山への想い essay
山へ登ろう(私の山登り十年)クライミングへの道のり(楽しくクライミング)御在所を遊ぶ
ヤclickでホームに戻れます

楽しくクライミング

 

2001.11.21

 

 

いまや私は、遅蒔きながらクライミングに嵌ってしまった。それも、最初は山に快適に登るための手段としていやいやながら始めたのである。こんなことをいうと私を知っている人は「うっそー」と言いそうである。それは今完璧にクライミングの虜になってしまっているからである。ちっとも上手くならないのに人工壁やフリーの岩場に通っているのも、基本的には「山に行くために不安なく歩きたい」という初心に今でも変わりない。

誰も信じないかもしれないが、私は高所恐怖症である。いや、「であった」というべきか。しかし未だに恐いのは本当である。自分の臆病さに嫌気がさすこともよくある。それは、リードをするときの私の引きつった顔を見れば一目瞭然だと思う。

なのになんでクライミングを始めたか。それは前にも書いたが、1991年の槍から北穂までの最初のアルプス登山の大キレット通過の恐怖が原点である。山に登るたびにそれ以来エアリアマップの一般登山コースを見て「危険マーク」と「鎖場」と「ハシゴ」はないというのをコース選択の第一条件に考えるようになった。これは当時の私の「三種の神器」ならぬ、私の登山での「三種の回避」であった。今から十年ほど前の話である。そこがどんな所かというよりは、登山道がどういう形態か気になった。お花畑を鼻歌を歌いながら行けるところというのが基本であった。なのに相棒である夫のTは、そのころから穂高にばかり目が行っていたように思う。今から思えば、最初は白山や北岳から始めればよかったのだと思うが後の祭りである。

エアリアマップの「三種の回避」を、このまま山に行きたいと思うならいつまでも回避することはとても出来ないということを、穂高に何回か足を運ぶに連れておいおい気がついてきていた。そんなおり現在も所属している山岳会に入会した。しかしミーティングでのクライミングの山行報告を聞いていて、私はなんと場違いなところにいるんだろうと、かなり消極的な気持ちだった。岩登りのようにザイルにぶら下がって登攀する人は「スペシャリストの登山家」と思いこんでいたのでますます尻込みをしてしまっていた。

そんな折り金比羅で初級の岩登り講習会があるというので、ちょこっと好奇心が芽生えた。しかしまだ私のような「おばさん」(自分では決して本気でおばさんだとは認識していないが)が行くところではないと思いこんでいた。入会した折角の特典を放棄すべきでないと、行ってみることにした。何も道具は持っていない。ただ行っただけである。Yケンの取り付きでハーネスを渡される。「えー、私に出来るんですか」なんて白々しくもいいながら言われるまま付けてみた。その時はYケンの頭まで登った。そこで懸垂の練習などを少しして、ザイルにプルージックをして運動靴で何度か登り、次ぎにゲタというフリーの岩場でトップロープで登った。そこも靴は確か最初は運動靴だったような…。全く歯が立たない。今から思えば中央ルートか右ルートで3-4級のところである。これは靴のせいだと思いこみ、誰かのフラットソールを借りたように思う。しかし同じだ。その日はそれでも何が何だか分からないまま帰宅した。1996年の5月のことである。山岳会に入会間もないときである。

次の機会は、夏の合宿に参加することも決まり、そのための練習もあって、8月に初めての本格的な岩登りで六甲の「百丈岩」にいった。このときのことは忘れられない。会の代表のM氏がリーダーで一緒に行った。M氏がリードし、一緒に行った若い女性がセカンドである。二人とも登り終えたところに、私が登っていった。快調な登りだと思っていた矢先、先に登っていた二人が見えたあたりで、大きな岩に両手を広げて抱きついたままの状態で急に恐くなり、身動きの出来ない状態になってしまった。見上げるとMさんと彼女は楽しそうにお喋りをしているではないか。急に恐怖が走り「落ちそうで〜す。恐〜いよ〜」と最初は遠慮がちに小さな声で言ってみた。M氏は知らぬ顔で彼女とお喋りに夢中である。やっぱり若い女性は得だなぁーと思い、今度は遠慮なく「落ちます、落ちます」と必死で叫んだ。すると助けるでもなく「うるさいな〜、落ちなはれ!」とのたまう。何と薄情な人だと思いながらも恐怖におののきながら落ちてしまった。な〜んだ、ザイルに蓑虫のようにぶら下がっているではないか。やっと状況が飲み込めた次第である。本当にうるさかったんだろうと、今では反省している。合宿では北穂の東稜で初めてのアルプスでのバリエーションルートを体験。これも「ゴジラの背」では下を見るととてもこわかった。そのあとも、機会があればぼちぼちフリークライミングに参加するようになった。金比羅の簡単なところをトップロープで遊んでいた。

1998年には、小川山にも2回行った。今から思えばナインぐらいまでをトップロープで遊んでいた。私にも登れそうなルートにトップロープを張ってもらってただ登っていただけだが、自分では一端に登れていると錯覚を持っていたほど、クライミングに対して無知であった。でもそのお陰で安全に楽しく続けられたのも確かである。

その年の秋に、家から車で30分ほどの枚方市の星田園地に人工壁があるのを教えてもらったTが講習があるから行こうという。それを受けないと使えないというのだ。ホシダは「なみはや国体」の時に競技用に作られたということだ。会のI夫妻と講習を受けに行った。壁を見るまで私の中にどういうものであるかという、イメージ化が出来ていなくて正直16.5メートルの壁を見ても最初は実感がなかった。登る前に講義とその時に教わったことの筆記テストがあり、それから設備の使用上での注意点が横の階段で上まで行ったりして説明があった。それから模範演技に続き、実際に受講者も登り始めた。上手い人は、すぐに前傾壁に取り付いてすいすい登っていく。「うまいなぁー」と感心して見ていた。われわれは一番簡単そうな左の垂壁を空くのをまって、Tさんがリードをしトップロープを張った。私もここなら簡単だろうと高をくくっていた。全員登り終わり私の番がきた。内心「こんなところぐらいだったらスイスイいけるだろう」と思っていたが、登り始めると驚くほど後に引っ張られている感じがする。剥がれないために、必死で腕でぶら下がる。「え〜、うっそ〜」という感じだ。必死の思いで上まで行き、降りてくると汗がどっと噴き出し、ヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。たった一本、それも一番簡単なルートを登っただけなのに…。なんというショック。自分の無力さに打ちのめされてしまった。そして、受講者資格は落とされてしまった。当然のことと自覚しながらも、敗北感でいっぱいだった。いままで金比羅などの岩場でやってきたことはいったい何だったんだろう。ただ登れるところを上り下りしていただけだったんだろうか。まるで階段を上るかのように…。私が頑張ってみようという気にさせたのはこのことがあってからだ。この日から、「ホシダ詣で」がはじまった。それこそ一番簡単な垂壁5.8からのスタートである。そこを楽に登る。そしてリードをする。次は隣の5.9である。その隣の5.10aはルート的には長く、かなりレベルアップした感じがした。このころから、前傾壁も登り出す。今はないが5.9のオレンジからだ。ハングはリードだとやっぱり大変だった。一つ目のピンを掛けるまで腕がもちこたえず、2回ほどグランドホールを体験。それでも懲りずに毎週行っていた。

最初のころで今でも思い出すのは、駐車場からクライミングウォールに向かう木道を行き、角を曲がると正面に壁が見える。いつも私はその壁を見ると、腹痛を起こしていた。小屋へ受付に行く前にトイレに駆け込む。こんなことをだいぶ長い間繰り返していた。自分の臆病さに嫌になってしまう。なのにやめてしまわなかったのは、僅かながらも進歩はしていたからだと思う。

その次の年1999年の5月、前回落とされた講習を一人で受けに行った。5.9のオレンジルートをレッドポイントし、やっと念願の受講証を手に入れた。これで私も星田に誰とでも来ることが出来る。このように書くと、受講証を手に入れるのは相当の難関を突破したように人は思うかもしれないが、実は何でもないことなのだ。簡単なザイルの結び方や確保のしかたなどのザイルワークが出来ればだいたいの人はもらっている。1998年の秋にもらえなかったのはよっぽどひどかったのだ。しかしその時にもう一組、青年二人が渋られていた。来れなくなるとかわいそうと同情の結果、一人だけもらったのだが、程度は私と似たり寄ったりの二人だった。その時の二人は今も続けていて、一人は今年国体の全国大会で噂では3位になったということだ。今はホシダのセッターもしている。同じころに同じような状態で始めても、私とは雲泥の差である。

受講証をもらった私は、晴れて平日もクライミングに行くようになった。それから山に何の関係もない私の友人や、娘を巻き込んでいった。そして、平日一緒に行ける人を求めていった。

そんななか1999年の5月私は初めてアルパインクライミングの楽しさを知ってしまった。それは二子山の中央稜である。会に新しく入ってきた青年に誘われて登ってしまった。それもつるべで核心は私がリードをしてしまった。(詳しくは報告を書いているので参照してほしい)このときの体験で私はもう後戻りが出来ないほどの充実感を味わってしまった。二人で登ると、垂壁に一人になる。このとき下の方に見える、大自然はみんな私一人のものになってしまう。まるで鳥が空から鳥瞰図のように風景を見ているように私の目にも映る。こんな贅沢なことが、ほかにあるだろうか。それも自分の足で勝ち取ったのである。最初のころは、ザイルでの登攀はほんの一部のスペシャリストのためにだけしか開かれていないものだという認識しかなかった私がやってしまったのだ。人から見れば笑われるレベルかもしれないが、私にとっては凄いことだった。

それと、岩を登る技術を磨けば行けなかったところも行けるという実感をもほんとに思えた。努力すれば不可能も可能にしてしまう。

本ちゃんにはその後もなかなか行く機会には恵まれなかった。これでもう少し若ければ、まして男性であれば会でもほっとかれないだろううに。また若い女性だと、違った意味で男性がほっておかないだろうに、とひがんだこともある。しかし、昨年娘と剱の源治郎尾根を登攀して気がついた。私のような立ち場にいれば、人に連れて行ってもらうのではなく、自力で行くしかないということである。それもまずは簡単なルートからだ。そうでなければ難しいところは多人数に(講習会などのような)紛れ込むしかない。それでもやっぱりいろんな条件を考えると、パートナーの選択が難しいと思う。

今年は、剱の源治郎とチンネ左稜線、錫杖の三ルンゼと北岳バットレス第四尾根にいけた。そのうち、錫杖と北岳バットレスは女性のパートナーとで登れた。私と同じ思いを持っている女性がいるのではと思うことがある。頑張っている女性にも出会えた。女性であることに甘えない人は魅力的だ。だからといって突っ張る必要もないのだが…。来年はそういう女性をパートナーにもっと本ちゃんに行ければいいなぁーと思う。それは体力的にも、気持ちの上でも楽だと思うからである。この指止まれである。

この間のささやかなクライミングの経験ではあるが私なりに頑張ってきた。最初の消極的な動機から、今はアルパインクライミングを自力でやっていきたいという積極的な意志も生まれてきた。まだまだ初級の域は抜けられないが、今クライミングが楽しくてしかたがない。そして、何よりも成果があったと思えるのは、エアリアマップの「三種の回避」を忘れてしまっていることだ。たいがいの登山道は恐くなくなってしまった。それと大いなる成果は、ザイルでの登攀が卓越した人だけのものではないと思えるようになってきたことである。これからも簡単なところから安全を心がけ、楽しみながらレベルアップしていきたいと思う。