山歩き雑感 T
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これまで、足掛け4年ほどの短い期間に登った山でさえ、すでに六、七十を数えるほどになりましたが、さて、一体わたしは何がきっかけで山に登り始めたのかと改めて振り返ってみると、どうにもはっきりとしたきっかけが思い当たらないのです。 ただ思い返してみますと、山に登り始める遥か以前から新田次郎の山岳小説をどう言う分けか好んで読み耽っていましたから、どこか無意識のうちに山に魅かれるところがあったのかも知れません。 山岳小説と言えば、新田次郎の「孤高の人」や「銀嶺の人」を読んだことがきっかけになって山に登り始めた登山家も少なくないと聴きますから、活字の影響力は中々どうして馬鹿にはならないようです。 世に有名な深田久弥の「百名山」も山に登り始めてから初めて読んだような始末で、それまでは、確か深田久弥と言えば小林秀雄の友人で、小林さんが深田久弥に連れられて丹沢か何処かの山に登る文章を読んだことがあった筈と、かすかな記憶がある程度でしたが、「百名山」を読んでから、それが谷川岳であったことを再確認したものです。 今西錦司も学者としてばかりではなく、同時に高名な登山家であることは知識としては持っていたのですが、どうやら深田久弥と親交があったらしいと知ったのは「百名山」を読んでからでした。正直言って「百名山」は(深田さんには申し訳ないですが、)本文よりも今西錦司の解説文の方がわたしにはよほど面白かったのです。短い文章ですが、今西さんのあの「大人」然とした人物を彷彿とさせるものがあって、まるで解説文になっていないところが誠に愉快ではありました。彼はこの文章を書いた当時でも登った山が1300を数えたそうで、死ぬまでに1500座を目標にしていたと聞きますが、果たして目標を達成されたのかどうかと思っていたところ、90歳で亡くなった当時、何と1552座を数えたそうです。 深田久弥は1903年生まれで小林秀雄よりひとつ下になりますが、東大文学部の哲学科でしたから、仏文に在籍していた小林さんとは当然良く知った間柄だったでしょう。一方の今西さんは小林さんとは同い年ですが、ご存知の通り世界に冠たる人類学者ながら専ら関西を拠点として活躍した人で、東大とも文学とも縁のない人でしたから、深田さんとは山を介して知り合った間柄に違いありません。最近になって、その小林さんと今西さんにもう1人、あの「氷壁」の井上靖を加えた3人が深田山岳文学全集の監修を引き受けているのを知って、なんとも感慨深い思いがしたものです。わたしの知っている限りでは、小林さんと今西さんとの間には親交は無かったように思いますが、もしそうであるとすれば、何とも残念でなりません。このおふたりの類まれなる巨人が相対するところをぜひとも聴いてみたかったとは、誰しも思うことではないでしょうか? 山が取り持つ縁でいままで知らなかった世界が広がって来そうです。例えば、学者としての今西博士はこれまで近しい存在ではありましたが、登山家としての彼はわたしにとって全く未知の世界なのです。何が其処まで彼を山に駆り立てたのか?ぜひとも教えて貰いたいものだと思うこの頃です。どうやら山は、わたしの想像以上に大きく懐の深い世界なのかも知れません。 |