参籠学問の御祈誓あり、或時は南都北嶺の高徳達を請して大小権実の教門を聞きたまう。日夜の習学、かつてひまなかりき。二十七歳の冬のころは、摂州天王寺にゆき、聖徳太子真筆の『法華』『勝鬘経』等を拝見あり。彼等の大徳に蓬い、 その奥意を聞きたまえり。厥僧は、良秀僧都とやらん云いしとかや。時に才智の誉ある人にてあり。

 又或時、慈円和尚範宴の学問のほどをこころみんがために、御前に召て三大部の大意を述しめらる中にも、『摩訶止観』の奥義重重に御問答あり。範宴これを のべあきらめたまうこと、懸河の波浪をそそぐが如し。又『華厳』を講ぜしむるに、四法界の談に至て、古今未聞の弁を吐きたまえり、聞者天に向うがごとく、 天晴これ良弁僧正の再来なるかとあやしめり
 (良弁僧正は東大寺二月堂と関係あり)

◎大乗院の夢告

 二十八歳十月三七日のあいだ、根本中堂と山王七社とに毎日毎夜参詣し、丹誠の御祈あり。これ末代有縁の法 と、真知識とを求むるとの御祈誓なり。同冬、叡南無動寺大乗院に閉籠りて密行を修せらる。是も三七日なりしが、結願の前夜四更に及で、室中に異香薫じ、 如意輪観自在薩*(タ 土+垂)現来したまいて、汝所願まさに満足せんとす、我願も亦満足すとある告を得て、歓喜の涙にむせびたまう。是により、明年正月 より六角精舎へ一百日の日参をおもいたちたまえり。 

「善(よ)いかな善(よ)いかな
汝(なんじ)が願(ねがい)将(まさ)に満足せんとす
善(よ)いかな善(よ)いかな
我が願(ねがい)満足す」


【お前の後生の一大事、解決できる日は近いぞ。絶望せずに求め抜け、私の任務も終わろうとしている】 

二十九歳、建仁元年辛酉正月十日辛酉、叡南の大乗院にかくれ、大誓願を発し、京都六角精舎如意輪観音に一百日の参籠あり。さしもけわしき赤山越を毎日ゆきかえり、いかなる風雨にも怠なく、雪霜をもいとわせたまわず、誠にありがたき御懇情なり。是精誠しるしあ りて、計らざるに安居院聖覚法印に逢いて、源空上人の高徳を聞き、わたりに船を得たるこころして、遂に吉水禅坊に尋ね参りたまいけり。是もはら六角堂の観世音の利生方便のいたすところなり。



吉水入室

【2】 第二段

 建仁第一の暦春のころ[上人(親鸞)二十九歳]隠遁の志にひかれて、源空聖人の吉水の禅房にたづねまゐりたまひき。これすなはち世くだり、人つたなくして、難行の小路迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人(源空)、ことに宗の淵源を尽し、教の理致をきはめて、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。


入門

法然の「専修念仏」の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より、「綽空(しゃっくう) (」は、中国の道綽禅師より、「」は源空〈法然〉上人より。) 」の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。
* 元久2年(1205年)4月14日(入門より5年後)、『選択本願念仏集(選択集)』の書写と、法然の肖像画の制作を許される。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった
** この頃、親鸞より法然に改名を願い出て、 「善信(ぜんしん)」は、中国の善導大師より、「」は源信和尚より。) 」の名を与えられる。
** 法然の元で学ぶ間に九条兼実の娘・玉日、又は三善氏の娘・後の恵信尼と結婚したとする説がある。 (当時は、配流される罪人には妻帯させるのが一般的であり、近年ではこの説が有力視されている。また、玉日=恵信尼、同一人物説など、親鸞の婚姻には多数の説がある。)
** 御伝鈔には、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっているが、『恵信尼消息』には、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事)にも、まゐりてありしに、…」とある。一般に『御伝鈔』の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。(西本願寺本は、「六角告命」のみ建仁3年と記される。)

◎吉水の禅坊へ 入門因縁
親鸞聖人正明傳
 建仁辛酉、範宴二十九歳、三月十四日、吉水に尋ね参りたまう
 折ふし禅坊には墨染衣きたる禅僧十四五人許ありて、出離要路を尋ねたてまつる有様、如此てこそ実の道には入なむめれ、賢くもここに参りけりと。坐に道心ぞ進みたまう。彼十四五人の人人は、当時南北に名を得たる学生達にぞおわしける。

 さて、源空上人に謁見し、是は慈円僧正の弟子、少納言範宴にてはべり。師の高徳をしたい、生死出離の要津を問いたてまつらんために尋ね参りぬと申さる。 上人きこしめし、僧正の弟子にさる人ありとは、我も聞く所なり。さらば、心底をのこさず宣べたまえとあり
 範宴そうけたまわりぬとて、百界千如の深意、六大無碍の密蔵、もとより会得の上なれば、舎那止観の奥*(サク 臣+責)を揮いて、問答重重に及べり


 蕨後、空師仰られて曰く。今までのたまえるは、皆是聖道白力門の意なり。浄土他力の道を聞せたてまつらん。範宴のここに尋ね入り給うこと、発心の強盛なるも有難く、亦宿縁の深厚も想像〈おもいやられ〉たりとて、他力易行のみち、手を採りて之をさずけ、安心起行のむね、耳を提て宣べ誨えらる

 又道綽禅師は、『大集月蔵経』に「我末法時中億億衆生、起行修道未有一人得者」と説ける文に依りて、「当今末法是五濁悪世、唯有浄土一門可通入路」と悟 りて、聖道自力の修行を捨て、浄土他力の真門を立てたまえり

 また、善導大師は「余比日自見聞諸方道俗、解行不同、専雑有異、但使専意作者十即十生、修雑不至心者、千中無一」と見定め、正雑二行を立て、かの雑行を 捨て、十即十生の正行に帰し、順彼仏願故と決定して、本願他力の弘誓に身を託したまう。

 まのあたり、我朝の先徳、恵心永観も生涯の間ならいうかべたる智慧をも修行をも捨て、念仏の一行を以て、出離生死の直道としたまえり。されば、法照禅師の『五会法事讃』には「万行之中為急要、迅速無過浄土門」と勧めたまえり。

 是等は、みな既に出離得脱の先達なり。実に生死の煩籠を出でんと思う輩、誰かこの引接に背きて、自ら三界の火宅に身を留むることをせんと、最ねんごろに 演説ありければ、範宴は御教化の間は、偏に孩児の母に逢うが如く、涙に伏し沈みて、人目もはずかしき許に泣き給う。

 さてなん、日来の畜懐ここに満足して、立地に他力摂生の深旨を受得し、飽まで凡夫直入の真心を決定し、多年習い浮べたる自力難行の小路を捨て、偏に他力易行の大道に入り、一向専修の行者となり給えり

 範宴、上人に申たまわく、世を遁るものは、名をも遁ると申すことの有げにさぶろう。今日より御弟子の員に入りはべれば、師名を賜うべしと請達あり。空師、きこしめし、実にさることぞとて、其名を
綽空と授らる。上人宣まわく、予が門人おおき中に、さわかに自力の執情を捨て、無手と他力になり、遂にまた浄土真門を開くべき意操、しかも西河禅師の余風あれば、綽空と申ぞと仰られき。空はもとより現師の御名なり。
 今年源空上人は六十九歳、綽空は二十九歳になんおわしける。建仁元年三月十四日のことなり。 

親鸞聖人正明伝   常楽台 釈存覚述

六角夢想

【3】 第三段

 建仁三年[癸亥]四月五日の夜寅時、上人(親鸞)夢想の告げましましき。かの『記』にいはく、六角堂救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信(親鸞)に告命してのたまはく、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」といへり。救世菩薩、善信にのたまはく、「これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々。

そのとき善信夢のうちにありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨々たる岳山あり。その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、この文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して説ききかしめをはるとおぼえて、夢さめをはりぬと云々。

つらつらこの記録を披きてかの夢想を案ずるに、ひとへに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示なり。しかあれば聖人(親鸞)、後の時仰せられてのたまはく、「仏教むかし西天(印度)よりおこりて、経論いま東土(日本)に伝はる。これひとへに上宮太子(聖徳太子)の広徳、山よりもたかく海よりもふかし。わが朝欽明天皇の御宇に、これをわたされしによりて、すなはち浄土の正依経論等このときに来至す。儲君(聖徳太子)もし厚恩を施したまはずは、凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。救世菩薩はすなはち儲君の本地なれば、垂迹興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。

そもそもまた大師聖人[源空]もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩致なり。大師聖人すなはち勢至の化身、太子また観音の垂迹なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんなり。これしかしながら聖者の教誨によりて、さらに愚昧の今案をかまへず、かの二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。今の行者、錯りて脇士に事ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」と云々。かるがゆゑに上人親鸞、傍らに皇太子(聖徳太子)を崇めたまふ。けだしこれ仏法弘通のおほいなる恩を謝せんがためなり。


夢告

* 建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠 (他説に、比叡山無動寺谷大乗院より毎夜下り、百夜に渡り六角堂に通った説もある。無動寺谷大乗院には、毎夜居なくなる範宴(親鸞)を回りの僧侶達が不審に思い師匠に告げ口をした。その師匠は、夜中に蕎麦を振る舞い、範宴の所在を確かめようとした。その時、範宴自作の木像が蕎麦を食べて、回りの不審を払拭したという伝説が残されている。その時の木像が、今も無動寺谷大乗院に「蕎麦喰ひ木像」とよばれ、本尊・阿弥陀如来と共に祀られている。) を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、「行者がこれまでの因縁によってたとい女犯があっても私(観音)が玉女の身となって、肉体の交わりを受けよう。一生の間、よく荘厳してその死に際して引き導いて極楽に生じさせよう」という偈句を得る。
* この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵 (現在の安養寺付近。) を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎東天王町)に草庵 (現在の真宗大谷派岡崎別院付近。) を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する出典:『恵信尼消息』。。


頂法寺(六角堂)
本堂

夢告

親鸞聖人正明伝  
 建仁辛酉三月十四日、既に空師の門下に入たまえども、六角精舎へ百日の参籠いまだ満ざれば、怠なく毎日まいりたまう。殊に建久九年の春、功徳天女の告ありしも、いまだ不審はれざるを以てなり。果して、今年四月五日甲申の夜五更に及んで、霊夢を蒙りたまいき

 彼夢想の記文を拝するに、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の貌を現じたまい、白衲の袈裟を著服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命して宣わ く、

 行者宿報設女犯 (行者(ぎょうじゃ)、宿報(しゅくほう)にて設(たと)ひ女犯(にょぼん)すとも
 我成玉女身被犯 我(われ)、玉女(ぎょくにょ)の身と成りて犯(ほん)せられん
 一生之間能荘厳 一生の間、能く荘厳(しょうごん)して
 臨終引導生極楽
 臨終(りんじゅ)に引導(いんどう)して極楽に生(しょう)ぜしめむ)

 救世菩薩、この文を請じて宣わく、是我誓願なり。善信、この文の意を一切群生に説聞しむべしと云云。是時、善信告命の如に、数千万の有情に、これを説聞 しむると覚て夢さめおわりぬと云云

肉食妻帯(因縁)
 此告命ありといえども、深かくして口外あることなし夢想記文とは、親鸞聖人真筆『夢想記』一巻これあり 

 斯に同年十月上旬、月輪殿下兼実公、吉水禅坊に入御ありて、いつよりもこまやかに御法譚ましましけるに、 殿下仰られていわく、御弟子あまたの中に、余はみな浄行智徳の僧侶にして、兼実ばかり在家にてはべり。聖の念仏と、我在家の念仏と、功徳につきて替目やさ ぶろうやらんと
 上人答て宣わく、出家在家ひとしくして、功徳に就て尠も勝劣あること侍ずと。
 殿下宣わく、此條もとも不審にさぶろう。其故は、女人にも近ず、不浄をも食せず、清僧の身にて申さん念仏は、定で功徳も尊かるべし。朝夕女境にむつれ、 酒肉を食しながら申さんは、争か功徳おとらざらん。
 上人答て宣わく、其義は聖道自力門に申ことなり。浄土門の趣は、弥陀は十方衆生とちかわせたまいて、持戒無戒の撰もなく、在家出家の隔なし。善導は、 「一切善悪凡夫得生者莫不皆乗阿弥陀仏大願業力為増上縁也」と判決したまえり。努努御疑あるべからずと云云。
 其時、殿下また言わく、仰のごとく差別あるまじくさぶらわば、御弟子の中に一生不犯の僧を一人賜て、末代在家の輩、男女往生の亀鏡に備わべらんと
 上人聊も痛たまわず、子細そうろうまじ。綽空、今日より殿下の仰に従申るべしと

 綽空は涙にくれ、低頭して御返事をも申たまわず。稍ありて申たまわく、我父母簪纓のふところを出て、慈円の室に入しより釈門の員となりぬ。又天台の門室 を遁て一向の桑門となること、師もこれを知めせり。数百人の御弟子の中に、綽空ひとり選ばれて今の仰を蒙らんこと、仏天も我を舎させたまうにや、面目なく こそそうらえとて、墨染の袖を絞ばかりに見えたまう。


 良ありて、大師上人のたまわく、其いわれ子細さぶらわず。吾御房は、よな去夏の初に、救世菩薩の瑞夢を被たまわずやありけん、足下の恨は観音にこそあらめ、今はかくすこと勿れ。硯やあるとて召寄、御身を側め、一筆あそばし、押巻て彼救世霊夢の文は源空さきだちて存知てあり、諍たまうことなかれ。事のつい でに侍れば、綽空の世を遁し由来きかまほし、残ず語らるべしと所望あり。一座の人人も、序よし。いかにいかにと強申しけり。其中にも、殿下の御意には憖 〈なまじい〉なることを申出しいかならん事をも聞やせんと、発意もましまさず、綽空は面前の師命辞するに拠なく、衣の袖をかきおさめ申出されたり。

世事
(恋歌事件)
 さても、綽空いまだ青蓮院の弟子にて侍しとき、過にし正治二年の秋九月にてありしが、内の仰とて、恋の題を下され、人人に歌を読されけり。師の僧正も読て上らる歌に、

  我恋は松を時雨のそめかねて  真葛が原に風さわぐなり

 かく詠じて天賢に備たまうに、是にまされる歌なし。一時の秀逸なれば、そねむ人人評し申く。如此ばかりの名歌は、恋をする身ならでは読べきに非ず。一生 不犯の座主として、恋の淵瀬を知たまえることいたずらなりとぞ申けり。内にも、さぞ思召けん。公卿僉議あて、既に無実の横難に逢たまう。僧正これを聞て、 夫草木は口なけれども、飛華落葉にものを言せ、禽獣は鳴に涙なしといえども、これを詠ずるは歌道の習ぞかし。意に恋はしらずとも、人を恨る風歌ならば、な どか此歌を読ざらんと奏ぜられける。

さらば、僧侶の仮にも知まじき事をこそ読せるべしとて、重て鷹羽雪と云題を下さる。すなわち読てたてまつる歌、

  雪ふれば身に引そうる箸鷹の たださきの羽や自う成らん

 此時主上臣下もろともに、掌を拍て誠に明才の知ざる事はなしとて、大難を晴かえて倭歌の美名を取たまえり。此ときの使は僧正一生の浮沈なればとて、範宴 こそ参べしとあり、某もまた厳師生涯の安否なれば、進て参ける。上より斯歌の使は誰と御尋あり。大進有範が子、範宴少納言と奏す。さては、猶父三位も歌知 〈うたしり〉なり、師の僧正もさすがの達者なれば、範宴もさぞあらん、歌つかまつれとて、同く鷹羽雪といえる題を賜る。但し師の僧正たださきを詠じたれ ば、範宴はみよりの羽を読べしと仰あり。

  箸鷹のみよりの羽風ふき立て  おのれとはらう袖の白雪

 と申たりければ、上一人より堂上公卿に至まで、さすが三位が猶子、僧正の弟子かなと褒美せらる。主上御感の余にや、檜皮色の小袖を賜わる。肩にかけ、大 床を下り、置石の辺をまかんでし間、つくづく思けるは、このたびの歌もし仕損じなば、師範猶父の名をも下べし。自害をせんも、僧徒の道にあらず。我天台の門跡ならんにこそ、此後も幾度か大内に召れで、浮世の塵に交なん。 
 師の僧正も雲上のまじわり故に、かかる患難にも蓬たまえり。好也、これぞ遁世の因縁ならめと、無下にあさましく覚しかば、六角精舎へ百日の歩を運しに、 感応にやありけん、計ずも厳師の高徳を聞、すみやかに名利の衣をぬぎ、心も身も真実の墨に染そうらえと、最こまかに語たまうに、空師をはじめ百有余人の御弟子、月輪殿下に至まで、みな感激の涙を止かねたまえり。

 上人宣けるは、今ひとつ残ところの侍なり、彼救世菩薩の告命は、いつのために残されけん、綽空此一事をば許たまうべしと、上人打咲たまい、然ば源空が書 し一紙は、偽にこそなれめ、はやはやと責たまえば、今は申べしとて、過ぬる四月の霊告四句の文を、残さず語申させたまう。上人いつより御機嫌うちとけて、 初に書たまう、巻紙をおしひらき、殿下を始めたてまつり、人人是を御覧そうらえ、いつかは申誤さぶらいきとて、指出したまう。誠に上人の兼て記されたる文 言霊夢の四句の文に、一字も違ざりけるぞ不思議なる。三百余人の御弟子達、あわれ、綽空はいかなる仏菩薩の化迹にやと、ささやかぬ人もなかりし。 

御結婚
 綽空は、胸うちさわぎ、仕成たる世中やと、片腹いたく思召ども、現師の指授なればちから及たまわず、信空、聖覚等の智徳もいさめすすめ申さるほどに、
月輪殿も喜に堪かね、やがて同車して還御し、綽空を五條西洞院の御所に移し、御娘玉日姫に配家したまう。玉日は今年十八歳なり
哀哉、月輪殿下は凡夫往生の正信を伝通せんと欲して、誠紅閨鍾愛の賢娘をやつし、いたわしくも貧道黒衣の卑婦人となしたまう
痛哉、 大師上人は弥陀一教の利物を顕彰せんが為に、相承神足の高弟をおとして、在家修行の先達にそなえたまえり。
竊にこれを案に、一人は勢至の応現なり、一人何 ぞ直〈ただ〉也人ならん。仰でこの善巧方便を信ずべし。綽空二十九歳の御時なり。



◎妻帯第一子誕生  
 斯て玉日と幸ありて、五条西洞院に住たまう。明建仁二壬戌年十月、男子誕生あり名を範意と申す。後に印信と改名せり。聖人左遷の時、範意六歳也 

 三十歳、四日五日、綽空六角堂へまいり、御通夜あり。夜明まで念誦礼拝して、紅涙に沈たまう。是は、去年 告令の曠大の恩を報じたてまつらるるものなり。 

蓮位夢想

【4】 第四段

 建長八年[丙辰]二月九日の夜寅の時、釈蓮位夢想の告げにいはく、聖徳太子、親鸞上人を礼したてまつりてのたまはく、「敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也」。しかれば祖師上人(親鸞)は、弥陀如来の化身にてましますといふことあきらかなり。


選択付属

【5】 第五段

 黒谷の先徳[源空]在世のむかし、矜哀のあまり、あるときは恩許を蒙りて製作を見写し、あるときは真筆を下して名字を書きたまはす。すなはち『顕浄土方便化身土文類』の六にのたまはく、[親鸞上人撰述]「しかるに愚禿釈鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰し、元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』(選択集)を書く。おなじき年初夏中旬第四日、『選択本願念仏集』の内題の字、ならびに〈南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本〉と、〈釈綽空(親鸞)〉と、空(源空)の真筆をもつてこれを書かしめたまひ、おなじき日、空の真影申し預かり、図画したてまつる。

おなじき二年、閏七月下旬第九日、真影の銘は真筆をもつて、〈南無阿弥陀仏〉と〈若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生〉の真文とを書かしめたまひ、また夢の告げによりて綽空の字を改めて、おなじき日、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはりぬ。本師聖人(源空)、今年七旬三の御歳なり。『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて選集せしめたまふところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭りやすし、まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉り、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつてかたし。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画す。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よつて悲喜の涙を抑へて、由来の縁を註す」と云々。


選択附属選択集書写
 元久二年乙丑の春、綽空吉水へ参たまうに御前に人なし。上人竊に『選択集』を授て宣わく、足下には他力の法門に於ては、爽の法器なり。是は我撰集の秘書なり、穴賢。はやく写取て他見すべからずと、

 すなわち『化身土文類』六曰、元久乙丑歳、恩恕を蒙て『選択集』を書しき。同年初夏中旬第四日、選択本願念仏集の内題の字、并に南無阿弥陀仏往生之業念 仏為本と、釈の綽空と、空真筆を以て、これを書しむ。同日、空之真影申預図書し奉る。同二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆を以て令書たまう。又夢告 によて、綽空の字を改、同日御筆をもて、名之字(綽空から善信へ)を書しめ畢ぬ。乃至。製作を書写し、真影を図画す、これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よて、悲喜の涙をおさえて、由来の緑をしるすと云云。

 しかあれば、我祖
善信は大師上人随自意の神足なり。因て随他方便の行相を勧〈すすめ〉ず、偏に一向専念の正信を弘通したまえり。はたまた、其本地をたず ぬれば、曇鸞和尚の後身なり。大凡大士の悲門は、或ときは師となり。或ときは弟子となり。唯其化度を専にし、三国に流伝を欲するにあり。 

信行両座

【6】 第六段

 おほよそ源空聖人在生のいにしへ、他力往生の旨をひろめたまひしに、世あまねくこれに挙り、人ことごとくこれに帰しき。紫禁・青宮の政を重くする砌にも、まづ黄金樹林の萼にこころをかけ、三槐・九棘の道をただしくする家にも、ただちに四十八願の月をもてあそぶ。しかのみならず戎狄の輩、黎民の類、これを仰ぎ、これを貴びずといふことなし。貴賤、轅をめぐらし、門前、市をなす。常随昵近の緇徒その数あり、すべて三百八十余人と云々。しかりといへども、親りそのをうけ、ねんごろにその誨をまもる族、はなはだまれなり。わづかに五六輩にだにもたらず

善信聖人(親鸞)、あるとき申したまはく、「予、難行道を閣きて易行道にうつり、聖道門を遁れて浄土門に入りしよりこのかた、芳命をかうぶるにあらずよりは、あに出離解脱の良因を蓄へんや。よろこびのなかのよろこび、なにごとかこれにしかん。しかるに同室の好を結びて、ともに一師の誨を仰ぐ輩、これおほしといへども、真実に報土得生の信心を成じたらんこと、自他おなじくしりがたし。かるがゆゑに、かつは当来の親友たるほどをもしり、かつは浮生の思出ともしはんべらんがために、御弟子参集の砌にして、出言つかうまつりて、面々の意趣をも試みんとおもふ所望あり」と云々。

大師聖人(源空)のたまはく、「この条もつともしかるべし、すなはち明日人々来臨のとき仰せられ出すべし」と。しかるに翌日集会のところに、上人[親鸞]のたまはく、「今日は信不退行不退の御座を両方にわかたるべきなり、いづれの座につきたまふべしとも、おのおの示したまへ」と。

そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。ときに法印大和尚位聖覚、ならびに釈信空上人法蓮、「信不退の御座に着くべし」と云々。つぎに沙弥法力[熊谷直実入道]遅参して申していはく、「善信御房の御執筆なにごとぞや」と。善信上人のたまはく、「信不退・行不退の座をわけらるるなり」と。法力房申していはく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまゐるべし」と云々。

よつてこれを書き載せたまふ。ここに数百人の門徒群居すといへども、さらに一言をのぶる人なし。これおそらくは自力の迷心に拘はりて、金剛の真信に昏きがいたすところか。人みな無音のあひだ、執筆上人[親鸞]自名を載せたまふ。ややしばらくありて大師聖人仰せられてのたまはく、「源空も信不退の座につらなりはんべるべし」と。そのとき門葉、あるいは屈敬の気をあらはし、あるいは鬱悔の色をふくめり。


◎信行両座

 或時、善信源空上人に申たまわく、数多の御弟子達は、ともに一師の誨を受て、悉く往生不退を期するものなり。然ども、報土得生の信一味なりや、将異なるやらん、明に知がたし。面面の信必のほどを試て、全一に決定せしめたまはば、且は当来同生のよろこび、且は 生前朋友のむつび、これに過べからずと。
 上人宣わく、誠に能く申されたり。すなわち明日人人集会のみぎり申出べしと。
 翌日門人集会のところに、執筆善信房申たまわく、今日の集会は、信不退行不退の両座を分て、人人の解会を試らるるなり、何の座につきたまうべしと示さる べしと。ここに、三百有余の門人、みな心得ざる気あり。

 時に大僧都法印聖覚、法蓮房信空、法力房蓮生等、信不退の座にまいるべしとて、其座につかれたり。此時数百人の輩、左右を顧て、口を噤めり。人人無音の あいだ、善信も信座に参べしとて、自名を書載たまう。暫ありて、空上人仰られていわく、源空も信の座に列べしと
 其時、数百の門人、或は恥る人もあり、或は後悔の色を含めるもありき。


信心諍論

【7】 第七段

 上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房・勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論をしはんべることありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびととがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。

善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。


◎信心浄論

 又或時、善信房吉水に参たまうに、聖信房湛空、勢観房源智、念仏房自余の人人、始よりまいられたり。
 物語のついでに、念仏房申さく、自他同く心身ともに、往生に染たる人人なり。然ども、凡夫の信心は誠すくなく、虚仮も疑心も打変れり。いつか、上人の如 なる信を得て、慮なく往生を遂ぬべきと。聞つる人人も云云と同意に申されき。
 爾中に善信ひとり肯たまわず。否とよ、自身にはさは思はべらず。上人の御信心も、また我善信が信心も、聊も替ところあるべからずと思なりと
 聖信房以下の人等、これをとがめて云く、善信房の申るることいわれなし、争か上人の御信心に及べきと。
 善信いわく、御智慧学問にひとしからんと申さばこそ恐ある僻事ならめ、他力の信心に於ては、一たび其ことわりをうけたまわりしより全わたくしの心なし。 上人の御信心も仏より給わらせたまう信心なり。善信が信心も仏より給わりぬ。いかでか、替ことのあるべきと諍て、互に止ず。
 上人きこしめして宜わく、自力の信にこそ、智慧に随て浅深のかわりあるぞかし。他力の信は、仏の方より賜わらせたまう信なれば、我も人もみなひとつにし て、いささかも替る事なし。人人よくよく此義をこころえらるべし。信心の替あいておわしまさん人人は、我まいらん浄土へはよもまいらせたまわじと宣えり。


入西鑑察

【8】 第八段

 御弟子入西房、上人[親鸞]の真影を写したてまつらんとおもふこころざしありて、日ごろをふるところに、上人そのこころざしあることをかがみて仰せられてのたまはく、「定禅法橋[七条辺に居住]に写さしむべし」と。入西房、鑑察の旨を随喜して、すなはちかの法橋を召請す。定禅左右なくまゐりぬ。すなはち尊顔に向かひたてまつりて申していはく、「去夜、奇特の霊夢をなん感ずるところなり。その夢のうちに拝したてまつるところの聖僧の面像、いま向かひたてまつる容貌に、すこしもたがふところなし」といひて、たちまちに随喜感歎の色ふかくして、みづからその夢を語る。貴僧二人来入す。一人の僧のたまはく、「この化僧の真影を写さしめんとおもふこころざしあり。ねがはくは禅下筆をくだすべし」と。定禅問ひていはく、「かの化僧たれびとぞや」。件の僧のいはく、「善光寺の本願の御房これなり」と。ここに定禅掌を合はせ跪きて、夢のうちにおもふやう、さては生身の弥陀如来にこそと、身の毛よだちて恭敬尊重をいたす。また、「御ぐしばかりを写されんに足りぬべし」と云々。かくのごとく問答往復して夢さめをはりぬ。しかるにいまこの貴坊にまゐりてみたてまつる尊容、夢のうちの聖僧にすこしもたがはずとて、随喜のあまり涙を流す。しかれば「夢にまかすべし」とて、いまも御ぐしばかりを写したてまつりけり。夢想は仁治三年九月二十日の夜なり。つらつらこの奇瑞をおもふに、聖人(親鸞)、弥陀如来の来現といふこと炳焉なり。しかればすなはち、弘通したまふ教行、おそらくは弥陀の直説といひつべし。あきらかに無漏の慧灯をかかげて、とほく濁世の迷闇を晴らし、あまねく甘露の法雨をそそぎて、はるかに枯渇の凡惑を潤さんがためなりと。仰ぐべし、信ずべし。


御伝鈔  下

   本願寺聖人親鸞伝絵 下

師資遷謫

【9】 第一段

 浄土宗興行によりて、聖道門廃退す。これ空師(源空)の所為なりとて、たちまちに罪科せらるべきよし、南北の碩才憤りまうしけり。『顕化身土文類』の六にいはく、「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証ひさしく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[諱尊成、後鳥羽院と号す]今上[諱為仁、土御門院と号す]聖暦、承元丁卯歳仲春上旬の候に奏達す。主上臣下法に背き義に違し、忿りをなし怨を結ぶ。これによりて真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へずみだりがはしく死罪に坐す。あるいは僧の儀を改め、姓名を賜ひて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず、俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たり」と云々。空聖人罪名藤井元彦、配所土佐国 [幡多] 鸞聖人(親鸞)罪名藤井善信、配所越後国 [国府] このほか門徒、死罪流罪みなこれを略す。皇帝[諱守成、佐渡院と号す]聖代、建暦辛未歳子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもつて勅免。このとき聖人右のごとく禿の字を書きて奏聞したまふに、陛下叡感をくだし、侍臣おほきに褒美す。勅免ありといへども、かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したまひけり。


流罪、師との別れ

* 建永2年(1207年)2月、興福寺の訴えにより、専修念仏の停止と、遵西など4名を死罪、法然・親鸞ら8名が流罪となった(承元の法難)。この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信(ふじいよしざね)」を与えられる。法然は、土佐国(現・高知県)へ、親鸞は越後国府(現・新潟県)に配流された。親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん) (」は、インドの天親菩薩より、「」は曇鸞大師より。) 」と名乗り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。
** この頃に豪族・三善為則の娘、恵信尼(えしんに)と結婚した説もある。また、配流中に子をもうけている。
* 建暦元年(1211年)11月(流罪より5年後)、法然とともに罪を赦された。
* 建暦2年(1212年)1月25日に、京都で80歳をもって入滅。親鸞は二度と師・法然に会う事は出来なかった。その事もあり親鸞は、京都に帰らず越後にとどまった。


◎師弟配流

 是は建永元年丙寅秋のころにてありけるとぞ。 
 聿〈ここ〉に
善信聖人三十五歳の春、北国へ左遷せられたまう。
 厥由来は、源空上人専修念仏興行によりて、都部の教化風のごとくつたえ、君臣の帰依草のごとくなびけり。是時、南都興福寺、北岳延暦寺の僧侶鬱憤をさしはさみ、専修念仏を停廃し、源空上人并に上足の輩、殊には権大納言公継卿を重科に処せらるべき由上疏を捧こと再三に及べり。魔障ひまを伺い、怨讐たよりを求るおりふしなるに、上人の御弟子住蓮安楽あやまる事あり。
 之に因て、土御門院御字、承元元年丁卯仲春上旬、公卿僉議あて、同月下旬源空上人并に上足の弟子等左遷の宣旨を下されけり。善信房も死罪流罪の中に、議定いまだ決せずありしに、六角中納言、おりふし八座に列てありしが、累に申宥られしかば遠溌すべきに定られき
 三月十六日の午時、源空上人華洛を出て配所に赴たまう。罪名藤井元彦、謫所南海道四国、法算七旬五、追捕検非違使宗府生尚経、送使左衛門府生武次なり。
 同十六日卯初刻、善信聖人出京なり。これ空上人いまだ都にまします内に、片時も先立て洛を出んとて、兼て迭使の許へたのみたまえばなり。罪名藤井善信、謫所北陸道越後国頚城郡国府、法齢三十五歳、投非違使府生行連、送使府生秋兼とぞ聞えし。 

 湖東の駅路にかかり、鏡宿に御泊ありけり。黄昏の後に、簪纓の老翁来入す。人人これを制して其名を問。翁 の云く、我は三上岳の辺より来れり。聖人に申ことありとて、御障子の内に入れり。左右驚怪す。
 彼翁低頭して申さく、聖人のここを過たまうこと老が大幸なり。希は授法を垂れ、血脈を賜べしと。聖人これ神人なることを知めし、授法の御望まことにありがたきことなり。但し式あることに侍えば、御名を申させたまえとあり。翁の云く、天余手と申すと。聖人、他力仏乗の法門慇懃にさずけ、血脈を暁覚と書てあたえたまう。
 其時、老翁聖人の耳に口をあてて、御布施を献らん。配所に赴たまはば、意をゆるく待たまえ。吾今日より、影の如にまもるべし。五年の後は、めでたき事の はべらん、穴賢。人にかたらせたまうなと、ささやきて、遂に出去ぬ。

 聖人は行程十三日を経て、三月下旬第八の日、郡郡司小輔年景が館に下著あり謫居五箇年の間は髪をも剃せ たてまつらず、有髪にてましませば、愚禿となのりたまえり 
 五年の後、順徳院御宇建暦年元辛未十一月十七日、流罪赦免勅使は岡崎中納言範光卿なり。是卿は聖人の猶父 三位範綱の嫡子なり、河東岡崎村に別業を立て、かよい住れけるほどに、岡崎黄門と号せり。
 十二月上旬、中納言越後に下著して綸言をつたえらる。然ども、聖人日来の心痛しきりにましませば、唯御礼の請文ばかりありて、其歳は猶越後に止まりたま えり
 彼請文に愚禿と書て上られければ、誠にこころききたる奏状なりとて、君臣ともに大に称美ありき。

『教行信証』・後序(こうじょ・ごじょ)の文


古い地盤から、新しく発掘されたのは、つぎの文章である。
親鸞の生涯と思想にとって、一つの出発点となった重大な文だ。
だから、ことに原文のにおいに注意ぶかく訳してみた。

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「ひそかにおもってみるに、聖道(しょうどう・古い仏教)のいろいろの教団は、生きた行ないと生きたさとりが、もうずっと前からすたれている。これに反し専修念仏の教団(浄土真宗)は、生きたあかし(証)と生きた道が、今さかえている。それなのに古い寺院の僧侶たちは、かえってほんとうの仏教の教の精神に暗く、今の人間に対して何が真実(真)の扉を開き、何が偽り(仮)の扉をかまえているか。そのことを知らないでいる。京都の一般の学者も、どれが正しい行ないかについて迷っている。それゆえ、仏教の正しい道である専修念仏と、あやまった小路(こみち)である古い仏教とを、ハッキリ区別できないのである。こういうわけで、興福寺の学者・僧侶たちは朝廷に奏上(そうじょう・天子に申し上げる文書)をおくった。それは太上(たいじょう・だいじょう)天皇(後鳥羽上皇・ごとばじょうこう)と今上(きんじょう)天皇(土御門天皇・つちみかどてんのう)のとき、承元元年二月上旬のことである。天皇と朝廷の貴族たちは法に背(そむ)き、正しい道理(義)に従わず(たがい)、いやしい怒りに心をまかせ正しい専修念仏者にうらみ(怨)をいだいて害を加えた。そのため、専修念仏の正しい教えを、さかりに導いた方(かた)、法然(源空法師)と弟子たちが、ほんとうに罪があるのか、ないのか、を正しく考えようともしない。そして、不法にも住蓮・安楽たちを死刑にしてしまったのである。そのうえ、法然や弟子たちから僧としての身分を奪い、流罪人としての名まえを与えて、遠流(遠い島流し)にした。わたしもそのひとりである。そういうわけだから、もはや、わたしは僧侶でもない。俗人(一般人)でもない。それゆえ、「禿(とく)」という字を、わたしの姓とすることとした。師法然や弟子のわたしたちは、あっち こっちのはしばしの田舎に島流しにされて、五年の苦しい年月を無実の罪の中におくることとなった。」
 
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越後流罪と承元の奏状(そうじょう)
 
流 罪

そのときは、ついにきた。
上皇は、住蓮・安楽を斬らせても満足しなかった。
その月(承元元年二月)の半(なか)ばより終わりにかけて、状勢は、あわただしく動いた。
二月二十八日、太政官符(だじょうかんふ)が出され、法然は藤井元彦という流人(るにん)としての名で、土佐の国(現在の高知県)に流されることとなった。
ただ、実際は兼実の運動により、讃岐国(現在の香川県)にとどまることが許されたという。
年は七十六歳をむかえていた。
死刑にされた者に、住蓮・安楽のほかに、西意善綽房(さいいぜんしゃくぼう)・性願房(しょうがんぼう)があったといわれる。
親鸞は藤井善信(よしざね)という流人としての名を与えられ、越後国(現在の新潟県)へ流されることとなった。
【承久の変以前の「遠流」は次の六国。阿波・佐渡・常陸・土佐・隠岐・伊豆。越後の国と佐渡の国は別国。親鸞は佐渡へ遠流となり、その後、越後へと送られた。奥羽へ布教に行っていた金光上人が事件を知って佐渡の親鸞に会いに来たことを記す古文書がある。『東日流外三郡誌』だ。なるほど偽書攻撃をされるはずだ。新たな真実を提起する書は、至愚至狂の心のねじ曲がった輩にはまぶしすぎるのだ。いつの世も権力を握る者の心根は醜く卑しい。】
師、法然とは東西はるかにへだてられたのである。
年は三十五歳であった(親鸞の場合、あやうく死刑になるところ、ようやくまぬがれて、流されることとなったのだという、別の伝えもある)。
そのほかに、浄聞房(じょうもんぼう)は備後(びんご)国(現在の広島県)、澄西禅光房(ちょうさいぜんこうぼう)は伯耆(ほうき)国(現在の鳥取県)、好覚房(こうかくぼう)は伊豆(いず)国、行空法本房(ぎょうくうほうほんぼう)は、佐渡(さど)国に流された。
幸西成覚房(こうさいじょうかくぼう)・善恵房(ぜんけいぼう)は二人とも遠流(おんる・遠い島流し)にさだめられたが、比叡山の慈円が、かれらをあずかったという。
以上の事実は、主として親鸞の弟子唯円(ゆいえん)の記録からとった。
それは『歎異抄(たんにしょう)』の終わりにそえられたものである。
しかし、他にも説はある。たとえば、幸西は讃岐に流されたのだというように。
けれど、今はこまかい問題にかかわる必要はない。
むしろ問題はつぎの点だ。
法然の弟子は数多い。
だのになぜ、かれらだけがねらいうたれたのか。
その中で幸西の場合はわかっている。
「一念義(いちねんぎ)」は法然集団の中の急進派のグループだ。
幸西は、その理論上のリーダーだったのである。
親鸞の場合はどうだろう。
親鸞が結婚していたことが原因だ、という説もある。
親鸞は若手の急進派の理論の代表者だったのだろう、という説もある。
これについて、わたしは沈黙せねばならなかった。
なぜなら、史料のない場所で、あて推量の不確実なことはいっさいいわない。それが、わたしの自分に対する約束だったから。
しかし、わたしは最近の研究によって、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中に親鸞が流罪中に書いた文章を見つけたのである。
そこには、親鸞の、この弾圧に対する、そのときの主張が、ハッキリと書かれていた。

親鸞の伝承と史料批判:古田武彦より

関東での布教
* 建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、関東での布教活動の為、家族や性信(しょうしん)などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸(茨城県北東部)に向かう。
* 建保4年(1216年)に、「大山の草庵」(茨城県城里町)を開くのを皮切りに、「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を開き、稲田郷(茨城県笠間市稲田)に「稲田の草庵 (「稲田の草庵」を由緒とする寺院はいくつかあり、西念寺の他に、浄興寺(現在は、新潟県上越市に移転)などがある。) 」を開く。親鸞は、ここを拠点に精力的な布教活動を行う。東国(関東)での布教は、約20年間及ぶ。また、主著である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』は、稲田の草庵にて4年の歳月をかけ、草稿本を撰述したとされる。
** 西念寺の寺伝によると、妻の恵信尼は、京には同行せず「稲田の草庵」に残ったとされ、文久9年(1272年)に、ここで没したとされる。
** この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。




◎一時帰洛
  親鸞聖人正明伝  
 建暦二年壬申仲秋の中ごろ、御上京あり。八月二十日あまりに、岡崎の中納言範光朝臣に就て勅免の御礼を申たまいける。御帰京の初に は、直に源空上人の墳墓に詣でて、しばしば師弟芳契の薄ことをなげき、参内の後には、月輪禅定の御墓ならびに玉目前の芒塚にまいりたまいて、御誦経と紅涙 とこもごもなり。印信も御供なりしが、玉日の御墓にては、今更終焉のわかれのここちして、哀傷の涙に沈つつ、其歳おりふしの事どもまで語出されたり。母公 御いたわりのうちにも、亦今限の時に至ても、汝が父は科なき左遷となりて、北狄の中に身を損たまうぞ。我身まかりなば越後へ兎申やれ、北国へ角申やれと、 仰られしものをと。口説つづけて泣れければ、聖人も御涙に咽びたまえり。 

◎一宇建立

 同年九月、聖人城州山科村に一寺を草創したまう。是は江東荒木源海の請達に因てなり、今の興正寺是也。 

◎東国布教

 同年十月、聖人は辺鄙の群萌を化益せんがために、遂に東関の斗薮をおぼしめし立て下向あり。
 伊勢大神宮へも御参詣あり、同国桑名御崎と云所に一夜とまりたまう。其地の漁父ども参て申よう、世業おおきなかに、かかる罪ふかき身に生逢ぬること、宿業のほども恥しくそうろう。此身にては、後世いかで助り侍わんと嘆申けり。聖人宣わく、如此身どもにても、責て経陀羅尼の一言をもおぼえ、亦は座禅などと云ことも聞習けるにやと。漁父申く、昼は終日殺業にひまなく、夜は通夜に明日の営をこそ意にかけ候らえ。いつ隙ありて経をも読ならい、亦観念の窓にも向べ きと申ける。聖人打咲たまい、無智の人のなまざかしきは、往生のために大なる害なり。弥陀の本願には、善人をも好ず、悪人をも嫌ず、都て十方衆生ただ信心 念仏を以て往生を願わば、助べきとの御誓にてこそはあんなれ。もし機の善悪をかえりみば、今の世の人は千万人の中に一人も助かるものは有べからず。唯あり のままにて、無手と本願にすがるこそ、決定往生の人なれ。唐の善導大師、我朝の法然上人は、天下に並なき智者なれども、みな智慧才覚をすて、愚痴無智の身になりて、極楽を欣たまえり。罪を云えば五逆十悪も往柁生す、機を云えば東西不弁の者も摂取にあずかる。誰か、この教を信ぜざらんやと、懇にすすめたまえば、各二心なき信者となり、遂に殊勝の住生をとげけるとなり。

◎小島の草庵
(蓮位房)
 聖人、伊勢国桑名より東海道を下たまう。まず常陸国下妻の小島郡司武弘が館に下著ある。在京の時は、先越後へと御志もありしかども、武弘、そのかみ聖人に親昵の事あれば、此よしみを忘れず、京都まで使をまいらせて、連に招請しけるほどに、まず小島に赴たまえり。

 暫ありて、其年の冬、おりふし雪も降ざりければとて、越後へ立越たまう。是は四十歳の時なり。四十一歳二歳のうちは、越後にましましならがら、信濃、上野の間に徘徊ありて、教化ひまなし。


 其後、横曾根の性信房御迎にまいられければ、亦下妻へかえられぬ。
 此性信房は、かの郡司武弘が一家にて、聖人関東御門弟の中には、ひさしき御弟子なりければ、武弘この人をもて御迎につかわしける。さてなん、御かえりに とどこほりもなかりき。郡司、よろこびに堪ず、偏に師教を仰ぎて他念なし。ついに建保四丙子歳十一月、六十余歳にして、殊勝の往生を遂にけり。常には強気 なる武士と見えしが、菩提心ふかかりければ、臨終のめでたき事ども、聞人これをうらやみけり。聖人も無二の御門徒なれば、哀にかなしく思召ける。

稲田興法

【10】 第二段

 聖人(親鸞)越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ。幽棲を占むといへども道俗あとをたづね、蓬戸を閉づといへども貴賤ちまたにあふる。仏法弘通の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念たちまちに満足す。このとき聖人仰せられてのたまはく、「救世菩薩の告命を受けしいにしへの夢、すでにいま符合せり」と。


◎稲田の西念寺

 聖人四十五歳建保五年丁丑夏の始め、同国笠間郷稲田と云所に移て、草庵を占たまう。其由をたずぬれば、去年仲冬小島郡司すでに往生をとげぬ。聖人も最あじきなくおぼしめしける。爰に国中に教化に預かる道俗、各小島に参りて聖人に申すよう、此所は当国のくにはしと申べし。郡司殿も既 に御おしえに因て往生を遂にき。御心にかかることも侍らじ。笠間の辺は、信心の門徒多し。今は彼地にうつりかえられて、教化を専にしたまうべしと。聖人も さすがに其請も黙しがたくして彼方に移りたまいき、是を稲田御坊と申なり。此にましますこと十有余年なり。初には幽棲を占むと雖ども、造俗あとをたずね、 蓬戸を閉ずと雖ども、貴賤ちまたにみつ。是時、聖人思たまわく、当初救世菩薩の告命、すでに符合するに似たりとて、喜のありさま身に余りたまえり。 


 建保七年の頃は、聖人四十七歳にてまします。常陸、下総、下野のうち、此彼に往返し、教化さかんなり。此時、下妻に源三位入道頼政 が末孫、兵庫頭宗重と云者あり。一門頼茂が謀叛に因て、同意あるかの由沙汰ありて捕られ、既に刑せられんとす。聖人深く乞詫てすなはち剃髪し、御弟子とし たまう。下妻蓮位房是也。 

◎幽霊済度
(鳥巣の無量寿寺)
 四十八歳の時は、鹿島、行方、奥郡、南庄、国府、柿岡、羽黒、小栗などを勧め給いけるに、鹿島のちかきあたりに、鳥巣と云里あり。
 此の里に寺あり、寺中の墓より女の姿なる妖霊出て、人を悩ます。寺僧、法力を尽せども験なし。他師を請じて、種々の行法を修すといえども曾て止ず。為方 なくてやありけん、住侶僧、聖人の許に参て申けるは、某が寺にしかじかの事はべり、是は其かみ山賊悪八郎と云し者の墓なり。四十年以来、かかる妖災あり て、今は入来人さえたえだえにて、寺院も既に魔の住家となれり。*(キ 怖−布+希)くは、明師あはれみを垂たまえと。
 聖人のたまわく、夫顧王の大悲なお五逆の者を捨てず、況や盗殺の罪をや。仏力難思なり、何ぞ之を救わざらんやと。明日其地に往たまい、東国の風なれば、 小石をあつめ、三部の経典を書き、かの墓所に理み、五箇日のあいだ誦経念仏したまえり。第四日の夜半に至て、墓の裏に声ありて云く、説地獄の重苦を安くこ と四十年、たまたま人間の身に頼れば、其苦すこし遁るる暇あり。故にさまざまの妖を為たり。然るに、今大善知識の法力により、速に安楽浄土に往生す、今よ り以後、わざわいあるべからずと、聞者身毛を立たり。其後、果して妖災あることなし。
 茲に、鹿島神官尾張守中臣信親、件の不思議を聞て、ふかく聖人に帰したてまつり、感心の余に、我二男磯崎次郎信広を聖人にまいらせて御弟子とす、順信房 是なり。
 聖人御帰洛の後、関東の法流しばらく錯乱することありて、聖人をも偏頗ある人なりと沙汰し、あしきさまに申す人多かりき。順信房嘆にたえかね鹿島明神に 一七日参籠し、聖人もし凡人にてましまさば、尠の誤も偏頗も候うべし。実に権化にてましまさば、更に誤なかるべし。如何ならむとも、明神これを示たまえ と、丹誠をこらして祈られける。満夜に底て、神明の示現に、善信はまさしき権化の聖人ぞかし、唐の導綽禅師の後身なれば、争でかいささかも誤のあるべきや とて、一首の神歌あり
  青柳の千すじの糸は乱るとも 一木の松の色はかわらじ
 是より、二心なき御弟子の員に入にき。後に聖人一生の事を話されたる書にも、是を載られきと聞えし。


親鸞聖人正明伝 巻三下

◎大蛇済度
(八千代の弘徳寺)
 聖人、或時常陸国府中より稲田草庵にかえりたまうに、板敷の本道にかからず、大増のあなたより、若国山の東のかたの道を過て帰御あ り。日既に西に痩せて、道路に人なかりき。彼山の麓なる深淵より大蛇出て聖人に相向いぬ。其長三丈余、まことに怖べきありさまなり。
 聖人歩寄て、汝吾を害せんとて出たりや、将吾に所用ありて出たりやと問い給うに、大蛇頭を下て両眼に涙を流すこと雨の如し。聖人、其こころを鑑察し、仏法には改悔懺悔と云ことあり。汝今夜わが稲田庵室に来れ、蛇身を解脱する法を授べしと誨たまえば、恰の姿をなし、浪を分て入たり。
 某夜深更に及で、女姓の声して草庵におとずるるあり。聖人かねて御約束なれば、みずから*(ケイ 肩−月+(炯−火))〈かんぬき〉を開て召入、蛇身を 受たりし宿因を懺悔せしむ。女申さく、妾は先生猿子村の某が妻女なりしが、其性慳貪にして常に瞋恚さかんなり。僧尼を見ては仇のごとく思い、婢妾のともが らに於ては、瞋のほむら胸にもえて止むひま更になかりき。自余の悪心、昼夜に断つことなければ、争で其数教は申べき。されば、死て今這蛇身を受、水中に住ながら、身は三熱の焔に焦され、鱗の内に百千の毒虫あて、肌をついばむこと針を以て肉を穿つよりも甚し。伏願は、明師憐をたれ、此大苦悩を救わせたまわれ と、梯泣雨涙して身を揉むこと彼苦患を眼前に見るが如し。
 聖人きこしめし、血脈を封じ給わり、汝よく聞べし、海底の龍女は如来の法を信受して即身に成仏し、摩羯大魚のおそろしきも、仏名を信じて暴心を翻せり。 此血脈は他なし、如来万徳の名号と汝が法名となり、深く信仰をいたし、今の畜身を離べしと。ねんごろに、教化してかえらしむ。
 其後幾ほどなくして、彼池の大蛇死して、其屍水上に浮てありと沙汰あり。聖人不審乍ら、彼池に行て見たまえば、果してこれあり。頭の鱗の間に、聖人の賜わりし涼光とあそばしたる血脈を戴たり。聖人、御覧じて、最あわれにおぼしめし、近隣なる大増村の人人をかたらいて、其屍を土中に埋み、大なる塚をつき、 三日三夜誦経念仏して、之を弔いたまう。諸人参詣すること市の如し。
 満夜に至て、天華くだり、天人下来し、聖人を拝すること丹誠をつくす。申て曰く、我はこれ斯池の大蛇なり、三熱の苦患に沈むこと幾の年を累たり。此回明師の教誨にあずかりて、速に蛇身を脱し、天人の果を得たり、亦復是より浄土に往生せんこと最やすし。今謝礼のために、天女の形を以て降ると云て、雲に乗じて去りぬ。参集の男女、おのおの聖人の徳に帰せずと云ことなし。 

弁円済度

【11】 第三段

 聖人(親鸞)常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし。しかるに一人の僧[山臥と云々]ありて、ややもすれば仏法にをなしつつ、結句害心をさしはさみて、聖人をよりよりうかがひたてまつる。聖人板敷山といふ深山をつねに往反したまひけるに、かの山にして度々あひまつといへども、さらにその節をとげず。つらつらことの参差を案ずるに、すこぶる奇特のおもひあり。よつて聖人に謁せんとおもふこころつきて、禅室にゆきて尋ねまうすに、上人左右なく出であひたまひけり。すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、ありのままに日ごろの宿鬱を述すといへども、聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭をきり、刀杖をすて、頭巾をとり、柿の衣をあらためて、仏教に帰しつつ、つひに素懐をとげき。不思議なりしことなり。すなはち明法房これなり。上人(親鸞)これをつけたまひき。


◎坂敷山の弁円
(板敷山大覚寺)
 聖人、或年の秋、常陸国府より稲田へ帰御ありけるに、日既に暮に及べり。常に往返したまうにより、今夜も亦大増の道にかかり、坂敷山と云坂路を越え給えり。
 同国上宮村に山伏あり、播磨公と云者なり。又、天引の辺に天引小川房と云者あり、那珂郡に小山寺吉祥と云者一類の修験者なり。中に就て、播磨公、ひごろ 聖人の勧化をねたみ、三人ともないて板敷山にしのびゆき、時時に候い、聖人を害せんとす。度々に及ぶと雖ども、事を遂げず。つらつら其参差を按ずるに、最も奇異の思あり。いざ、聖人に謁して、事の様を見るべしとて、弓箭兵杖を帯し、稲田草庵に参て案内せり。
 御庵室に居逢たる御弟子達おどろきて、日来きこえし曲者こそ乱入して侍べり、まず吾儔出向て問答すべしと云う。聖人きこしめし、言ことなかれ、我おもう 事ありとて笑を含み、離衣素服にて左右なく出逢い給いぬ。
 すなわち尊顔に向うに、聖人は元より広*(ソウ 桑+頁)〈ひたい〉稜目の相まします、是大人智者の相也。播磨公修験の者なれば、人相はよく知りぬ。一見に我情を折、たちまちに帰依渇仰の心発りて、害心速に消失ぬ。庭上に伏沈て、件事をかたるに、聖人いささかも驚けるいろなし。待詫たる御ことばにて、誠 に今日は能弟子をこそ得めと思つるに、果して御房の来られたりとのたまいて、歓悦に堪たまえり。
 播磨公思らく、是ぞ生身の如来なりと、空おそろしくおぼえて、立地に弓箭を折、刀杖を舎て、柿衣を脱ぎ、改悔涕泣して御弟子となれり、明法房証信是也。 楢原と云う所に住せり。聖人にさきだちて往生を遂げぬ。 


 聖人五十余歳のころにやありけん、鹿島行方を教化あり、与沢と云う里を通りたまうに、其村に平田某と云庶民あり。野外に出て聖人を迎たてまつりて申よう、某が妻、すぎにしころ、産難にて身まかりぬ。流転して亡魂夜ごとに来て、泣叫ぶことすさまじ。さまざまに 追善をなすに、更に験なし。仰ぎ願くは、之を吊て流転を救いたまえと、哭々申けり。
 聖人、是を聞て尽十方無碍の光明の到ざるところあるべからず、其光明の照さぬ罪もあるべからず、救うに何ぞ難からんとて、彼が家に入たまい、礫石を集 め、三部大乗の石経を書て、亡女が墓に埋み三日を期して吊たまう。
 第二日の夜、亡女うるわしき貌を現し、聖人に向て低頭百拝して申さく、妾明師の法力に由て、速に血盆を出て、清浄の国に往生す。たとい骨をくだき、身を くだきても猶お此洪恩を報がたしと。又家内の眷属に告ていわく、這聖人は生身の仏陀にてまします、妾が為にふかく報恩をいとなむべしと云終て影の如くに消 え去りぬ。
 平田某、是より渇仰日々にあつし。聖人其志の深きを感じ、画像の弥陀を賜わる。
 嘉禄年中、聖人五十四歳天童の告に因て、下野国大内庄に一寺を建立したまう。
 伝聞、此地は本より丸尋無底の淵なりしが、一夜に凸然たる堅地と成る、所以に此地を高田と号す。蓋聖人金剛信力の致す所にして、神明仏陀の冥助の手より 成るものなり。

◎高田専修寺
(本寺)

 又霊夢に依て、信州善光寺分身の如来を感得し、斯寺に安置し給う。即ち勅号を申賜て、専修阿弥陀寺と号せり。
 後に真仏房に附属したまえり、高田専修寺是也。
 

◎餓鬼済度
(筑波山)
 聖人、或時常陸国筑波山に参て旅館に寄宿ありけるに、其夜神夢あり。
 一童子来ていわく、我は当山男体権現の使なり。師、明日山下の三窟のうち中窟に入るべし。かならず所用あらんと。
 聖人不審ながら、明日彼岩屋に入て視給うに、二箇の釜あり。一口は土にて造て水一斗ばかり湛たり、一口は鉄釜にして水なし。
 暫ありて、岩屋の奥の小穴より餓鬼出来り、聖人に向て申よう、我等は人間たりし時、慳貪放逸の者にてさぶらいし。其報に因て、今此餓鬼趣に落在せり。但 し筑波権現の氏子たる者は、権現の別の御慈悲に依て余の悪趣にいれず、斯窟中に置て日毎にこの釜の水一滴ずつを与て食となさしむ、是男体権現は本地大悲の 薩*(タ 土+垂)にてましますゆえなり。然るに、昨夜神の告あり、明日明師ここに来応あるべし、諸鬼かの教誡誡にあずかりて悪趣を脱せよと。希くはこの 重苦を救い給えと、袖裳にすがりて泣たり。
 聖人思さく、昨宵の神使は此事になんと暁〈さと〉し、餓鬼におしえて宣わく、極重悪人無他方便、唯称念仏得生極楽とて、汝等如き者の解脱を得ること、偏 に念仏の功徳にありとて、ねんごろに弥陀の誓願力を開示し、聖人を始とし異口同音に念仏せしむること、二日二夜に至る。
 聖人諸鬼に問て宣わく、釜中に水多し、何ぞ一日にただ一滴を呑や。鬼が云く、一滴はもとより我等の身なり。二滴を甞む時は焔となりて臓腑を焼かる。この 故に、呑むこと能わずと。聖人宣わく、今は焼くこと莫ん、唯呑べしと。諸鬼歓て之を呑むに、聊も障なし。遂に其水を呑尽しぬ。
 ここに外より一大鬼来るあり、一の屍を提て其手足を引さき*(瞰−目+口)〈く〉らう。水を呑とするに、釜中に水なし。彼鬼、聖人を睨て云く、僧何ゆえ に此に来や、亦釜水渇たる由いかん。聖人宣わく、水の渇たること我餓鬼に与て呑しむ。汝亦何ぞこれをとがむるや。鬼が云く、我は一崛の主なり、唯一滴の水 を一鬼に与て食とす、故に水の渇たるを咎むと。聖人宣わく、咎むことなかれ。汝に水を返すに易しとて、男体権現の方に向て持念す。忽に水釜中に涌くこと故 の如し。
 鬼、この奇を見て、五体投地して云く、是師は生身の仏陀なり。僕ひさしく餓鬼の統主として重苦を受く、常に飲食に乏し。千日に一たび路頭に仆〈たおれ〉 たる屍を拾得て、是を喰ふに飽ことあたわず。師ねがわくは、我より始て崛中の衆鬼を救たまえと、血涙に沈ける。
 聖人いよいよちからを得たまい、光明遍照の文を誦して念仏せしむ。一日に及んで、五色瑞雲あらわれ、岩屋に入来る。此とき崛中の諸鬼ことごとく瑞雲に乗 じ、天下鳥に誘なわれ、西方の雲間に入る。

親鸞聖人正明伝

◎霞ヶ浦の草庵
(柿岡の如来寺)
 聖人、或年の夏の初め、常陸国霞浦と云海辺に往き給うことあり。
 浦人申けるは、頃日海上にすさまじき光物あり。其故にや、魚鱗も浦へ寄ることなし。是いかなる凶事にかあらんと。聖人あやしくおぼしめし、或日汀に往て これを窺いたまうに、彼光物漁父の網につれて濆〈みぎわ〉に寄れり。これを覩いたまえば、金泥の弥陀古仏にてありき。聖人太よろこび、我に有縁の仏なりと て御衣に包み、稲田の草庵に帰りたまえり。駿河国阿部川を渡したまえるほとけ是なり。
 寛喜年中、聖人数日御説法ありけるに、毎日白衣の老翁来て聴聞す。其体気高して尋常の人にあらず、一日諸人みな帰て後に老翁聖人に 申様、われ頃日明師の法味を受て心身歓に堪たり。猶更にねがいたてまつることあり。我白頭に剃刀をあて、法名を賜わば志願満足せんと。聖人快く許諾あり て、すなわち剃刀をあて誦文し、法名を信海と書て授らる。老翁頂戴して申さく、吾ひごろの願望すでに満足せり。われまた能く水を主どることあり、今日の布 施物に、師の弘法の地に於て併冷水を献らんと云い終りて、速に去りぬ。人々不思議の思いをなし、彼翁の跡を認め行くに、鹿島神籬に入ぬと覚えて迹なし。
 其後、神事に由て社頭を開くに、聖人の賜いし法名歴然とありけり。誠に聖人の化導神明に通ずるものかくのごとし、不思議なりしことなり。
 是よりさき、嘉禄年中にやありけん、聖人鹿島神社に参りたまうに、神感さまざまなりき。此社は、東国守護の霊神にて、亦和光の方便を仰ぎたまうゆえなる べし。
 或説に、本地観世音にてましますとかや、聖人亦弥陀の応現なれば、内鑑冷然ならんこと疑うべからずと云々。
 聖人、常陸下野より相州鎌倉にかよいて、道々教化あり。


 或時一人下野へ還らせたまうに、絹川の渡にて日既に暮れぬ。舟はありながら渡守はみえず。いかがはせんとおぼしめすところに、松明をたてて来る者あり、 年齢十五六ばかりなる童子にてありける。聖人に申けるは、はや舟にめさるべし、渡したてまつらんと云う。
 聖人よろこびたまい、如渡得船とは、今此時なりと口遊し、渡すまして後問たまわく、先途遥なり、松明も最短し、亦少童唯一人往くことおぼつかなしと。童子いわく、道程遠とも松明は足ぬべきことあり。聖人はいずくへ行きたまうぞ、我は云云の方へ行くなり。童子うちわらいて、何さまにも小栗の辺までは供奉つ こうまつるべし。御こころやすかるべしとて、先に立て歩み行く。ゆきゆきするほどに、小栗も過て十町ばかり北までまいりぬ。
 聖人杖を止て宣よう、遥々のみち送りたまわること、誠に志ふかし。又僅に見し松明の是までつづくことも不審なりけるにても、童子はいかなる人にて侍るぞ と、ねんごろに問いたまえば、我は筑波山十八童子のうち、茶喃玖〈さなく〉童にてそうろう。筑波稲村権現の仰に因て、師を送りまいらせぬ。此炬火はもと師より預りたればとて、聖人の御手にかえせり。
 聖人宣わく、我にもとより炬火なし、何ぞ如此云うやと。童手を叉て白さく、是炬火は他物に匪ず、師の勧化の法灯なり。師、勧化の法灯今也〈や〉短少なり といえども、法灯百歳の暁に致〈いたる〉まで、奈ぞ尽期あらんやと云。忽に去り失せぬ。炬火も復御手にあることなし、是亦不思議のことどもなり。
 当初応長年中、高田の専空師ののぼられしに、面謁のとき此物語ありて、これは常には言わざる事なりと申されたり。さして秘事すべき事とも覚えず。何なる 意にやありけん、知りがたし。又茶喃玖童子の事を問いしかば、是実には伊奈牟羅の如意輪の事也。其生身の体は、三筒岩屋の裏にまします。斯く申すも筑波権 現へ恐ありと物語ありしなり。さては、件の奇異等は、彼山の秘事なるにや。
 稲村の如意輪、並に三筒岩屋のこと、我くわしくこれを知らず、後の人つまびらかに尋ぬべし。


帰京

* 天福2年(1234年)鎌倉幕府が、念仏者取締令を出す。その為、62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。
** 親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。
* 寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。
* 宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。
* 建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』を撰述する(盛岡本誓寺蔵本)。
* 建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。
* 建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』を撰述する。
** 建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国(関東)へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善(せんじゅけんぜん)」に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。


 聖人、六十余歳北国関東の教勧成就して都へ登りたまう
 相撲国江津と云所に、暫く滞留ましましき。是より鎌倉も遠からず、殊に始より教化の縁もあれば、時時にかよいてすすめたまう。
 其折ふし、鎌倉北條家、一切経を書写し、校合慶讃の法会あり、是は数多の知識を請じて修する法会なり。此時、親鸞聖人は卓抜の智者なる由沙汰ありけれ ば、招請して文字章句を選ぶの宗匠とす。聖人は常に徳をかくし、田夫野叟に類するを縡し給うと雖、冥薫まがきにもれ、霊光包むに余りあれば、今大会の宗匠 に選れ給えり。
 北条武蔵守泰時の時なりとかや、泰時始は修理亮と号せり。此法会の時は、聖人六十一二歳なるべし。 

箱根霊告

【12】 第四段

 聖人(親鸞)東関の堺を出でて、華城の路におもむきましましけり。ある日晩陰におよんで箱根の嶮阻にかかりつつ、はるかに行客の蹤を送りて、やうやく人屋のにちかづくに、夜もすでに暁更におよんで、月もはや孤嶺にかたぶきぬ。ときに聖人歩み寄りつつ案内したまふに、まことに齢傾きたる翁のうるはしく装束したるが、いとこととなく出であひたてまつりていふやう、「社廟ちかき所のならひ、どもの終夜あそびしはんべるに、翁もまじはりつるが、いまなんいささか仮寝はんべるとおもふほどに、夢にもあらず、うつつにもあらで、権現仰せられていはく、〈ただいまわれ尊敬をいたすべき客人、この路を過ぎたまふべきことあり、かならず慇懃の忠節を抽んで、ことに丁寧の饗応をまうくべし〉と云々。示現いまだ覚めをはらざるに、貴僧忽爾として影向したまへり。なんぞただ人にましまさん。神勅これ炳焉なり、感応もつとも恭敬すべし」といひて、尊重屈請したてまつりて、さまざまに飯食を粧ひ、いろいろに珍味を調へけり。


◎箱根

 聖人、六十余歳東関の境を出て、華洛に赴きたまう。
 月も殊に艶なればとて、通夜箱根山を越えたまうに暁ちかくなりぬ。暫く休息あらんとて、人家に灯のみえけるに、立寄案内したまう。
 思わずも装束したる翁とみにまかり出で申けるは、翁は当社の巫祝にはべり、友のかんなぎどもと寄集酒宴して遊びけるに、興につかれ聊か寄居てさぶろう に、ただいま夢にもあらず亦現ともなく、権現の御告あり。我たとむべき客僧ただいまここを過ぎたまうことあり、誠をつくし、丁寧に饗応を致すべしと、御示 現いまだ終らざるに、貴僧来臨したまう。何ぞ直〈ただ〉也人にましまさん、神勅これあきらかなり。敢て尊敬せざらんやとて、さまざまに饗をいたし、尊重の 誠をつくせり。
 茲に因て、一日御逗留あり。これまた客人の化導、神明の意に称いたまう故なり。


 其よりのぼりて、駿河国阿部川に著きたまう。
 折ふし、雨ふり水かさまりて、旅人わたることかなわず、両の岸を見れば、人の塘を築きたるように見えたり。聖人も笈を下させ休みたまうに、背後より僧一 人来て云く、川水は思うより深からず、此川の淵瀬は我よく知りぬ、いざさせたまえ、御供の人人も我につきて渉らるべし。水は膝にも及ばずと云て、聖人の手を取て、川にざぶと入りき。誠に水は膝より下に覚えたり。
 渉りすまして見れば、彼僧忽ちに笈の中に入りたまいぬ。人々不思議なりとて、笈を発〈ひらき〉みれば、当初霞浦にて得たまいたる阿弥陀の木像を、このたび負て登られけるが、其木像の膝より下水にひたれてましましける。さてなん件の化僧は是ほとけなることを知れり。甚不思議なることなり。
 其夜は手越に止宿ありける。長途のつかれにて、三人ともにはやく眠りたまえり。夜半ばかりに御供なりける一人夢みるよう、笈の中の木像枕に立て宣わく、 汝今日川を渡したること太だよろこばしきや、夢の中に答て申さく、されば仏は後の世の苦患をこそ救いたまわんに現身の水難を救わせたまえば、後世の事もい よいよたのもしくこそさぶらえ。
 木像手を抵〈うち〉て哂いたまわく、汝おろかなり、唯今日の恩のみかは、久遠劫よりこのかた生死の大海を渡さんために無量の大願を発し、弘誓の船筏に棹 さして、娑婆界の衆生をのせつくさんとて千返影向す。此洪恩は知らずやと宣て、夢さめたり。
 感激に堪えかね、聖人を驚かしたてまつりて、斯と語る。三人ともに、墨染の袂をしばりあいたまう。

◎帰洛

 嘉禎乙未年の秋、聖人華洛に還りたまいぬ。
 つらつら往事をおもうに、年矢のはやきこと夢のごとく、白駒のすぐること幻のごとし。そのかみ、断金のむつびを問えば、むなしく東岱の雲にかくれ、古の芝蘭の友をたずぬれば、遂に北芒の露に消えぬ、いとど昔を思召いだしける。


  御還洛の始めより、毎月二十五日源空上人の忌をむかえ、人々を集会し、声明の宗匠を屈請して、念仏勤行ありて、ねんごろに師恩を謝したまえり。
 御消息の中に、二十五日の御念仏と云えるは是ことなり。
 同年冬のはじめ、下妻の蓮位房、横曾根の性信房、聖人帰洛御みまいのために上京す。斯二人は、そのさき聖人御帰京のとき供奉せられ しを、箱根の東よりかえされけり。因て此たび登りぬ。其時南庄乗然房を始めとして、東国の御門弟日を追てたずね参りけり。
 聖人跡を認ね来るもものうしとて、或時は二条富小路にましまし、或時は一条柳原、又は三条坊門富小路、河東岡崎、あるいは吉水辺にもかくれ、清水なんど にも居たまえり。五条西洞院の禅坊は、常の住居なり。 

熊野霊告

【13】 第五段

 聖人(親鸞)故郷に帰りて往事をおもふに、年々歳々夢のごとし、幻のごとし。長安・洛陽の棲も跡をとどむるに懶しとて、扶風馮翊ところどころに移住したまひき。五条西洞院わたり、これ一つの勝地なりとて、しばらく居を占めたまふ。

このごろ、いにしへ口決を伝へ、面受をとげし門徒等、おのおの好を慕ひ、路を尋ねて参集したまひけり。そのころ常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の訓を信じて、もつぱらふたごころなかりき。しかるにあるとき、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、ことのよしを尋ねまうさんがために、聖人へまゐりたるに、仰せられてのたまはく、「それ聖教万差なり、いづれも機に相応すれば巨益あり。ただし末法の今の時、聖道門の修行においては成ずべからず。すなはち〈我末法時中億々衆生 起行修道未有一人得者〉(安楽集・上)といひ、〈唯有浄土一門可通入路〉(同・上)と云々。これみな経・釈の明文、如来の金言なり。しかるにいま唯有浄土の真説について、かたじけなくかの三国の祖師、おのおのこの一宗を興行す。このゆゑに愚禿すすむるところさらに私なし。しかるに一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり。すなはち三経に隠顕ありといへども、文といひ義といひ、ともにもつてあきらかなるをや。『大経』の三輩にも一向とすすめて、流通にはこれを弥勒に付属し、『観経』の九品にもしばらく三心と説きて、これまた阿難に付属す、『小経』の一心つひに諸仏これを証誠す。これによりて論主(天親)一心と判じ、和尚(善導)一向と釈す。

しかればすなはち、いづれの文によるとも一向専念の義を立すべからざるぞや。証誠殿の本地すなはちいまの教主(阿弥陀仏)なり。かるがゆゑに、とてもかくても衆生に結縁の志ふかきによりて、和光の垂迹を留めたまふ。垂迹を留むる本意、ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。しかあれば本地の誓願を信じて一向に念仏をこととせん輩、公務にもしたがひ、領主にも駈仕して、その霊地をふみ、その社廟に詣せんこと、さらに自心の発起するところにあらず。しかれば垂迹において内懐虚仮の身たりながら、あながちに賢善精進の威儀を標すべからず。ただ本地の誓約にまかすべし、あなかしこ、あなかしこ。神威をかろしむるにあらず、ゆめゆめ冥眦をめぐらしたまふべからず」と云々。

これによりて平太郎熊野に参詣す。道の作法とりわき整ふる儀なし。ただ常没の凡情にしたがひて、さらに不浄をも刷ふことなし。行住坐臥に本願を仰ぎ、造次顛沛に師教をまもるに、はたして無為に参着の夜、件の男夢に告げていはく、証誠殿の扉を排きて、衣冠ただしき俗人仰せられていはく、「なんぢ、なんぞわれを忽緒して汚穢不浄にして参詣するや」と。そのときかの俗人に対座して、聖人忽爾としてまみえたまふ。その詞にのたまはく、「かれは善信(親鸞)が訓によりて念仏するものなり」と云々。ここに俗人笏をただしくして、ことに敬屈の礼を著しつつ、かさねて述ぶるところなしとみるほどに、夢さめをはりぬ。おほよそ奇異のおもひをなすこと、いふべからず。下向ののち、貴坊にまゐりて、くはしくこの旨を申すに、聖人「そのことなり」とのたまふ。これまた不思議のことなりかし。


熊野の平太郎
 聖人五条西洞院にましますとき、常陸国大部郷の庶民平太郎と云うもの、当初聖人の教を信じて二心なかりき。このたび、所務に駈れ て、紀州熊野神社に詣でける。すなわち、御許にまいりて件の事を申けり。
 聖人宣わく、神明には詐なし、証誠殿の本地は即西方の教主にてまします。唯偏に本願を信じ、誠をつくすべし。常没の凡心ながら、強て威儀をかいつくろう べからず。是かならず神明を軽ろしむるにあらず、抑和光の方便は、偏えに仏道に引入せんと欲するにあり。努努冥眦を回したまうべからずと云云。
 よて、平太郎熊野に参詣するに、唯師教にまかせ、道の作法とりわきて威儀を刷うことなく、もはらに誓願を信じて他なし。果して無為に参にき。
 神籬に通夜いたしけるに霊夢あり。権現証誠殿の扉をおしひらき、衣冠の姿にて咎めて宣わく、汝何のゆえに威儀をもつくろわで、我前に参るやと。厥時、聖 人忽爾としてあらわれ出たまい、是は善信がすすめにまかせて詣ける者に侍ると仰せありければ、権現笏をただしくし、聖人に色代〈しきたい〉あり、敢て咎め たまうことなしと見て、夢さめおわりぬ。
 奇異の思いをなし、帰京のとき聖人に参て云云の事ありと申すに、聖人聞たまいて、其事なりと宣えり。誠に不思議のことなり。
聖人、七十歳のとき、御弟子入西房ひごろ聖人の寿影をうつしたてまつらんと思う心あり、聖人暗に其志をし ろしめし、入西に示して宣わく、七条辺に定禅法橋と云仏絵師あり、彼者に図かしめよと、入西房鑑察のむねを悦び、すなわち彼法橋を招て、聖人の尊顔を拝せ しむ。
 定禅申ていわく、昨夜奇特の夢をなん感ぜり、貴僧二人来たまいて宣わく、茲一人の化僧は、善光寺の本願の御房なり。汝この僧の真影をうつしたてまつるべ しと、某夢の裏にさては生身の弥陀如来にこそと、身毛竪て尊敬したてまつりき。今是聖人の尊容夢のうちの化僧に、尠しも違たまわずとて、感涙にしずみてけ り。
 夢は仁治三年五月二十日の夜なり。聖人弥陀如来の応現と云うこと、誠にあきらかなり。
 聖人、八十歳正月のころ、御病疾にておおよそ絶食のようにてありしが、二月の初より快然たり。因て三月のはじめより『文類聚鈔』を 書たまえり。 
 建長八年の春、聖人御病気あり、高田の顕智房と蓮位房と給仕に侍りき。
 事の序であるままに、蓮位、顕智に申さく、聖人をばいかなる人と思い定たまうやと。顕智の云く、まさしく如来の応現なると思いはべるなりと。蓮位しばし ば肯ざる辞にて、されば、或時はまさしく権化の人なりと覚ゆることあり、亦或時は疑わしく見えたまうこともありと。顕智房は茶を呑てありしが、少しほほ咲 て遠からぬ日に、実は知りたまわんとばかり申されたり。
 さてなむ、蓮位房不思議の夢想を感ずることあり、所謂聖徳太子親鸞聖人を礼したてまつりてのたまわく、
  敬礼大慈阿弥陀仏  為妙教流通来生者
  五濁悪時悪世界中  決定即得無上覚也
 時に建長八年二月九日の夜なり、これ皇太子の聖意蓮位をはじめ、諸弟をして聖人はこれ権化の人なることを知しめんがために這霊告あるものなり、ますます 弥陀如来の応現なりと云うことを信ずべし。
 夜明てのち、蓮位壁に目くばせして、顕智はもとより化生の仁なれば神通あり、おそろしき人なりと、特〈ひとり〉つぶやかれきとなり。
 聖人つねに門人に仰せられて言わく、予むかし難行の小路を出て、本願他力の大道に入ること、ひとえに大師源空の教示によりてなり。源空の本師大勢至菩薩 なり。また末代相応の行状をしめすことは、専ら如意輪救世の告命にしたがいてなり。二大士の引接しかしながら、万機を捨てざるにあり。まさに知るべし、弥陀如意輪の法には不浄をはばからず、予が門人等、穴賢、心に深く此密意を思慮すべきなり。


妻、 恵信尼との別れ
* 建長6年(1254年)、恵信尼は、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったと伝えられる。帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったとされる。
* 建長7年(1255年)、『尊号真像銘文(略本)』(福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類(略本・建長本)』、『愚禿鈔(二巻鈔)』『皇太子聖徳奉讃(七十五首) (『正像末和讃』(「皇太子聖徳奉讃〈十一首〉」)に収録されている物とは、別の和讃集。) 』を撰述する。
* 建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。
* 同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する
** 『歎異抄』第二条に想起される関東衆の訪問は、これに前後すると思われる。
* 康元元年(1256年)、『如来二種回向文(往相回向還相回向文類)』を撰述する。
* 康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類(広本・康元本)』を転写する。
* 正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文(広本)』、『正像末和讃』を撰述する。
** 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖(さんじょう)和讃」と総称する。
** この頃の書簡は、後に『末燈抄(編纂:従覚)』『親鸞聖人御消息集(編纂:善性)』などに編纂される。



洛陽遷化

【14】 第六段

 聖人(親鸞)弘長二歳[壬戌]仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日[午時頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。ときに頽齢九旬にみちたまふ。禅房は長安馮翊の辺[押小路の南、万里小路より東]なれば、はるかに河東の路を歴て、洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾ひて、おなじき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷にこれををさめをはりぬ。しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふことなし。


往生

* 弘長2年11月28日(太陽暦換算:1262年1月16日本願寺派・高田派などでは、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、入滅日を1月16日に改めた。大谷派・佛光寺派・興正派などでは、旧暦の日付をそのまま新暦の日付に改めた。、押小路(おしこうじ)南、万里(までの)小路東の「善法院(弟の尋有僧都が院主の坊)」 (入滅の地である、「押小路南・万里小路東の善法院〈善法坊〉」には諸説ある。本願寺派は、「善法坊」の場所を西の万里小路とし、善法院を再興する(現、本願寺派角坊別院)。大谷派は、「善法院」の場所を「親鸞ヶ原」と呼ばれるようになった地に建立された法泉寺の跡地(現、京都市立京都御池中学校〈虎石町〉)付近と推定して、「見真大師遷化之旧跡」の石碑を建立する。〔また、光円寺(京都市下京区)で入滅され、何等かの理由により善法院に御遺体を移されたとする説もある。〕) にて、90歳をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟朝麿の尋有僧都(じんうそうず)や末娘の覚信尼らが見取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。 流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。
**

  聖人、満九十歳、仲秋より、門人のこと問い来るもむずかしとて、御舎弟善法房僧都の里坊善法院に移りまします。
 今年十月、いささか御老疾ありしが、亦癒にけり。
十一月下旬の初めより、御いたわりにつきたまい、口に余事を交えず、専ぱら称名たゆることなし。折折二尊曠大の御慈悲、大師源空上人の勧化に逢いたてまつることをよろこびたまう。
 同二十八日午のなかばに至て、西北南西右脇に臥して、念仏の息とともに遷化したまいぬ。終焉に逢ふ門人、勧化を受けし老若、仏日すでに滅し、法灯ここに 消えぬとて、恋慕涕泣せずと云うことなし。于時弘長第二壬戊の冬にぞありける。

現在でも親鸞への報恩感謝の為、祥月命日には「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている

* 荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺 (本願寺派は、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟〈西大谷〉の「御荼毘所」)にて荼毘に付されたとする。大谷派は、延仁寺(京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている。(現在の延仁寺は、東本願寺第二十一世厳如が再興したもの。)) に葬したてまつる」と記されている
** 頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国(関東)に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。

  禅坊は三条坊門の北がわ、富小路の西がわなれば、遥に河東の路を歴て、鳥部野の南延仁寺におくりて火葬したてまつる。遺骨を拾いて、鳥部野の北大谷に納めおわりぬ。
 聖人在世の奇特兎毫に尽がたし。滅後の潤益、魚網に余あり。啻九牛が一毛をしるして、百万端の報謝に擬するもの爾なり。

  文和元年壬辰十月二十八日草之畢  存覚老衲六十三歳


廟堂創立

【15】 第七段

 文永九年冬のころ、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、おなじき麓よりなほ西、吉水の北の辺に遺骨を掘り渡して仏閣を立て、影像を安ず。このときに当りて、聖人(親鸞)相伝の宗義いよいよ興じ、遺訓ますます盛りなること、すこぶる在世の昔に超えたり。すべて門葉国郡に充満し、末流処々に遍布して、幾千万といふことをしらず。その稟教をおもくしてかの報謝を抽んづる輩、緇素・老少、面々に歩みを運んで年々廟堂に詣す。おほよそ聖人在生のあひだ、奇特これおほしといへども羅縷に遑あらず。しかしながらこれを略するところなり。


 [奥書にいはく]

  [右縁起図画の志、ひとへに知恩報徳のためにして戯論狂言のためにあらず。あまつさへまた紫毫を染めて翰林を拾ふ。その体もつとも拙し、その詞これいやし。に付けに付け、痛みあり恥あり。しかりといへども、ただ後見賢者の取捨を憑みて、当時愚案の 藍Tを顧みることなきならんのみ。]

  [時に永仁第三の暦応鐘中旬第二天?時に至りて草書の篇を終へをはりぬ。]       [画工 法眼浄賀 号康楽寺]     [暦応二歳己卯四月二十四日、ある本をもつてにはかにこれを書写したてまつる。

  先年愚筆ののち、一本所持のところ、世上に闘乱のあひだ炎上の刻、焼失し行方知れず。しかるにいま慮らず荒本を得て記し、これを留むるものなり。]

   [康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。]

                   [桑門 釈宗昭]

                   [画工 大法師宗舜 康楽寺弟子]

□本願寺の成立
* 文久9年(1272年)(親鸞入滅より10年後)、親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」の地より吉水の北辺(現、崇泰院(そうたいいん)〔知恩院塔頭〕付近)に改葬し「大谷廟堂」を建立する。(永仁3年(1295年)親鸞の御影像を安置し、「大谷影堂」となる。)
* 元応3年(1321年)、本願寺三世覚如により、「大谷廟堂」を「本願寺(大谷本願寺)」と名乗り寺院化し成立する。(応長2年〈1312年〉に、「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。)
** 寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により破却される(寛正の法難)まで、本願寺はこの地にあった(本願寺八世蓮如が宗主の時代)。



著書
*漢文
** 『顕浄土真実教行証文類』(略名 『教行信証』)
***「正信念仏偈」は、『教行信証』の「行巻」の末尾にある、七言百二十句からなる偈文。
** 『浄土文類聚鈔』…教行信証の要点を述べた書物。
** 『愚禿鈔』
** 『入出二門偈』
*和文
** 『浄土和讃』
** 『高僧和讃』
** 『正像末和讃』
*** 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。
** 『三経往生文類』
** 『尊号真像銘文』
** 『一念多念証文』
** 『唯信鈔文意』
** 『如来二種回向文』
** 『弥陀如来名号徳』
** 『親鸞聖人御消息』
*関連書籍
** 『恵信尼消息』
** 『歎異抄』


□参考文献
*光明本尊
*光明本尊 光明寺開基(長禄年間)と同時期の光明本尊、火災がなければこの光明本尊あっ
*光明本尊
*光明本尊
*光明本尊
*光明本尊
*名号本尊
*聖徳太子  皇太子未来記
*ムー大陸



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