造形表現教育実践講座

第6回  心の銀幕(スクリーン)を育てる

作品1  ライオンさんをアフリカにつれていってあげたよ。うれしそうだよ。(4歳児)

1想像する楽しさと喜び

 「じゃ、今日は好きな動物さんの絵を描いてもらいたいと思います。」4歳児のクラスで教師が描画活動の導入をはじめました。確かに動物園で見て来たばかりなので、その印象は新鮮で、それぞれ興味を持った事などを思い出しながら話しをしてくれます。しかし、教師が「描いてもらいたいと思います」と「思う」ほど、子どもたちは「描きたい」と「思っていない」ようです。

 まだまだ幼い4歳児たちには、動物の特徴を詳しく思い出して描くだけの力はありません。教師は「ぞうさんのお鼻はどんなだった?キリンさんの首って長かったよね〜」等と色や形が思い出せるように言葉かけを繰り返しますが、教師がイメージしたような動物たちの特徴を捉えた絵はほとんど生まれてきません。結局なぐりがきや塗りたくりに終わってしまった子も多く、とりわけ楽しそうな様子もなく終わってしまいました。子どもたちの自由な発想をと動物を限定しないで自由に描かせたのに、と教師はがっかりしています。

 一方、全員が同じようにライオンをテーマに描いているのだが、そのひとつひとつのライオンたちの表情はどれも生き生きとしており、みんな嬉しそうに微笑んでいる。(作品1)

 「先生、昨日動物園でライオンさんに会ってきたのだけれど、ライオンさん元気がなかったのよ」との投げかけに子どもたちは「お熱があるのかな?」「お腹が空いているんだよ」とまるで自分たちと同じように考えている様子。

 そこで教師は続けます。「あのね、ライオンさんは、アフリカにいる時は広い砂漠や草原を好きなように走り回れたのに、動物園じゃ狭い檻の中でつまんないよ〜って言ってたよ。」すると、子どもたちは「かわいそう!」と口々に同情している様子です。ライオンの辛さをまるで自分の事のように受け止めているのです。

 「だから、今日ね、アフリカの砂漠を持ってきたんだ!」と言って茶色の画用紙を子どもたちに見せ、「今日はこのアフリカ

の砂漠にライオンさんを連れて行ってあげようか?」と誘うと「連れて行ってあげるよ!」とどの子の表情も嬉しそうです。「これで、ライオンさんが喜んでくれる、元気になってくれる!」とまるで自分のことのように嬉しくなってきたようです。

命のつながりを感じる子どもたち

 たとえ、それが動物であっても、虫であっても、事と場合によれば石ころだって、自分たちと同じように喜んだり、悲しんだりすると感じている子どもたち。ライオンさんを喜ばせてあげようと画用紙に向かって描いている子どもたちは、そこに命のつながりを感じ取っているのです。

 こうした、誰かを助けてあげる、喜んでもらうという気持ちで想像しながら表現していく活動を通して、他人を思いやる心が育ちます。いつでも、だれもが、自分に優しくしていて欲しいから、自分も精一杯優しくしてあげようとするのです。

 自分を取り巻く世界のすべてのヒト、コト、モノたちと命のつながりを感じることができるアニミズムの世界に生きる幼児たちだからこそ、人だけでなく、虫や動物たちの喜びを自分の喜びとして共有できるのです。

 長い人生の中の、スタートして間もない、この短い期間に限られるアニミズムの時代にしっかり育んでおかなければならないもの、それが思いやりの心、慈悲心(マイトゥリー)なのです。

2 観察と想像

「よく見て描こうね」と言う教師

 「お顔には何が付いていますか?」3歳児クラスの教師が丸く切ったペールオレンジ(かつて肌色と呼ばれた色)の色紙を貼った画用紙を黒板に貼って子どもたちに聞いています。

 「おめめ!」「おくち!」「おはな!」と子どもたち。「他に何が付いているのかな?」と教師。すると、「手!」「足!」と子どもたち。教師は「えぇ?お顔だよー!」と困惑しています。

 3歳の子どもたちにとって、描いているのは顔ではありません。顔の形のように見える丸い形の中にその対象の人のすべてが

表されているのです。だから教師の提示した肌色の丸には手や足が付いているのは正しいことなのです。頭足人をこの時期の子どもが描くのは、幼さ故の間違いではなく、3歳としての正しい認知と表現なのです。

 にもかかわらず教師の方は、大人の常識にあわせて描かせたいと焦っているようです。幼児に向かって「よく見て描こうね」は、幼児を理解しない教師による無意味な言葉かけなのです。

描画の本質は色や形の再現ではない。

 3歳児の想像力や表現力は、見立て遊びのような想像の遊びの中で育ちます。色や形から見立てて連想する活動を通して、対象の色や形の特徴を捉え、表現する力を獲得していくのです。しかし、こうした色や形の再現だけが描画活動の本質ではありません。むしろ、もっと大切なことが別にあるのです。

 コップに見立てた画用紙にコンテの混色遊びでミックスジュースを作って遊びまし

た。(作品2)楽しく見たて遊びをした後で「みんなが作ったおいしいミックスジュース、たくさん出来たから誰に飲ませてあげようか?」と投げかけると「おかあさん!」「おとうさん!」「おにいちゃん!」と家族が次々と出てくるかと思えば、「○○ちゃん」とお友だちの名前や「××先生!」と身近な人たちの名前が次々と出てきます。

 コップの周りに次々と描かれていくそれぞれの人たちひとり一人の表情や大きさ、そして色をそれぞれ変えて表現することも

あります。赤はおかあさん、黒はおとうさん、と顔の固有色ではなく、子どもが持つその人のイメージを色彩で表現するのです。ある意味、写生的な色彩表現よりも高度な色彩表現だとも言えます。

幼児にとっての観察

 ある日金魚の入った水槽が教室にきました。「タンポポ組さんのお友だちが増えました。名前を付けてあげてね」との投げかけに、子どもたちはそれぞれに名前を付けてあげました。

 それから毎日子どもたちは登園すると水槽に直行です。「あー、ウンチしてるよ〜」「いっぱいウンチしたからお腹が空いているよ!」とあれこれと世話をしながら発見したり驚いたりします。

 何日か経ったある日「良く観察して、金魚さんを描いてあげましょう」と描画の導入をしました。子どもたちは使い慣れたクレパスで金魚の特徴を捉えようと一生懸命です。しかし「一匹見えなくなったんだよ、この藻の後ろに隠れているんだよ」と2匹しか描かない子がいたりします。子どもたちのとっての観察は、ただ色や形を写し撮る為のものではなく、日常生活の中での触れ合いそのものなのです。毎日子どもたちは水槽の金魚を見ているのではなく、触れあっているのです。そして、「お腹が空いていないだろうか?」「さみしくないだろうか?」と様々に思いやっているのです。子どもたちは生活の中で、観察と想像を統合させているのです。

想像の中に描かれる生活経験

 生活経験を表現するような題材も幼児の描画活動によく取り入れられています。たとえば「お父さんと何して遊んだかな?」などといった題材がそうです。

 しかし、意外とこうした生活経験を表現するような活動に導くのは難しいようです。ましてや、生活経験は子どもたちひとり一人違っているはずで、一様な導入では無理があるのは当然です。経験画の難しさはここにあるのです。

 無理に生活経験を思い出させようとしてもうまくいかない場合は、むしろ想像を楽しめるような導入の工夫をするとうまくいくことがあります。たとえば「お父さんと何して遊びたい?」と問いの語尾を少しだけ変えてみるのです。そうするだけで、子どもたちは、お父さんと何して遊びたいか自由に想像することが出来ます。これなら、ひとり一人の経験の違いが十分に反映できます。それでいて、単なる空想ではなく、

やはり、自分がこれまでの経験の中での楽しかったことが思い出されて描かれていく

のです。

 無人島に行くための船には家にあるのと同じ冷蔵庫や電子レンジが描かれ(作品3)、虹の遊園地にはブランコや滑り台といった大好きな遊具が描かれます。虹の左側から上ってきて右側を滑って降りる様子が描かれています。(作品4)

 年長になったと自信と自覚を持ち始めた子どもたちに「小さい組さんが喜ぶようなことをしてあげよう」と投げかけると、自分たちがしてもらって嬉しかったことや、今自分たちが一番楽しく遊んでいることなどを絵の中でしてあげようとします。(作品5)

 自分の嬉しいこと、楽しいことを年下の子たちにしてあげたい、という優しい気持ちの芽生えを表現しているのです。


 

写真1 「家族に会いたいって泣いていたカニさんをお家に連れて帰ってあげたよ。」等と嬉しそうにお話をしながら描いていきます。(4歳児)

写真2 「お地蔵様と遊んであげよう。」楽しい想像の中で今一番自分がしたい事をしてお地蔵様と遊びます。(5歳児)

作品2 おいしいミックスジュースができたからみんなに飲ませてあげる。

 

作品3 無人島に行くにはお友達も連れて行かなきゃさみしくなちゃう。(5歳児)

作品4 虹の国には虹のブランコや虹の滑り台があるんだよ。(5歳児)

作品5 小さい組さんと積み木やブランコや砂場で遊んであげるよ。(5歳児)

まとめ

 想像する力の脆弱化が招くもの

 最近子どもたちが、被害者というだけでなく加害者となるような重大事件が起こっています。そして、インターネット上のトラブルが原因ではないかと思われる事件も少なくないようで、ネット社会の暗闇が子どもたちの生活に忍び寄り、その成長や発達にも影響を与えているのではないかとも言われています。

 インターネットというお互いの顔はもちろんのこと、その素性すら見えない匿名性の強い世界では、誰にでもアバター(化身)が可能になり、性別も含めてどんなものにでもなりきれる。それこそ想像の世界と現実の世界が混濁してしまうとも言われています。

 しかし、この混濁は、健全な想像力が育っていればある程度は防げるものです。顔の見えない相手であっても、このネットの向こう側にも自分と同じように喜怒哀楽し、痛みを感じる人間がいるということを思いやることが出来れば、罵詈雑言の応酬がエスカレートするようなことはないのです。

 世の中は、刻々と変化し、そのスピードはかつての私たちが経験してきたものとは比べものにならないほど早くなっています。そしてその変化の嵐の中で、たとえばネット社会の有害な側面から一時的に子どもたちを遠ざけることが出来ても、永遠にネット社会から遠ざけることは不可能でしょう。

 何か私たちの理解を超えるような事態が起こるたびに対処的な原因探しをするよりは、もっと根本的なこと。つまり、私たち自身の精神を健康に育てておく事が重要なのです。

 相手の気持ち、痛みを自分のこととしてリアルに捉えられる力、他人の喜びを自らの喜びとして共有する力、仏教で言う慈悲心(マイトゥリー)のような、そういう力がしっかり育っていれば、前述のような事件は起こったでしょうか?

 子どもたちの心には、動物たちの気持ちが映ります。道端の草花や木、あるいはお地蔵様の気持ちですら映ります。(写真1,2)そうした者も含めた身近な者共が喜ぶ笑顔を映して喜び、辛い思いや悲しい気持ちを映して心を痛めます。この幼児期に芽生え、大きく育つ心の銀幕(スクリーン)が置き忘れられてしまうことが無いように、しっかり育てなければならないのです。

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