信念は世界をめざす。

木の電柱
木の電柱。一本の電線のためにまだまだ現役。
法律屋なんてこの程度の存在であるべきだと思う。
 7年間勤めた法律事務所を辞めた。

 法律事務所というとなんだか偉そうなイメージが先行しているらしくて、迂闊に人に話してしまおうものなら、それはたいそうご立派で、みたいな扱いをされてしまうのだけど、その実、仕事はハードでその責任は極めて重大というより法外、いったん事件を抱えてしまえば24時間臨戦態勢で、ケータイの着信音におびえながら、食欲と睡眠とは無縁の日々を余儀なくされる。胃に穴を開け血を吐きながらながらやっとひとつの仕事を成功させると今度は相手方の恨みを買う番で、そうなるとまたしばらくはケータイの着信と背後の人影にビクビクしながら生活しなければならない。それでいながら給料は安くて、その安い給料の中から毎年六法を揃え、高価な専門書も調達し、専門学校に通い、休日を費やして勉強しなければならない。まあそれでもともかく7年間、思いつきで飛び込んだ実務法律界でそれなりに過ごしてこられたのだから、まんざらキツイばかりの業界ではなかったのだろうし、今になって振り返ってみても、実はこれといって悪い思い出というものがない。それに、私は公判中に居眠りをして裁判長に退廷を命じられそうになるような不良法律屋だったけど、それでも7年間、私なりの正義を実行してきたという自負はある。

 私は、そもそもが学生時分に国文学を専攻していたのであって、法律の業界に就いたのは全くの気まぐれだったから、もともと法というものに対してそれほど絶対的な信頼というか信仰心のようなものを持ち合わせていない。それは今でも変わらないのだけど、だからといって正義が蔑ろにされるのを是とすることはできない、と言う程度の良心は持ち合わせているつもりだし、世の中なんてその程度で十分だと思っている。が、思っていると言うからには実際にはこれがなかなか実現されていないのであって、世間では無理を通して道理を引っ込めるようなことが日常的に行われているのは、誰が見ても同じだろう。
 ここで改めて言うまでもなく、「正義は勝つ」ものではない。正義は実現されるものである。そして正義はそれを実現しようとする者の手によって実行されるべきなのである。もし正義という言葉に青臭い抵抗感を覚えるのなら、そのまま信念と読み替えても差し支えない。ここでもう一度話を戻すと、だから私は、私の信念に従ってこの7年間を過ごしてきたということになる。

 このへんでいい加減カメさんの話を始めないと。

 先日、こんなお話に接する機会があった。

 私と違って大変熱心な飼い主さんが、庭に池を掘ってカメを放した。それまでは水槽というか、一般的に用いられているようにケース等を利用して屋内で飼育していたのだけど、自分の家に池を作って、そこで大好きなカメたちが放し飼いにされている様子を想像したらいてもたまらず、ある日思い切って庭を掘り始めた。言うまでもなく固い地面を人力で掘って池を作るのは大仕事で、私なんかは堪え性がないから、先の水漏れ事件の際にもちょっと補修をした程度で既に悪態をついていたわけなのだけど、その飼い主さんの情熱を以てしてもなお、完成した池は大きな水たまりといった程度の出来上がりだった。それでも苦労して掘った池だから、飼い主さんの目にはなんら描いたものと劣るところのない立派な池に映ったことだろうし、そこかわいいカメさんたちを放すのはそれまでよりもずっと素晴らしい環境を提供できることと信じていたに違いない。
 それでめでたく「いけがめライフ」が始まったわけなのだが、意に反して、カメたちは次から次へと逃げてしまう。もっとも飼い主さんには十分な知識があったから、はじめからそれなりの脱走対策はしていたのだけど、カメの運動能力は当初の予想を上回るものだったようで、それでさらに囲いを高くし、駄目押しに上端には返しをつけて、とりあえず事態は収拾した。

 このサイトはアルさんの話をするサイトであって、一般論としてカメの飼育法その他を教授するのが目的ではないから敢えて無責任な話をするけど、一連の顛末を端で見ながら私は、逃げるようなら逃がしておけばいいと思っていたのである。勿論その飼い主さんはご自身でお金を支払い、あるいは苦労して採取した上でたくさんのカメを飼育されているのだから、それを逃がしてしまえばいいなどと私が言うのは怪しからん話しなのだけど、池に住まわせたいという飼い主の一方的な希望を、自然に近くて良い環境に違いないという勝手な思いこみで中和し、それをカメに強要するのはいかにも人が陥りそうな思考の倒錯だと思うのだ。
 本来池なり川なりで暮らすべきカメを、水槽などで飼育するのは、言ってみれば人間の身勝手で、安直にかわいそうという結論を結びがちだが、言うまでもなく人間がカメを飼って楽しむのは何ら非難されるべきことではないし、それで一生を全うさせられるのならそれはカメにとっての幸福な生涯の一形態であると言ってしまって問題はないと思う。私はまさにそれを実行している素晴らしい方を存じていて、アルさんが自分の意志で来たのでなければ是非その方にお任せしたいと常々思っているほどであるが、ともかく屋内の極めて制約された環境であろうが、広い池をお持ちであろうが、いかなる飼育環境の中にあっても十分な愛情と裏付けされた知識をもって管理に臨めば自然界での生活に劣らない生涯を提供できることであろうし、その一環として逃げないように配慮を施すのは飼育者としての義務ともいえようが、しかし逆もまた然りで、単に池は水槽より広くて自然に近いから幸せなはずだといった思いこみを押しつけたところで、屋内で飼育するような管理は行き届かず、かといって自然の摂理が作用するほどの環境が整うわけでもない、それでカメが逃げるのはすべてカメの習性によるものだと言わんばかりに障壁を高くするばかりでは、そのカメたちの不幸ばかりか、人類の欺瞞をも憂いたくなる。

 ノーベル文学賞を受賞したヘミングウェイによる代表作「老人と海」の中で、主人公である老いた漁師は、何日もの間カジキと闘いながら、果たして人間は、カジキに銛を打込むに値する存在たりうるのかとの疑問に行き着く。やがて帰途、仕留めたカジキがサメに食い尽くされる様を見ながらその疑問は半ば確信に変わる。

 今さら言うまでもなく、アルさんはどこからか、この池を目指してやって来た。左手の不自由なアルさんは、陸を歩くと腹の甲羅を擦ってしまう。それでもアルさんは、ごつごつと険しい野や山を経て、あるいは固いアスファルトで身を削りながら、めざす池に辿り着いたのだろう。それらは何ら別の世界の出来事ではなく、私でもあなたでも良い、その現場にいれば誰もが目の当たりにすることのできた現実だったのだ。その上で、何がアルさんにそうさせたのかといえば、それは信念だと言うことになろう。アルさんにはどうしてもこの池に辿り着かなければならない事情があって、そんなことは誰にも漏らさず、恨み言も言わず、ただ敢然と目的の実現を誓い、実行し、果たした。それだけの信念を実行して、実現したのだから、それがいかに困難かを知っている私はアルさんを尊敬するし、だからこうしてアルさん、アルさんと、面倒を見ていると言ったら大げさだけど、良いように取りはからっているわけだ。同様に、アルさんがその信念によって池をあとにするのであれば私にそれを止めることはできないし、むしろ、行き先が分かればタクシーを呼んででお送りしたいとさえ思うのである。

信念は世界を目指す
アルさんはとにかく眼の力が強い。

 おそらく、いや間違いなく先の脱走カメさんにも、信念があった。だからそれを実行し、自分の体長の倍ほどもある障壁を乗り越え、それは実行された。絶望的とも取れる高い壁を越えた先では、有限であるが境界のない空間を時間の矢が貫き、実現された信念はそれを世界と認識する。世界とは認識の具象であり、信念は認識の主体となる。果たしてそれを、それほど頑なな信念の衝動を抑圧するだけの価値が万人に内在しうるのだろうかと考えるのは、なにもヘミングウェイだけではない。

 信念は世界をめざす。
 その衝動を制約しうるのもまた信念のみであるべきで、敢えて障害を与えてそれを阻害する行為は、信念に反するものであり、つまりは、正義に反する。それでもなお艱難を以て世界の実現を妨げようとするのなら、亀にも劣るとの烙印を甘受し、トットト退出されるが良い。(十月中)

 

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