第14話  −深刻な話−



無精ひげを生やして道端で休んでいるそのお遍路さんは、少し疲れているように見えました。56番から57番までは3キロしかなく、休憩の必要もなかったのですが、なんとなく誘われるように隣に腰をおろしました。

遍路どうしではお互いに動機は問わない、というのが不文律になっています。だからわたしもそれを守っています。しかしその人は、しばらく迷っているようでしたが、自分から話し始めました。

九州から来て、四月の初めから歩き遍路をしている。昨年九月、家内を亡くしてから生きる元気がなくなり、遍路にでてみようと決心した。そして遍路を終えたら死のうと思って四国にやってきた。持ってきた奥さんの遺骨も室戸で海に流した。

そんな時、出会った人に自宅に招かれた。(その人は「お大師さんに呼び止められた」という風に話した)その人は、明々と灯りがともっている仏壇のまえで、
「あなたは間違っている、遍路は死ぬためにするのではない。」
「これから五つの札所で、懺悔の行をしなさい。それは三十箇所の巡拝に相当する価値がある。」というようなことをいった。

これから行く57番栄福寺が四ヶ所目で、58番仙遊寺でその行が終る。そうしたらその人に連絡して、今後のことを相談することになっている。

ぼそぼそと語る彼の言葉は所々意味不明で聞き取れないのですが、話が話だけにしつこく聞きなおすわけにもいかず、相槌を打つだけで、一方的に聞いていました。話が長くなりそうな気配に、「そろそろ行きましょうか」と言って、続きは歩きながら聞くことにしました。

57番栄福寺で、彼の懺悔の行を目撃しました。わたしは本堂と大師堂で般若心経を唱えるだけなので15分もあれば巡拝は終ります。次の札所へ向かうとき、イスラム教徒のように地面に這いつくばっている彼の姿を目撃しました。

〈ああ、あれが懺悔の行か〉、感動の思いで眺めました。わたしだって懺悔をすることがいくつもある、近いうちにそういう時が来るかもしれない。〈懺悔をする〉〈托鉢をする〉とはどういうことか、体験してみないとわからない。わたしにとってこれが今回の遍路行でもらった宿題の一つです。

わたしはそのままその夜の宿、58番仙遊寺へ向かいました。しかし彼は夜になってもやってきませんでした。

「明日はわたしの誕生日なんです。ちょうど懺悔の行が終ります。明日から生まれ変われるかもしれないという気がしてきました。」という、別れ際に聞いた言葉が救いです。きっと彼は今回の遍路を契機として立ち直ることでしょう。


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