写真1 ハレの舞台の作品展

 無理をせず、日頃の子どものあるがままの姿が発揮されていればそれでよいのです。

写真2 親子の造形ワークショップ

 見せることより、一緒に楽しむといったかたちに変えていく園もあります。これも、見栄え重視からの脱却の試みのひとつです。

写真3 破って繋いだ紙を集めてみたら新聞の海になったよ!(3歳児)

写真4 破って、ちぎって遊んだ新聞紙を今度は大きな紙に貼って行きます。(3歳児)

写真5 粘土の山で遊ぼう!

大量の粘土の山の中、全身で粘土を感じながら夢中になって遊ぶ。まだまだどろんこ遊びが楽しい年頃です。(5歳児)

写真6 何にしようかな?

沢山の箱を前に、子どもたちは「何に変身させようか」と試行錯誤しながら材料そのものを楽しんでいます。

 

造形表現教育実践講座

第8回 幼児にとって、つくることの意味―製作展を考えるー

1 何かが違う…

 「何かが違う…、そんな風に思い始めてから、毎日違和感を感じながらも、どうすることも出来ずにいます。」

 ある幼稚園の先生からのメールです。大学を卒業してすぐに地元の幼稚園に勤めはじめて今年で二年目の彼女は、一年目は、めまぐるしい毎日に追いまくられゆっくり考える暇もなく時間が過ぎていったそうです。しかし、二年目の今年に入り、特に二学期になってから、疑問に感じることが多くなったと言うのです。

 「うちの幼稚園のモットーは、よく遊ぶ子、好奇心旺盛な子、自分から進んでする子、思いやりのある優しい子、なんです。そういう子どもを育てたいという目標なのです。」

 「でも、二学期に入って運動会に向けての練習がはじまると、子どもたちが自分から進んでする、とか、好奇心旺盛な、とかそういった感じに矛盾するようなことが多くなる気がします。」

 この幼稚園では、フラッグと呼ばれる旗を持って集団演技する種目や、鼓笛のパレードなど、大きな見せ場があるようです。お家の人たちも、こうした我が子の「ハレ」の姿を楽しみにしているようなのです。

 特にこの園だけのことではなく、どこでもある風景なのですが、その先生は、「親の期待に応えようと必死になっているのは、子どもではなく、むしろ私たちの方なのです。」と言う。限られた時間の中で、見栄えのするところまで子どもたちにさせなければならない。出来る子と、出来ない子の差が気になる。何とかしなければ、と思うのだが、子どもがすることだけに、どうしようもない。

 期待に応えようとすればするほど、結局子どもに辛く当たってしまうことになる。「ぜんぜん、子どもがやりたいと思っていない。こんなのやればやるほど幼稚園に来るのがいやになるよ!」と感じながらも、子どもの尻をたたくような毎日に「こんな事をしたくて幼稚園の先生になったんじゃない!」と思うようになったのだそうです。

 「先生、これが、運動会だけじゃないんですよ。発表会、製作展とまだまだ同じようなことが続いていくんです。これじゃ、先生がよく言っているハサミの練習と同じ事じゃないかしらって思います。」

ハレの舞台のための練習

 「ハサミの練習」については、この連載の第一回で取り上げました。思い出してみて下さい。「みなさん、今日はハサミを使う練習をしましょう!」という導入で始まる活動の話でした。そして、「この実践には、私たちが陥ってはいけない、しかし陥りやすい落とし穴が見られる。それは教師の発言の中にある「練習」という言葉に表れている。「練習」という言葉には、何か別の目的を達成するための準備、そしてそのための「訓練」という考え方が潜んでいる。」と指摘しました。

たとえそれが「ハレの舞台を成功させるためのものだから」と言っても安易に子どもにそんなことを強要することが当たり前になってしまっているのです。そしてそれは、「運動会の見せ場」のための練習しかり、「発表会」のための練習しかりなのです。

子どもたちの日常生活は、その日、その時、その瞬間が大切な育ちのためのものです。もし、子どもたちの「ものづくり」の活動が、展覧会や発表会というハレの舞台のための準備であったり練習であったりするのなら、それはもう幼児教育(保育)だとは言えないのです。

作品展のための造形活動

 例えば2月に作品展をしているある幼稚園では、夏休み前からその準備に取りかかるそうです。各学年、各クラスでのテーマを決め、「どのようなものをつくらせるのか」検討して夏休み中にその段取りを決めてしまうそうです。

 結局子どもたちは、先生の持っているイメージを実現するための手足となり「ものづくり」に取り組むことになってしまいます。まるで先生の下請け業者のように…。全員が円錐をつくりそれを胴体にして鳥をつくったり、カップ麺の容器は人形の顔として、段ボールの大きな箱は宇宙船に向かって工作されていったりするのです。こうしたことがあまり疑問にも感じられないまま、あたりまえのように幼稚園や保育所で行われているのです。

2 幼児の側からの再検討

誰のための造形表現活動なのか?

 「今日は、お顔をつくりたいと思います。」先生は、カップ麺の入れ物を見せて続けます。「これをお顔にしようと思うのだけど、この白いままで良いかな?」と子どもに聞きました。「だめー!肌色にする〜!」と返ってくるとでも思ったのでしょうか、しかし子どもたちはキョトンとしたまま黙っています。そこで「お顔ってこんな真っ白だったかな?」と付け加えます。

どうしても、子どもたちから言わせたいようです。子どもたちが「肌色の色紙を貼る」と言ってくれるまでに随分と時間がかかりました。程度には差はあるでしょうがよく似た導入は他にも良くみられます。

 このような導入をする先生は、子どもに自分から言わせれば、子どもが自分から気づいたことになると勘違いしているのです。しかし、自分から気づくような工夫などどこにもありません。先生があらかじめ予定したとおりに言わせたいことを言わせているだけなのです。

 確かに、これでも子どもたちは顔をつくるかも知れません。いや、とにかくは、カップ麺の容器に色紙を貼るという作業はするのでしょう。しかし、これが幼児のものづくりと言えるでしょうか?

 顔をつくりたいと思っているのも先生だけだし、こういう方法でつくりたいと思っているのも先生だけです。導入の冒頭で「○○したいと思います」と自分で宣言しています。なぜか幼稚園の導入で良く聞く言葉ですが、そのたびに「先生が思っているだけじゃしょうがないだろう!」と横槍を入れたくなります。

 いつのまにか、当たり前のように、先生は子どもたちを使って自分の作りたい物を作らせようとしている。そんな造形活動に対して子どもたちは辟易とし、抵抗を感じるようになるでしょう。自分の中に「つくりたい!」という気持ちが無いのにつくらされるのだからおもしろいと思えるはずもなく、ただただ与えられた作業をこなすだけになってしまっているのです。

 冒頭の先生のように、そのことに気づいて、違和感を感じている先生も少なくはないでしょう。それでも、このような事が繰り返し行われているのは、やはり製作展というハレの舞台の成功をめざすからです。親たちも子どもたちがつくる「素晴らしい作品」を楽しみにしています。「去年と比較されても見劣りしないように」との先生の気負いもあるようです。いつの間にか、親を喜ばせるための、そして、先生や園の見栄のためのものでしかなくなっているのではないでしょうか。

 挙げ句の果てに、思い通りに動かない子ども、いくら「練習」しても上手に出来ない子どもへの叱責や抑圧となっていくのです。子どもがものづくりに、嫌悪感を感じていようが、表現意欲を減退させてしまおうが、そんなことはお構いなしで、作品の見栄えの方が大切になってしまっているのです。

 このように作品という結果の出来栄えや見栄えが重視される一方で、材料と関わり、行為を試す楽しさや、自由に発想し、イメージを広げたり、深めたり、あるいは膨らませたりしながら、自分独自の表現方法で実現していく造形表現活動本来の楽しさが失われてしまっているのです。これではいったい誰のための造形表現活動なのかさっぱりわからなくなってしまいます。今一度、幼児の側からの再検討をしていく必要があるでしょう。

Who are you?と問いかける子どもたち

 保育室になにげなく新聞紙がばらまかれています。先生は「あれれ?なにか落ちているね!なんだろう?」と子どもたちに呼びかけながら一枚の新聞紙を手にとっています。最初はおそるおそる触ってみる子もいます。

 バシバシと音が鳴るのがおもしろいらしく、振り回しているうちに破れてしまいます。先生が「あはは、おもしろいね〜!びりびりびり!破いちゃえ!」と楽しそうに率先して破いて遊びを誘ってやると、破れることに一瞬驚いた様子だった子どもたちも、破いて良いのだということに安心して今度は破る行為に夢中になりはじめました。

 ある保育園の2歳児クラスでの一コマですが、子どもたちは、この活動の中で新聞紙に「あなたはだあれ、いったい何なの?(Who are you?)」と問いかけているのです。その問いに新聞紙が様々に応えてくれる。それを手応えとして楽しみながら、さらに新たな応えを求めて様々な問いかけを試みるのです。

 このモノとのコミュニケーションとも言うべき活動を通して、そのモノをより深く知っていくのです。子どもたちは、ものづくりのなかで、モノとのコミュニケーションを通して世界を探索しているのです。相手は新聞紙だけではありません。粘土や小麦粉粘土、小さな箱や大きな段ボール箱、日常的に出会うあらゆるモノどものすべてで同じ事が言えるのです。

 この探索活動こそが、幼児のものづくりのはじまりであり、子どもたちは、この直接的な行為の遊びを通して、身近な世界を知っていくのです。またそれと同時に、自分が世界に働きかけ、世界を変えていく力を持っていること自覚していきます。

 つまり、幼児にとってのものづくりは、まさに自らによる自分づくり、自己形成に向かう活動なのです。こういう視点から、幼児のものづくりを見直してみると、私たちが本当に大切にするべきことが見えてくるのです。

遊びの連続発展としてのものづくり

 ある年長のクラスで、男の子のグループが冷蔵庫の大きな段ボール箱を取り囲んでいます。

 「そっちを持っていてね、ここを切るから」などと協力し合って何かをつくっている様子です。それからしばらくすると、先ほどの大きな段ボール箱は横倒しになっています。つくっている最中にメンバーのひとりが誤って倒してしまったようです。

 どうなってしまうのだろうと見ていると、「卓球台!」とひとりの子どもがそう言うとなにやら材料置き場に走っていきます。手頃な大きさの紙箱と何かの芯材をガムテープで接合するや「先生、ピンポン球ちょうだい!」と叫んでいます。他の子どもたちはと見回すと、その倒れた段ボール箱の中に入って何かを作り始めています。さっきまであれほど真剣につくっていたものへの執着など皆無のようです。

 子どもたちは、つくったもので遊びながらイメージを発展させ、そのイメージに向かってまたものづくりを展開していきます。ものづくりとつくり遊びが同時に展開していくなかで、遊ぶために必要なものをつくり、つくったもので遊びながら、また遊びの変化に応じて、また新たなものをつくりはじめるのです。遊びの連続的な発展としてものづくりが展開されるのです。

まとめ

 この幼稚園では、二十年程前からそれまでの「製作展」を廃し、こうした材料を中心としたものづくり遊びに取り組むようになったそうです。はじめは、運動会の見直しに取り組んだそうです。運動会からマスゲームや表現活動といった「演技種目」を廃したのです。

 親も楽しみにしている運動会の花と言われる演技種目ですが、現実にはハレの舞台のための練習の毎日の上に存在するもので、見せるためのものでしかない、子どものためのものになっていないと感じたそうです。

 その園長が次に取り組んだのが「製作展」でした。担任がプランして、その下請けをさせる「製作展」のありように疑問を抱きつつ、ある年、作品を園庭に持ち出して遊ばせてみたところ、なんとも楽しそうに遊んだそうです。この姿を見て、作品の完成をゴールとして、そこに向かって尻をたたいていくことではないのだと確信したのだそうです。そして、その年がこの園の「製作展」最後の年となったのです。

 現在は十一月から約一ヶ月あまり続く連続した造形遊び月間となっており、年少から年長まで自分たちがつくりたいものを相談しながら材料と道具を自由に選び、夢中になってつくっています。ものづくりの楽しさが幼稚園全体に充満しているようです。できあがった作品を見てもらう製作展ではなく、この子どもたちの活動する姿を見てもらおうと、この間の活動を参観してもらうようにしているのです。

 「幼児はいったい何のためにものをつくるのだろうか?」少なくとも、教師のイメージやプランの下請けでは無いはずです。探索活動として、ものと出会い、行為を楽しみ、遊びの連続発展としてのものづくりを通して、自己の有能さを自覚しながら世界を知っていく。「自らをつくる」活動としての「幼児のものづくり」の意義を考えれば、結果を見てもらうより活動そのものを見てもらう方がよほど良いのです。

 幼児だけでなく、人間が生涯通して成長発達していくなかでのものづくりの本質は、主体的で創造的な生き方を鍛えていく活動であり、こうありたいと思う自己の実現に向かう行動なのです。それは、遊びという楽しい活動に無我夢中になる幼児の才能によって開花するのだと言っても過言ではありません。そのもっとも大切な端緒に関わる幼児教育の果たす役割と責任は極めて大きいのです。

 まだまだ「ハレの舞台で見せる為の保育」が蔓延する幼児教育の壁をブレイクスルーするためにも「幼児のものづくり」のありかたを見直し、転換していかなければならないのです。その先に、これまでのような製作展は見えてきません。

 

協力(写真協力)

千里敬愛幼稚園(大阪府)、焼山こばと幼稚園(広島県)、晴美台幼稚園(大阪府)、三石台幼稚園(和歌山県)、城山台幼稚園(和歌山県)

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