第16話  −ゆとり−



37番岩本寺宿坊のお風呂で出会い、翌日の午前中を一緒に歩いた東京の大学四年生は、さっぱりした気性ですがすがしい印象の好青年でした。
 「周囲のみんなはまだ就職が決まらないのに、僕は早々と決まってしまってなんとも居心地が悪いのです。ぼくだけが楽をしているのは申し訳ないような気分になり、友達が就職で苦労している分、ぼくも何か苦労をしてみたいとお遍路に出かけてきました」、という。
 一緒に歩いていて、かなりの健脚と見受けたので適当なところで「お先にどうぞ」と別れ、その後会うことはありませんでした。このように、途中で一緒になり言葉を交わしたお遍路さんと再会することは、特別の場合を除いてまずありません。

人間誰しも苦よりは楽を採りたいもの。自分の人生を振り返ってみても、苦労を避けてすこしでも楽な道を選んできました。これは自分が一番よく知っています。しかし、不思議なもので、楽な道ばかり選んでいると「これでいいのだろうか」という思いが膨れて、あえて苦難の道を選びたい気持ちが嵩じてくる、ということがあります。
 求めるものが大きければそれだけそれを手に入れる苦労も大きくなる、それでも敢えてより大きいもの、より高いところを求める、ということもあるでしょうが、そのような気持ちが生れるのはむしろ「ゆとり」からではないかとわたしには思えるのです。

目先のことだけで精一杯であったり、自分の能力以上のものをやみくもに求めているようでは、「これしかない」「こうやらざるを得ない」だけであって、楽をとるか苦をとるかという選択の余地など生じないでしょう。「ゆとり」から選んだ苦労、言い換えると自分から選んだ苦労ですね。この場合はそれを苦労とも思わないでむしろ楽しみでさえあると思うのです。
 学生のおへんろさんのひとことが引き金になって、歩きながらこんなことを考えていました。



前頁へ 次頁へ
トップへ 遍路目次へ