山への想い essay
←clickでホームに戻れます

1998.4

 わが家では朝起きた時、すぐにテレビをつける習慣がある。それも、NHKである。しかし、割と新しい習慣で、ここ十年ぐらいのことである。というのも、山へ行き出してからは、天気がやけに気になりだしたからである。早起きのわが家は、毎朝5時半頃から8時頃まで、何度も繰り返し流されるニュースや天気予報を、家事をしながらいつもの惰性で聴くともなく聴いている。するとある日の早朝のこと、九十歳を過ぎて今なお現役の指揮者である朝日奈隆氏が出ていて、インタビューに答えていた言葉が印象的だった。今ではアナウンサーの質問の内容はよく覚えていないのだが、朝比奈氏が言っていた言葉だけが印象に残っている。おぼろげながら覚えている内容は次のようなことだったと思う。「高い山、低い山いろんな高さの山があるが、どんな人でもどの山にでも目指せば頂上に登れるというものではない。登山家であればみんながエベレストに登れるというものではない。しかし、自分に合った高さにすればどんな人でも頂上に登れる。」「長生きしたからここまでこれた。経験が多いと言うだけのこと。小さいときから楽器をしたと言う訳でもなく、天才とも言われたこともなく、大学を出てから音楽を志したのだから、経験を積み重ねるしかない。だから長生きして、ここまで経験を積んできただけ。」(たぶん記憶に間違いがなければの京大のサークルで指揮をしていたとのこと)

 私は、いつも山に登りたいと思ったとき、このルートの難度はどのくらいだろうかと考える。自分の力の限界と可能性がどの辺なのか、ということを考えるのである。登山は、同じ頂上を目指しても、人によって登り方やルートや速度などがそれぞれ違う。同じ山を何回登ってもその日の体調によっても違ってくる。登る山を選ぶ時からしていろんな動機が働く。ただ、旅行のように行ってみたいと言う気持ちだけでは登れない。行ってみたいという気持ちと同時に、自分が行ける技術・体力などの力はあるのだろうか、と考える。つまり、登れるのだろうか、と。また、自分の登ろうとしている山はどんな山なのか、と問うことにもなる。そして、自分に合った山を見つける。自分に合った山に自分のペースで登れば大概の人は頂上を窮めることができる。

 こうして、考えを巡らすと登山は人間としての生き方にも通じてくるのではないだろうか。人はそれぞれの山(目標)を目指す。高い山・低い山・急峻な山・なだらかな山。それはその人の生き方が選択するのだと思う。だから人それぞれ目標とする山が違っていて当り前。しかし、そこで自分が見えないと無理をしたりして遭難につながる可能性が高くなるのだと思う。

 私にも、自分に合った自分なりの頂上があるはず。それを見極め、頂上を目指し少しずつ努力していく。人と比べたりして高さだけを求めたり、能力以上の所を登ると失敗の確率も高くなり挫折感だけが残るということになりかねない。えらい大層な話のようだが、私はなぜ山に登るのだろうかと考えたとき、山に登るという行為と自分の生きるということに共通点を見出しているのだと思う。一日中歩き続けても地図で何センチかの移動でしかない、という雄大な自然の中での情けないほどの人間の小ささを感じるとき、日常の煩わしさを忘れることができる。そしてリフレッシュする。

 でも、私が山に登り出した十年ほど前にはこんな考えで登り始めた訳ではない。旅行にでも出掛けるつもりで、「子育ても終わりに近づき子供も留守番が出来るようになったので、ちょっと出掛けようか」と言うような軽い気持ちだった。それで、日曜ごとに夫と北山あたりにハイキングに行き始めるようになった。

 雪稜の仲間と霞沢岳

 そして次の年の、忘れもしない初めてのアルプスでの「槍ヶ岳・穂高の縦走」である。このときのことは十年近くたった今でも鮮明に覚えている。というのは、雪稜クラブの会員募集のキャッチコピー「北山から穂高まで」をそのまま地でいく(ちょっと意味が違うのだが……)ことをわずか一年余りでやり遂げた。それも、北山と穂高の間には、何もない。何と初めての北アルプスで、何も知らない私はあの大キレットを通ってしまったのだ。何という無謀なことか。「知らぬが仏」の私は、一変して「晴天の霹靂」と化してしまった。あんな怖かったことは初めてである。二度と味わいたくないものだ。

 それからも懲りることなく(あんな怖い思いをしてもなお)夏には小屋泊まりながら北や南アルプスを歩いた。そして、二年前の1996年に雪稜へ入会した。その年の夏合宿で初めてテント山行をした。そのうえおまけに台風に遭遇した。夜中に凄まじい強風と激しい雨に見舞われ、あげくにジャンボテントは浸水して何もかも水浸しの惨憺たる初日だった。

 しかし、岩の初級コースの北穂の東稜で「ゴジラの背」を登り、さらに以前に憧れて眺めていた「ジャンダルム」も制覇でき、私にとっては実りの多い合宿だった。翌年の1987年には、会の山行として霞沢岳や富士山(台風のため途中下山)・木曽駒ヶ岳と宝剣岳に参加した。宝剣の時は、雪と強風に見回れ秋山と冬山を一度に体験した。特に、稜線に出たときの風は強く、軽い(?)私は吹き飛ばされてしまった。そのため、空木岳までの縦走の予定が途中で引き返した。そして夏には、私と夫とで夏合宿と勝手に銘打って、二人で初めてテントを担いでの「剱岳・立山の縦走」を企てた。この、ささやかな山登り十年を振り返って見ると、最初の本格的な登山らしい「槍・穂高縦走」に始まり、昨年の「剱岳・立山の合宿」に終わると思えるので、この二つの山登りについてもう少し詳しく書いてみたい。

 今から十年程前のそのころは毎週のように北山に出かけていた。「健康のため」と言うぐらいなもので、まあ散歩気分だった。そのころは、山を歩くと、登山靴が合っていなかったこともあり靴擦れがすぐにでき、下りるころになると今度は膝が痛み、駅の階段を下りるのも一苦労していたほどだ。それでも足を引きずりながらでも、懲りないで出かけていた。そのうちに、もう少し高い山へと思い比良へもでかけるようになった。比良方面に行き始めると、北山の山々はせせこましく感じ始めてきた。「やはり、山は雄大でなければならない」と、比良を歩きながら次へのステップのつもりでいきなり「槍・穂高縦走」となった。とにかくそのころは、軽い気持ちで考えていたと思う。

槍ヶ岳が見えてホッとしたがまだまだ遠い

 「槍・穂高縦走」は、私には強烈な印象が残り、それが今日まで尾を引いている。予定のコースは、槍沢から槍ヶ岳、大キレットを通過して北穂、奥穂までの縦走だった。しかし、北穂で朝起きたら、視界がガスと雨のため利かず奥穂への縦走は諦めて南稜を降りてしまった(続きの縦走は1994年に果たした)。

 槍沢小屋での泊りが初めての小屋泊りとなった。夜中に雨が降り、トタン屋根の音がうるさくてなかなか眠れなかった。また、熊が出たと小屋の人が騒いでいたことも覚えている。小屋を次の日の朝7時ごろ出発、槍ヶ岳に向かった。だらだらとした登りが続き、特に槍ヶ岳が目の前に見えているのに、なかなかたどりつけず、いつまでも小さいままで、本当に進んでいるのか疑ってしまった。しかし、殺生ヒュッテまで行くと目の前に聳える槍ヶ岳に感動したのを昨日のことのように思い出す。殺生ヒュッテでは、ヘリコプターが墜落していてその周りにロープが張ってあり、まだ煙が上がっていた。肩の小屋には12時頃着き、その日のうちに槍ヶ岳をピストン。停滞していて、なかなか進まなかった。夕方は、一面の雲海から突き出た山々の名前もわからず、私は「ノンちゃん雲に乗る」の主人公にでもなった気分で、そのまま雲の上を歩いて行けるのでは、という錯覚に捕われてしまいそうだった。雲を真っ赤に染めながら沈む夕日のその幻想的な美しさに感動し、刻々と変わる山の相貌にただただ見とれているばかりだった。その時はまだ、次の試練が待っていることなど想像も出来ず、ただひたすら感動に酔いしれていた。

 次の日、いよいよ大キレット通過の日なのだが、その恐ろしさについては想像もしていなかった。朝4時過ぎに起きてご来光を見てまたまた感動し、鼻唄まじりで5時40分南岳に向かって出発した。暢気なものである。南岳小屋で、これから向かう大キレットに備え休憩していると、二人連れの若者が地図を広げながら、何やら話している。その若者は、迷彩色の服にサングラスといういでたちで、聞くともなく聞こえてきた台詞が、「あんなおばはんでも行くんだから大丈夫だ……」と言うような事だった。その時は、それほど気にもしていなかったのだが、あとで思い返せばあの時その若者たちは大キレットを通過しようかどうしようか迷っていたようだ。

 気にもせず、私たちは先に出発した。出発してすぐに岩場の連続で、初めての経験でびっくり。夫に「石を落とすな」とか「三点確保で進め」とか言われ、もう暢気な気分は吹っ飛び、緊張感でいっぱいになり、ただひたすら岩にしがみついていた。一歩、一歩があまり進まなくなった。そのうち、あとから来た人にどんどん抜かれ、南岳小屋で休憩していた若者たちにも抜かれてしまった。ところが飛騨泣きを登りきったところに、とっくに行ってしまったと思っていた若者が二人座っている。その前を通り過ぎようとしたところ呼び止められた。「足が竦んで動けないので北穂の小屋に行ったらこれを渡してほしい」と言って助けを求める小さな紙を手渡された。

大キレット 

 私はそのときまでは、ただひたすら夢中で足を一歩一歩進めていて、足元だけしか見ていなかったのだが、若者のその言葉を聞いたとたん、足元の下に切り立った絶壁を見てしまった。その高度感に恐怖を感じそのまま足がすくみ一歩も出ないのではないかと思われた。「私もレスキュー隊を呼んでほしいー」と、そのとき一瞬本気で思った。しかし、先に行った夫の声に我に返り、一歩一歩慎重に歩を進めた。そこの難所を過ぎたところからは、だいぶ楽になった。早稲田の山岳部のパーティーが追いついてきたので、若者たちの手紙を託した。そのあとは極度の緊張感を味わったせいか、疲れがどっと出てペースがぐんと落ちてしまった。北穂についたのは14時20分で槍ヶ岳を出てから8時間40分かかったことになる。コースタイムからは3時間もオーバーしたことになる。私たちが、北穂の小屋で一息入れていると、例の若者たちがレスキュー隊に先導されて「ボクたち遭難してしまいまして……」などと言いながら入ってきた。みんなから「無理をせずレスキュー隊を呼んだのは勇気ある行為だ!」などと称賛されていたのを覚えている。このとき、私は自力で登ってきて心底よかったと思った。

 大キレットは、今から思えば大したこともないような気もするが、あのときの恐怖心は今だに鮮明に記憶している。これが、私の初登山である。

 それからは、アルプスへの登山の計画を立てるとき、無意識のうちに「大キレット」の難度と比較するようになった。あれから十年、いろんな山行経験を積んできたのだから「キレット・トラウマ」をそろそろ克服してもいいと思うのだが、「ゴジラの背」や「ジャンダルム」まで行ったときでさえも、まだキレットの方が怖いと思ってしまう。これは、もう一度行って征服しないと治らないのかもしれない……。

トリカブト

 安全を第一モットーに、楽しい山登りを心がけながら十年の歳月が流れ、前述したように昨年は十周年記念の剱から立山・薬師へのロングコースを、それも二人での初めてのテント山行を計画した。しかしながら、生憎の天候で完全縦走は出来なかったものの日数が長期間なので、何かと気苦労も多かった。しかし、結果としては全体には良かったと思う。

 一昨年の涸沢での合宿では、テント生活に慣れていないのでよく眠れずとまどうことも多かったが、今回は強風と雨の日を除いてぐっすり眠れ、また食欲もあり快調だった。それは三、四人用のテントを持って行ったので二人でゆっくり出来たからかもしれない。心配していた荷物(20L)もあまり重さも気にならずマイペースで歩けた。

 8月8日の早朝に室堂に着いたときはどしゃ降りの雨で、悲壮感でいっぱいになった。窓の外の雨はいくら眺めていても止みそうになく、たたきつけてくる雨は時が経つほど激しくなってきているように思えた。急ぎ朝食を済ませ、激しい雨の中をしかたなく出発した。雨のため視界もなく、ただ足元を見るだけだったが、とにかく剣沢のテン場まで予定どおりたどり着いた。テン場に着くころには、風はあったものの雨は上がりホッとした。しかし十年前購入した時は確か雨天用だったのだが、今では晴天用と化したレインウエアを着ていたので全身びしょ濡れで冷え切ってしまい(お陰でやっと、レインウエアを買い換える気になった)、かじかんだ手でテントを設営してから取り敢えずボンベに火を付け暖を取り、やっと一息ついた。

 翌9日は一変して晴れた。風は強かったが、これで憧れの剱岳に五年越しの思いが果たせると思うと嬉しくなった。頂上は三百六十度の大パノラマで、後立山連峰の鹿島槍・五竜・唐松・白馬岳がおいでおいでと手招きし、下には富山湾がくっきりと見え感激した。剣沢の小屋とテン場も小さく見えた。無謀な夫は、何を企んでいるのやらいやに尾根筋が気になるようでしたが……? 頂上はかなり混んでいたが、下山する気になれず気がついたらあっという間に一時間が経っていた。後ろ髪を引かれる思いで頂上をあとにした。直下の早月尾根分岐のところで、登ってきた人にいろいろ話を聞いたら、お花畑が素晴しいとのことで、今度は早月から登ってみようと思った。

 その日の夕食は、テントの入り口にアップで切り取った剱岳を眺めながら、ビール付きの優雅な夕食となった。そのときは、後に来る台風の騒ぎなど想像も出来ない至福の一時だった。ビールの酔いも手伝って、7時頃深い眠りについた。

 9時過ぎ異様な風の音で目を覚ましました。「ゴゥー」という凄まじい大きな音と共に風がテン場の上の方から落ちてくる(変な表現だが他に適切な表現が見つからない)、そして下の方にいる私たちのテント目がけて向かってくる(まるでアニメにでも出てくる妖怪化した風のように私には思えた。先日、映画の「もののけ姫」で見た、最後に妖怪のようになったシシ神が復讐のために向かってくるシーンを見て、再びそのときのことを思い出した)。私たちのテントに到達するやいなや、テントは悲鳴をあげて大きく軋む。去ってしまうと、一瞬の静けさがもどる。そしてまた、次の風の音が上の方で鳴り始める。その繰り返しで寝ていられる状態ではなくなり、中からテントを抑えて明け方4時頃まで過ごした。実は9時過ぎには管理小屋の人がハンドマイク片手に文登研の小屋へ避難するようアナウンスを流し始めた。テントが潰され撤収したパーティや、風向きが悪い所にテントを張ったパーティが避難し出した。

 真夜中近く、その風のなか夫は「オシッコにいく」と言って出たきり(私は「何もこんな最中にいかなくてもいいのに」と思ったのだが)、「すぐ近くでするように」と言っておいたのに30分程過ぎても帰らない。これはてっきり、崖のそばで用を足していてそのまま落っこちたのでは、と胸騒ぎがした。ヘッドランプを照らして合図を送ったりもしたが、外は真っ暗闇である。風はそんなときでも容赦なく吹き付けてくる。そのときにちょっと油断していたらポールがメキメキと悲鳴を上げた。ポールが曲がったようだ。そうこう心配しているうちに帰ってきた。一瞬、未亡人になったときのことを考え喜んでいいのか複雑な気持ちになってしまった(?)怖い出来事でした。思えば、数分の出来事のように思えたのに実際は一時間以上経っていた。夫は、結局テントがもたず撤収し小屋へ避難しようとしていた二人の学生さんのヘッドランプを目標に進み、撤収を手伝いその後彼らに送られて戻ってきた。コンパスもヘッドランプも持たなかったため、暗黒と濃霧の中でホワイトアウトになり、全く方向を失ったようだ。

 寝不足のまま朝を迎えた。外に出てテントを見るといびつな形に変形していた。張り綱は三本切れていた。帰ってからポールを八本取り替えた。10日は風はあったが霧だけで雨はやんでいた。予定より遅くなったがテントを撤収し、8時過ぎ別山に向かったが、途中で強い雨が降り出した。頂上まで登ったものの視界もなくレインウエアに叩き付ける雨に、迷ったすえ縦走は諦め雷鳥平まで下山し、テントを張らず日和って小屋に泊まり、温泉に入った。冷えた体に温泉は気持ちがよかった(大満足)。 

 11日の朝は雨が止んでいたのでホッとして、餅ラーメンで腹ごしらえをした。しかし天気の回復は望めないという情報もあり、とりあえず雷鳥平でテント場をベースにして立山三山を漫遊しようと予定を変え出発した。テン場で夫は、前日の台風で曲がってしまったポールを、まっすぐに補修しようとして怪力(?)を出しすぎ折ってしまった。空は真っ黒で、雨も強く降り出した。情けない気分になり、またまた予定を変更して、雨の中をとりあえず一ノ越に向かおう、ということになり、あとは野となれ山となれと言う捨て鉢な気持ちだった。一ノ越で小屋の主人に天気を聞くと二、三日は回復は望めないと言うので、ジュースを飲みながら空を恨めしく眺めていると、雨が小降りになってきたのでザックを小屋の脇に置き、空身で20分程で雄山に駆け登った。雄山の頂上は、観光名所さながらの賑わいだった。頂上に雄山神社があり、頂上を踏むのに八百円の参拝料をとられ、神主の祝詞を聞き、お神酒を戴いた。足元には、           つるつるした奇麗な石が敷き詰めてある。何でも、地元の子供たちが持って登るそうだ。だから決して持って帰らぬように、と言う神主の言葉だった。雄山から降りて一ノ越でのんびりカレーうどんを作って昼食を食べていると青空が見え陽が射してきた。「一ノ越の主人は全くド素人だなぁー」と夫は捨て台詞を残し、ならばと五色ヶ原に向かった。五色ヶ原への道のりはお花畑もあり、眺めもよく美しく、とてもこの世の眺めとは思えなかった。だからといって、あの世の眺めを知っている訳でもないのだが。

剱岳

剱から見た後立山

 五色ヶ原は一面の美しいお花畑だった。来る人が少ないのか荒されていない。二人ともここが気に入り二泊することにした。次の日は越中沢岳までピストンすることにした。越中沢岳へ登る途中から見た五色ヶ原は、周りの山々にかこまれ、山小屋の赤い屋根と緑、雪渓と池がメルヘンチックな絵のようで感動した。越中沢岳の頂上からは、針ノ木・雄山・剱・黒部五郎岳と雲ノ平(確信は持てないが……)、そして恨めしいスゴ乗越小屋と美しい薬師岳が見えた。雲ノ平へは高天原温泉とセットにしていつか行ってみたいと思った。

 五色ヶ原を堪能してから黒部ダムへ降りた。平ノ小屋までは割早く降りられたが、そこから黒部ダムまではうんざりするほど長かった。黒部湖沿いの道は結構アップダウンがあり、やたらと梯子が多く、風景も変化に乏しく退屈なところだった。東京方面から来るらしい、上ノ廊下や剱へ行く多くのクライマーたちと擦れ違った。

 このときの山旅は、ハプニングが多く最初の計画からは予定がずいぶん変わってしまったが、剱岳と五色ヶ原から越中沢岳までが晴れたのは不幸中の幸いだった。薬師岳は今後の課題にしたい。いろんな経験をした思い出に残る山旅になった。

 今年は、「キレット・トラウマ」を打ち砕くべく、会の「岩登り講習会」にも参加し、切磋琢磨しつつも楽しい山登りをみんなで楽しみたい。そのためにも、足を引っぱらないように努力しなくては……。

五色ヶ原 

(文集のために1998年記す)