続・宇宙論的亀論とか。

 理論物理学とか宇宙論とかにちょっと興味があって、例えばホーキング博士の一般書などを読んでみると、必ず登場する言葉にフリードマンモデルというのがある。「均一性」と「等方性」で表されるこの用語は「宇宙原理」とも呼ばれ、まあ大雑把に言えば、宇宙のどの方向を見ても、また、どこに行って眺めてみても、結局同じような景色が広がっている、というお話である。この話をすると決まって、そうは言っても天空において明らかに月と太陽は異質だし、天の川のある方とそうでない方角とでは見え方が違うぞ、と、反論されるわけだがそうではなくて、地球とか太陽系とか、そういう局所的な概念を超越して、ごくごく大域的に宇宙を捉えれば、だいたいどの方向にも似たような銀河が似たように散らばっているし、それはどこまで行っても変わり映えのしない眺望であると言ってしまって問題はないのである。

 この話、実は案外教訓的なのだ。このフリードマンモデルの考え方は、ある意味「無限」の概念を無効化してしまうのである。
 真否のほどはともかく、ここで宇宙を無限の広がりを持つものとして、あるいは、無限に膨張を続けるものと仮定してみよう。ともするとわれわれは無限の宇宙を行き行きて、またその先まで旅すれば、やがて何か風変わりなものに出会えるのではないか、「ここ」にはない何かを発見できるのではないかと、ファンタジックな希望を抱きがちである。「『ここ』」ではない『どこか』」、あるいは「遠くへ行きたい」といったコピーに半ば感傷的な憧憬を抱く理由も、そのへんに求められよう。しかしフリードマンの宇宙原理によれば宇宙はどこに行っても漫然と似たような景色が続いているわけだから、わざわざ遠くに行ってみるまでもなく、近所の宇宙をそのまま当てはめればそれで話はおしまい、旅先で「田舎なんて結局どこに行っても同じだね。」と漏らすのと同じことだ。一を聞いて十を知る、の、ちょっと進んだ使い方である。これをもう少し卑近な例に当てはめてみよう。例えば円周率は3,141592・・・、と小数点以下永遠に数字が続く、そうわれわれは学校で教わるのだが、にもかかわらず、便宜上円周率を大雑把に3,14で切り捨ててしまうことに抵抗を感じないのは、要は果てしなく続いたところでそこにあるのは数字の羅列であることを知っているからである。一つ一つの数字は、それぞれ差異はあるものの、大まかに見れば所詮0から9までの数字のいずれかでありそれ以上のものは存在しない。気長に気長に探求すば、あるところで実数が消えて虚数が姿を現すとか、10進数が16進数あたりになって、見たこともない記号がでてくるとか、そんなことはあり得ない。だから、余計な心配をせず、円周率と言えば大まかに3,14で支障がない。

穏やかな表情  さて、アルさんのお話である。
 私はもちろん、毎日アルさんを観察しているわけではないけれど、それでもアルさんの日常が変わり映えのしない日々の連続であることを知っている。池が漏れて迷惑を被ったり、いわれのない名前でよばれたり、私が川に行ったりと、それなりに弊サイトのネタには不自由はしていないようにみえても、それらは原因においてすべてアルさんとは無関係であり、まあ言ってみればアルさんを中心に私が独り相撲を取っているようなものである。アルさんにとっては、その日その日で機嫌の悪い日もあれば食欲のない時もあろうが、大局的に見れば昨日と同じような今日を過ごして、敢えて今日と区別する必要もない明日を迎えるのだと、思う。こうして日々を積み重ね、それなりの年月をこの池で過ごすのだろうと思うけど、だとしたところでその有限の将来は、とりたてて今日と質を異に唱えるほどでもない任意の時間の連続でしかないのだろう。アルさんは、有限の時間の中で、いわば「フリードマン的日常」を送っているのである。(凝りもせずに全くの余談で恐縮なのだが、この、アルさんの有限の両端、要するに生誕と死を特異点と捉えるか、あるいはホーキング流に両端を丸めて特異点を回避するか、そんな考え方をしてみると、生命というものがより宇宙的意義を持つように思えてきませんか?)

 われわれは、変わり映えのしない日常という概念に対し、なかなか肯定的な意味を見出すことができない。特に文明国に棲む人間にとって、昨日と同じ今日を過ごすことは、悪徳とされるような風潮が根付いているように思われる。ひとはそれを、進歩がないと誹り、また、自己反省の欠如と非難する。だから、例えばお正月にはその年の抱負を半紙に書いてみたり、小学校では、昨日できなかった問題が今日も解けないと、教室の後ろに立たされたりするのである。それはそれで、もちろん大変結構な話なのであるが、しかしその一事を以て、「フリードマン的日常」を否定する理由とするのは、これはこれで大変よろしくない。言うまでもなくこれは、月と太陽で宇宙を語ることに等しい行為であるからだ。文明国に産まれたわれわれは、あるいはそうでなくて単に万物の霊長として生を受けた人類は、遠くの銀河より、近くの太陽に半ば絶対的な法則を求めることに慣らされているのだけど、果たしてその方程式が、決して久遠の存在として君臨し続け得ない、ごく局所的な観察記録でしかありえないことも、同時に認識しておかなければ、例えば平和の意味は理解できないだろうし、その対立概念も、当然ながら見つからなくなる。


 第二次大戦中、自国フランスがドイツに蹂躙される中、空軍パイロットとして偵察任務を続けたサン=テグジュペリは、戦火の中、突然、平和とは何であるか気づく。
平和においては、あらゆるものがそれ自体のうちに閉ざされている、夕暮れ時になれば村人たちは家に帰ってくる。種は納屋の中に戻される。折りたたんだリネンはタンスの中に納められる。平和な時期には、何がどこにあるか、いつも分かる。どこに行けば友達に会えるかも分かっている。夜、どこに行って寝るかも知っている。しかし、こういう基盤が崩れるとき、世界の中に自分の居場所がなくなるとき、どこに行けば自分の愛するものと会えるか分からなくなるとき、海にでた夫が帰ってこないとき、平和は死ぬ。
(サン=テグジュペリ著:山崎庸一郎訳「戦う操縦士」みすず書房 ’00年)
 平和とは是即ち日常性の確保であり、それこそが人間の権利の基盤であるというのはサン=テックスの告げるところなのだけど、そう字面で教えられてもいまいち他人事であり、頭で考えてももうひとつ具体性に欠け、そして十分な高等教育を受けてもなお多くの人が一生涯触れることすらない文豪の玉言を、こうしてアルさんが体現し、私に諭してくれたわけだ。アルさんの、この、痛々しい野生の様相を観察すれば、日常性の確保がいかにいかに得難く困難を伴ったものか、また、アルさんの、この安らぎきったような表情を見れば、平和な日々が、万物にとって、いかに尊いものか、理解いただけようと思う。アルさんの生涯には、宇宙がまだ曇っていて光がまっすぐ進めなかったような時期と、インフレーション期を経て十分に冷めた、平らで澄んだ現在の宇宙の二つの局面がある。
 幸い後者の宇宙に安住するわれわれには、前者は見えにくく、果たしてその存在すら疑わしい。だから現在の澄んだ宇宙も、なかなか見えてこない。それでも、外界と隔絶された不自然の中にあって、せめて無限に続くような安穏とした日々を送って欲しいと願う飼い主さんの想いに、変わりはないのであろう。(九月中)



寝るところ
アルさんは、何も持たずに池に来たから、
納屋もタンスも要らない。
友達や家族がいるという話も、聞いたことはないけど、
ともかくこうして、どこに行って寝るかを知っている。
そして、世界の中に自分の居場所をもっている。



次のお話。

日々のこと。

戻る。