ひとこと法話



平成二十八年度 本願寺の「能舞台」について 一念寺住職 谷治暁雲

 本願寺の「北能舞台」は、現存する最も古い能舞台として明治四十一年に国宝に指定されました。白い鴨川石の敷き詰められた白書院の北庭に配置され、白書院の上段の間が最高の見所とされます。簡素な構造の橋掛や、小さく作られた入母屋造(いりもやづくり)で檜皮葺(ひわだぶき)の屋根、舞台と同じ様に床板が縦に張られた後座や、音響効果を高めるための地中の甕など、桃山時代の自由な古式を現代に伝えています。
本願寺にはもう一つ桃山時代の建築とされる「南能舞台」があり、こちらは寂如上人が伏見桃山城から移築されたものとされ、国の重要文化財に指定されています。鏡板(かがみいた)に描かれている松は隠し絵の技法が用いられていることで有名で、対面所の奥からでないとはっきり見えないようになっています。また「対面所」と「白書院三の間」は、畳を上げると座敷能舞台に変わるよう工夫されていて、本願寺と能の深い関係がうかがわれます。
 戦国時代に活躍した本願寺の坊官下間仲孝(しもつまなかたか)は猿楽の名手として有名で、豊臣秀吉や徳川家康の前で猿楽を披露したことが伝わり、仲孝の戦国大名との能での交流がなければ本願寺は存続の危機に直面したであろうと言われています。能はもともと農村部の田楽などに仏教儀礼の行法などが加わり猿楽として大成されたもので、神事や武将などの供養の意味で行われていました。そのため、シテと呼ばれる主役を演じる人が演目の途中で倒れたとしても、後見と呼ばれる総監督にあたる人がシテに成り代わり最後まで演じ切ることになっており、その演目の内容も浄土往生思想を背景にしたものが多くみられます。
「往生なれや何事も、皆うち捨てて南無阿弥陀仏と称ふれば、仏もわれもなかりけり。仏もわれもなかりけり。南無阿弥陀仏の声ばかり。」
これは蓮如上人がご法座でよく用いられた『誓願寺』という謡曲で、能を大成した世阿弥(ぜあみ)によって作られたものです。蓮如上人の時代には、機内のたくさんの寺院で能や狂言が盛況に催されていたことが伝わっており、蓮如上人のご子息が書かれた『実悟記』には、
「蓮如上人の御法談ありしに、(中略)必ず誓願寺のとなふれば仏も我もなかりけりといふ所をうたはる。しばしうたはせられ、各の眠をさませられて、又御法談ありし也。只人によく法をきかせられて、信心の人できるやうに、との仰也。」
とあり、蓮如上人が聴聞者の御信心のために、所々に当時の流行歌である能の謡曲を交えながら、眠くならないようにご配慮なされて御法話を続けられた様子が窺われます。
本願寺の「能舞台」は普段は非公開ですが、本年十月から始まる伝灯奉告法要では一般公開が予定されており、法要の大きな楽しみの一つとなっています。




平成二十八年度 お盆 一念寺副住職 谷治真澄

まもなくお盆がやってきます。
昨年のお盆からまた一年が経過いたしました。皆様の中には愛する方とお別れし、寂しくなった一年であった方もおられるでしょう。私もカナダでともにお念仏を伝えさせて頂いた開教使の同僚が、突然往生されました。昨夏カナダから当寺を訪れられ、私達もいつかカナダへ遊びに行きますと言ったばかりでした。この世の無常を感じずにはいられません。
さて私は最近、戦時中における日系アメリカ人の強制収容について調べています。収容者数は約十二万人で、その半数以上が仏教徒(ほとんどが浄土真宗本願寺派の門信徒)であり、収容所内では、開教使による毎週の法座や仏教婦人会、仏教青年会、日曜学校の活動を通し、より宗教的に生活しておられたそうです。先日資料を調べる中で、ある日系二世アメリカ人の兵士がイタリー戦線へ出発する前夜、ニューヨークのレコード店でレコードにふきこんだというメッセージに出逢いました。
「ママ、パパ。ミーよ、ほらミーよ。今夜いよいよオーバーシーへ行くよ。長いこと可愛がってもらって、ミー、サンキューいうよ。ママもパパも心配せんでもいいよ。すぐ帰ってくるでな。帰ってきたら、すぐパパやママのところへ飛んでゆくよ。ママもパパも元気でいなさいよ。行ってくるでな。もう言うこともないで、これでグッバイするよ。ママもパパも元気でな、グッバイ、グッバイ。
ママ、ママ、まだあるよ。忘れてたよ。ほら、あの話な。ミーが小さいときから、いつもママがミーに話してくれた、あの話よ。仏さんの話よ。あの話ちゃんと覚えとるから安心してよ。オーバーシーへ行っても、仏さんはミーについていてくれるんだったなあ。ミーさみしくないよ。仏さまがミーを守っていてくれるんだものなあ。あの話ちゃんと覚えとるから、ママもパパも心配せんでいいよ。
では行ってくるよ、ママもパパも大事にしなさいよ。グッバイ。」
遠くアメリカでも、仏さまが心の支えであったのだと、涙が出ました。強制収容されていた日系二世の若者はアメリカへの忠誠を試され入隊し、欧州戦線の最前線へと送られました。その四四二部隊はアメリカ軍で最も酷い被害を受け、最も多く勲章を受けたそうです。
『観無量寿経』に「仏心とは大慈悲これなり」とあります。生きとし生けるすべてのものを、その温かく大きなお慈悲に包んで、私たちに心の安らぎといのちの行方をはっきりと確認させてくださる、そういう仏さまの尊いお心が、この言葉で表されています。仏教は慈悲の心を最も大切にし、もともと「慈」はインドの言語で「マイトリー」(心から相手の幸せを願う慈しみの心)、「悲」は「カルナ」(人々の痛みを自らのことと共感し、その痛みによりそうこと)であり、人の痛みに共感できる心を育ててくれよというのが仏さまの願いなのです。その痛みに感応する心が原動力となって、相手の幸せを心から願って生きていくことが、仏さまのお心であり、仏さまが私たちにお勧めくださっている生き方なのです。「仏さまがわからない」、「仏さまのお姿が見えない」という方がいますが、仏さまは見るものでなく、実はそのお心を聞くものなのです。
「お盆」は、心静かに手を合わせて、先に浄土に旅立たれた方々を思い出し、仏さまの慈悲の心を味わいつつ、いま生かされていることに感謝させて頂く大切なご縁です。
合掌



平成二十八年度 春のお彼岸  一念寺住職 谷治暁雲                    

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」
有名な『歎異抄』第三条には、親鸞聖人のこんな言葉がつづられています。
「善人でさえも往生ができるのだから、悪人が往生できるのは間違いありません。」
私がこの言葉に初めて出会ったのは高校生の時で、正直に申しますとその時には全くこの言葉の意味が分かりませんでした。
「えっ!そりゃ逆でしょう。悪人は仏様のお慈悲で怒られながらお情けで救われる。善人は仏様に褒められて悠々と救われる。こうでないと不公平じゃないですか!」
普通ならそう反論したくなります。悪人が得をして善人が損をするという構図は、例えば、人を騙したり、ずるいことをして自分の保身をはかる人が悠々と生活して、自分を律し自分の身を削って人々のために奉仕する人が生涯貧乏暮らしで苦労するというのは、良くある社会の姿です。悪人も善人も両方が救われるのであれば、悪人が得をして善人が損をしていることになりはしないかと考えるのは、当然のことです。
私はプロテスタント系の幼稚園に通い小学生の頃は毎週教会で礼拝をしていましたので、聖書の中の、
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい。」
という言葉を覚えています。この世で不遇な善人が天国に行けるからこそ、宗教的な救いがあるのでしょう。ですが歎異抄のこの言葉は、どう見ても悪人が得をしているではないかと思えます。
ところが、この理解不能な一文は名文として後世に脈々と伝えられてきたといいます。私にはそれが不思議でなりませんでした。そしてそれは、後により深く親鸞という人を学んだことで、納得へと変わっていきました。善人と悪人の意味が、私の理解と違っていたのです。

 『歎異抄』は、親鸞聖人のお弟子さんである唯円が、聖人から直接お聞きになったことをまとめた書物です。内容は大きく分けて二段になっていて、前半は聖人から直接お聞きになった教義がつづられ、後半は世の人々の間違った浄土教理解を唯円が嘆くという構成になっています。この「善人なほもて・・・」の文は、前半の第三条にあります。

この文にはこうあります。
「善人にも救いの道は開ける、まして悪人には間違いがない。しかし、普通一般では、悪人にも救いの道は開ける、まして善人は間違いないと言われている。これは一応はもっともであろうが、しかし本願他力の意には反くものである。その理由は、自力で善をなしえる人は、ひたすらに弥陀の救いをたのむという心がないから、仏の大悲を知ることはない。しかしその心をひるがえして他力の救いをたのむようになれば、真実の浄土に必ず生まれることを得るだろう。しかし、煩悩だらけの私達は、どのような善行を行ったとしても生死の苦しみを離れることがかなわないと阿弥陀仏が憐れまれて、本願をたてられたことの本意は、ひとえに悪人を往生させようとするためであるから、他力をたのむ悪人こそが救いの道を開くものである。よって、善人にも救いの道は開ける。まして悪人には間違いがないと仰せられた。」

ちょっと難しいですが、親鸞聖人はここで、「自分の力を信じて善い事を行い仏になろうとする人には謙虚な気持ちで仏様におすがりしようとするする心が欠けているので、阿弥陀仏の大悲の救いを自ら閉ざしてしまう」と言われています。
 ここで善人と呼ばれる人は、「自分の力を信じて、救いを求めない人」です。そう言われてみると、確かに自分の能力や人生に自信のある人は、なかなか人を頼ろうとしません。その生き方は元気で若いうちはそれでも良いのでしょうけれど、いつまでもそのままで行けるわけではありません。自信があればあるほど、出来なくなった時の落胆は大きなものです。輝けば輝くほど、闇が深くなる。それが人間の悲しい性なのでしょう。

平安時代の源信和尚は、六道において人間より上にいる天人の最後を、
「天人はとても幸せだけれど、その最後には幸せだった時代と今の自分を比較して、深く傷つき悲しまなければならない。」と言われます。まわりの天人たちは今は何でもできて幸せの絶頂ですから、そうやって寂しく終わっていく人を構ってはくれません。最後の人は元気な人々に置いてきぼりをされ、憐れまれ、強い孤独を感じて死んでいく。そのようにして終わっていく他人の人生をこれまでに何度も見てきて、自分がいつかそうなるかもしれないと分かっているのに、自分が何でもできる幸せな時にはそれを失うことを考えもしないのです。そのときは皆自分だけはそうならないと信じています。でもそれがとてもグラグラした張りぼての自信でしかないことを源信和尚のこの言葉は教えてくれます。
 これと同じで、ここでいう善人とは、自分の力や運だけを信じる人のことです。それは一見素晴らしいことのようですが、そこには健康で元気な者を前提とした厳しさや根拠のない自信が含まれています。それでは本当には救われないのです。自分の上にある自信など、縁が変われば、つまり痴呆になるなど状況が変わればいとも簡単に崩れ去ってしまう、だからそうではなくて、親鸞聖人は信心さえも阿弥陀仏からのたまわりものであるとされます。阿弥陀仏から届けられる他力の信心だからこそ、自分の心がどのように変化しようとも、絶対に変わることなく、その人が救われることになるのです。

 人間の世界は狭い世界で、善人は悪人を受け入れず、悪人は善人を認めません。だからそこには対立が起こります。ですが、阿弥陀仏の見られる世界はもっと深いところにあって、善人には「本当にお前は善人か」と問いかけ、悪人には悪を反省させて必ず救うという慈悲の道を開かれます。そのように善人も悪人もへだてなく一切の善悪の人々が救われていける世界が、親鸞聖人が法然聖人より教わったお念仏の道です。

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
この一文が名文とされて、時代を超えて人々に愛され受け継がれてきた理由は、こういうところにあったのです。
南無阿弥陀仏



平成二十七年度 報恩講 一念寺住職 谷治暁雲

 報恩講は浄土真宗の開祖親鸞聖人のご命日に、聖人のご遺徳を偲び、仏様から私たちに届けられる極楽往生への願いを今一度確認する意味で行われる大切な法要です。

 親鸞聖人は、承安三年(一一七三年)京都市伏見区の日野誕生院付近でお生まれになりました。お父様は、藤原氏北家の下級貴族である日野有範(ひのありのり)、お母様は清和源氏の吉光女(きっこうにょ)とされています。鴨長明の『方丈記』によると、当時京の都は戦乱のさなかにあって、飢饉や疫病が蔓延していたようです。親鸞聖人は九歳の時、両親と別れて比叡山延暦寺の小僧さんになられますが、これは戦乱で命を狙われないためと言われています。その後二十年間も延暦寺で天台宗の厳しいご修行をされるのですが、次第に仏道に対する疑問を感じられるようになります。ご修行を続けられているご自身の姿は、経典に説かれている仏様や菩薩様には程遠く、一向に仏の位にたどりつけそうにありません。修行すればするほど、ご自身の姿が煩悩だらけの存在と知らされるばかりです。
そんな折り、親鸞聖人は、浄土宗の開祖法然上人との運命的な出会いを果たされます。法然上人は延暦寺で一切経を読破し、「智慧第一の法然房」と呼ばれていた高僧です。それにもかかわらず、ご自分のことを、「愚痴の法然房」と称されて、聖となって東山の小さな庵で念仏の教えを一般の人々に説いておられました。
 そんな法然上人に親鸞聖人は引きつけられ、何度も何度も法然上人のご法座に足を運ばれました。すると次第に親鸞聖人の仏道修行への疑問がとけていきました。
 「自分の力で仏になろうというのは驕りである。自分の力たよりにせず、仏様にすべてお任せすれば、必ず間違いなく極楽に往生できる。南無阿弥陀仏は仏様が私を喚んでおられる仏のお声だったのだ。」
 親鸞聖人は法然上人の説かれる念仏の教えこそが、大乗仏教の至極であり、みなが救われていく唯一の道であると確信されます。そして、比叡山での長年のご修行を捨てて、法然上人の門下に加わることを決意されます。
 「法然上人は阿弥陀様のお慈悲によって遣わされた菩薩様に違いない。私が仏道修行に深く悩んだのも、法然上人と出会ったのも、すべて阿弥陀様のお導きだったのだ。この信心でさえも、阿弥陀様から頂いたものだったのだ。」
ここに親鸞聖人が延暦寺で称えてきた自力修行の念仏が絶対他力のお念仏に変わります。そしてそれから親鸞聖人はお念仏の教えを民衆に伝えていかれました。
 人は生きている限り、罪を重ねます。例えば、生き物を殺すのは殺生(せっしょう)の罪ですが、自分以外の生き物を殺さなければ、自分が死ぬこともあるのです。移動するにしても、車に乗れば沢山の虫たちがぶつかってきます。どんなに注意しても、自分が動けば何かしら他の生物を殺してしまいます。畑仕事をしても、植木の世話をしても、絶対に生き物を殺してしまう。シラミがわいたらつぶさなければいけません。私たちは生きている限り殺生の罪を犯さなければなりません。だから阿弥陀仏の救いには信心が何よりも大切であって、人間の善悪は往生に関係がないとされます。親鸞聖人は弟子の唯円にこのように語られています。
 「阿弥陀仏の願いを信じるために、善行は必要ありません。念仏に勝る善などないのだから。悪も怖るに足りません。阿弥陀仏の願いを妨ぐる程の悪などないのだから。」
 阿弥陀仏は、立派で偉い人を求めておられるのではありません。立派で何でも出来て、仏様にさえ対抗心を燃やすような人は、阿弥陀仏の助けを必要とはせず、阿弥陀仏の願いに耳を貸そうとはしません。しかし自分が悪凡夫であると知る者は、南無阿弥陀仏のお喚び声のありがたさに頭が下がっていきます。自分が悪であることは悲しく嘆かわしいことです。でも、そんな自分を阿弥陀仏はそのまま迎えてくださいます。
 親鸞聖人はそういう他力のお念仏を、阿弥陀仏そのものが現れ出たお姿だと言われています。

今年の報恩講は十一月一日(日)です。今年は寒くなる前にお参りさせて頂きます。今年も興正派の北岑先生から楽しい御法話を頂きますので、皆様お誘い合わせの上お越し下さい。再会を楽しみにお待ちしております。
来年の二月頃には、お寺にもう一人子どもが誕生する予定です。

南無阿弥陀仏



平成二十七年度 秋 門徒式章について 一念寺住職 谷治暁雲

 お寺での行事や法要に参加すると、お参りされている方の中にお袈裟のようなものを肩から掛けておられる姿を見かけると思いますが、この法具は門徒式章という真宗門徒であることを表すしるしです。
 門徒式章は僧侶が身につけている輪袈裟(わげさ)と形が似ていますが、よく見ると縫い目の位置や飾り紐などが違います。これらの違いはそれぞれの成り立ちと深い関わりがあり、門徒式章は江戸時代に男性の正装としてお寺で用いられてきた肩衣(かたぎぬ)や裃(かみしも)が、昭和の初めごろに洋服に似合う真宗門徒の礼装として現在の形になったといわれています。一方、輪袈裟は法事などでよく用いられる五条袈裟を簡略化したもので、得度をした僧侶のみが着けることができるお袈裟の一種です。門徒式章を「半袈裟」や「門徒袈裟」と呼ばれる方がありますが、由来の違いを考えると誤った呼び名と言えるでしょう。
門徒式章の大きさや形状については規定がありますが、色や柄などはある程度自由です。大きな法要の記念に制定されるものや、一般の寺院が独自にデザインしたもの、仏教婦人会や仏教壮年会、保育連盟のものなど様々な式章があり、これらは本願寺出版社や法衣店で買い求めることができます。
門徒式章を着用する上で気をつける点は、ほとんどの場合式章には本願寺派の「下り藤」などの紋が入っていますので、背紋があるのであれば向きが上下逆にならないように注意し、両胸の紋の位置がずれてだらしなくならないよう垂らす長さを左右できちんと揃えるようにします。仏事の際には門徒式章とともにお念珠を忘れず威儀を正してお参りし、お手洗いでは必ず外して水が掛からないように気をつけます。また門徒式章を持参するときにはなるべく式章入れを用いて、直接床に置いたりせず大切に扱うようにいたしましょう。
親鸞聖人はお念仏を喜ぶ人々を「御同朋」や「とも同朋」と呼ばれて、ともに生きられました。私たちも宗祖のそのお心を学びながら、御同朋、御同行と互いに敬愛し、み教えを護り仏法が弘まるように努めて生活していくことが大切です。本願寺派の『宗制』には、「本宗門は、その教えによって、本願名号を聞信し念仏する人々の同朋教団であり、あらゆる人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝え、もって自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献するものである」と謳われてあり、門徒式章はこのように阿弥陀様への報恩謝徳を表してお念仏を申して生きる真宗門徒のあかしであるとともに、お寺に集う人々が同じ式章を着用し一堂に会すことで御同朋、御同行の意識を高めていくことのできる大切な礼装です。
門徒式章は気軽にお求め頂けますので、お寺へのお参りには是非門徒式章を着用して頂ければと思います。

南無阿弥陀仏



平成二十七年度 お盆の「こころ」、日本の「こころ」  一念寺副住職 谷治真澄

まもなくお盆がやってきます。お盆は正式には盂蘭盆といい、その起源は『盂蘭盆経』という経典にみられます。盂蘭盆は「ウラボン」と読むのですが、原語はインドの言葉「ウランバナ」で、「逆さづりの苦しみ」という意味になります。釈尊の十大弟子の一人である目連が神通力で亡くなった母親の姿を探されたところ、餓鬼道に堕ちておられるのを見つけられ、そこで飢える母に水や食べ物を差し出しましたが、口に入る直前に炎となってしまいました。釈尊にその事を話すと、「安居の最後の日(七月十五日、新暦の八月十五日)に全ての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えられました。目連は釈尊の教えどおり、比丘に布施を行うと、母親の口にもその供養の一部が入り、餓鬼道の苦しみから救われたそうです。そして、目連や比丘たちは歓喜の踊りをしたと経典には書かれております。
私がカナダで開教使をしていた頃、トロントでは市内・近郊でお墓参りがあり、私は市内で最も大きいマウント・プレゼント墓地をお参りしました。日本では見かけない光景ですが、トロント仏教会では伝統として、二十以上もある墓地を門徒の方々と共に、三人一組で全部参ります。たくさんの方が、それぞれのお墓の前で待っていてくださっています。そしてたとえご家族が来られていなくても、花を供えて日系人とわかる同朋の全ての墓地に、半日をかけてお勤めをしてまわるのです。一つ一つの墓地に向かって手を合わせ、お名前や生存年を拝見すると、百年以上前にかばん一つ掲げて船ではるばる日本から渡ってこられた、日系一世の方々のご生涯やご苦労を思いました。そして夜はトロント仏教会主催で、日系文化会館にて夏祭りや盆踊りも開催されました。お寺ではこの盆踊りのために四月から週に二回、午後八時から九時半まで練習会が行なわれ、毎回五十名ほどの方々がいらっしゃっていました。私も時々様子をのぞきに行ったのですが、老若男女、人種も混ざった見た目も様々な方々が、汗だくで必死にそして夢中に踊っている姿を拝見し、胸が打たれました。そして本番では、野外で浴衣を着た数百の方々が何重もの輪になり、そろった踊りを披露し、その様子は見るものの心を「和」(調和・ハーモニー)の世界へと導きました。そしてよく見れば日系人・日本人と混じって、白人や黒人の方々も浴衣や洋服で楽しそうに踊っておられ、このような行事を通して少しでも日本の素晴らしさ、そして仏教の精神が伝わればなぁと思いました。
実は盆踊りや日本のあらゆる踊り(歌舞伎等)の起源は、日本仏教のお念仏の教えにあると言われます。平安時代の僧で踊り念仏で全国を行脚した空也上人や、鎌倉時代の一遍上人が起源だといわれていますが、当時飢饉や天災、そして疫病が蔓延する中、死と隣り合わせに生きておられた方々に、「南無阿弥陀仏と称えれば、必ず極楽に往生させてもらえる」と説かれたのです。民衆は死への恐怖や生きていくことの絶望感から救済され、自然と「なんまんだぶ!なんまんだぶ!」という歓喜の踊りとなり、それがお盆に先祖を思い慕う行事と一緒になって、今の盆踊りとなったという説があります。日本の伝統や、文化のあらゆるところに、仏教の影響があるようです。
今年も亡き人を偲びつつ、今わたしたちが「生かされている」という感謝の気持で、お盆を迎えさせていただきましょう。
合掌



平成二十七年度 春のお彼岸 一念寺副住職 谷治真澄

「先生、結局お浄土も天国も同じところなんですよね?」
カナダで開教使をしていた頃、お寺で毎週催されていたシニアカラオケクラブにお越しだった日系二世の男性からこの様に問われました。お話をよく伺うと、その方のご家庭は仏教徒でご家族もお寺のメンバーでしたが、熱心なクリスチャンである奥様の影響で結婚後キリスト教徒になられたそうです。しかし七十歳を超えた最近、夢の中に亡くなったお父さんや弟さんが出てこられ、気がつけば明け方にお念仏を称えていることが多いとのことでした。私はその問いに一瞬悩みました。なぜなら涙ぐんだその瞳には、「お願いだから同じであると答えてほしい」という思いが滲んでいたのです。しかし私は、阿弥陀さまの極楽浄土とキリスト教の天国は、その性質も違うし、そこへ行く方法も違うということ、もっと言えば、阿弥陀さまと神さまは性質が全く違うことを思い切って伝えました。その違いを聴きにお寺にお参りくださいとお見送りしたのですが、やはり落胆をされていたのです。
帰国後、その事がいつまでも頭から離れなかったので、龍谷大学の大学院でご指導を賜っていた先生に質問をさせて頂いたところ、「このいのち終わったあとすぐには会えなくても、いつかはお浄土で出会えます。阿弥陀さまが必ずすべての衆生を残らず浄土に生まれさすとお誓いなんですからね。それに浄土の時間は人間が感じる時間と違いますから、会えない時間もほんの一瞬ですよ。」とお答えくださいました。有り難いお言葉に胸がすく思いでしたが、同時にカナダでその様に答えられなかった後悔の念で一杯になりました。
親鸞聖人はお手紙に「聖道門というのは、すでに仏になられた方が、わたしたちを導こうとして示された、仏心(禅)宗・真言宗・天台宗・華厳宗・三論宗などの大乗の究極の教えです。…また、法相宗や成実宗・倶舎宗といった権教や、小乗などの教えも、すべて聖道門です。権教というのは、すでにさとりを開かれた仏や菩薩が、仮にさまざまなすがたを現してお導きになるので「権」というのです。」(『現代語版 親鸞聖人御消息』五〜六頁)とお示しです。聖人は師の法然聖人や自らを法難にあわせる原因ともなった、天台・法相宗を含めた聖道門の僧侶の方々をも、自身を仏にならしめるために働きかけてくださっている浄土から来られた還相の菩薩として見ておられたのです。またその最後には、「釈尊の善知識は百十人です。このことは『華厳経』に説かれています。」(七頁)と示され、善財童子が求道の旅で出逢った様々な職業や年齢の方を、全て我が師と仰ぐ謙虚な姿を讃えておられます。
今も世界中で宗教の違いが原因になり、様々な憎しみ合いが起きています。私が受け持つ京都女子大学の仏教学の講義では、毎年一回生の最初の授業で「宗教についてどう思いますか?」というアンケートを書いて頂いておりますが、「無い方が平和な世界になる」という答えが見受けられます。世界を見渡した時、仏教の他宗の方々や、他の宗教を信仰されている方々、そして特定の宗教を信仰されていない方々と、多様な宗教観の中で私たちは生活をしています。ご修行中の阿弥陀さまが世自在王仏によって、二百十億もの仏国土をご覧になり、それぞれの長所と短所を学ばれたように、私たちも様々な仏教宗派や他の宗教、そして感動をもたらしてくれる芸術や言葉などにも心を開いて、その素晴らしいところを謙虚に学び、あらゆるいのちからお念仏のみ教えを味わわせていただくという姿勢が大切だと思います。阿弥陀さまの眼から見れば、この世に無駄ないのちはひとつもないのですから。
一歳になったばかりの私の息子にとっては、宗教や思想の違い、肩書や社会的地位などは関係なく、自分を見てにっこり笑いかけてくださる方に、ただただにっこりと心の底から微笑んでいるのです。その無垢な笑顔に、私の分別に満ちた心の濁りが照らし出される気がいたします。
今年も春のお彼岸の時期がやってきました。皆様のご参拝をお待ちしております。
南無阿彌陀佛



平成二十七年度 お盆の「こころ」、日本の「こころ」  一念寺副住職 谷治真澄

まもなくお盆がやってきます。お盆は正式には盂蘭盆といい、その起源は『盂蘭盆経』という経典にみられます。盂蘭盆は「ウラボン」と読むのですが、原語はインドの言葉「ウランバナ」で、「逆さづりの苦しみ」という意味になります。釈尊の十大弟子の一人である目連が神通力で亡くなった母親の姿を探されたところ、餓鬼道に堕ちておられるのを見つけられ、そこで飢える母に水や食べ物を差し出しましたが、口に入る直前に炎となってしまいました。釈尊にその事を話すと、「安居の最後の日(七月十五日、新暦の八月十五日)に全ての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えられました。目連は釈尊の教えどおり、比丘に布施を行うと、母親の口にもその供養の一部が入り、餓鬼道の苦しみから救われたそうです。そして、目連や比丘たちは歓喜の踊りをしたと経典には書かれております。
私がカナダで開教使をしていた頃、トロントでは市内・近郊でお墓参りがあり、私は市内で最も大きいマウント・プレゼント墓地をお参りしました。日本では見かけない光景ですが、トロント仏教会では伝統として、二十以上もある墓地を門徒の方々と共に、三人一組で全部参ります。たくさんの方が、それぞれのお墓の前で待っていてくださっています。そしてたとえご家族が来られていなくても、花を供えて日系人とわかる同朋の全ての墓地に、半日をかけてお勤めをしてまわるのです。一つ一つの墓地に向かって手を合わせ、お名前や生存年を拝見すると、百年以上前にかばん一つ掲げて船ではるばる日本から渡ってこられた、日系一世の方々のご生涯やご苦労を思いました。そして夜はトロント仏教会主催で、日系文化会館にて夏祭りや盆踊りも開催されました。お寺ではこの盆踊りのために四月から週に二回、午後八時から九時半まで練習会が行なわれ、毎回五十名ほどの方々がいらっしゃっていました。私も時々様子をのぞきに行ったのですが、老若男女、人種も混ざった見た目も様々な方々が、汗だくで必死にそして夢中に踊っている姿を拝見し、胸が打たれました。そして本番では、野外で浴衣を着た数百の方々が何重もの輪になり、そろった踊りを披露し、その様子は見るものの心を「和」(調和・ハーモニー)の世界へと導きました。そしてよく見れば日系人・日本人と混じって、白人や黒人の方々も浴衣や洋服で楽しそうに踊っておられ、このような行事を通して少しでも日本の素晴らしさ、そして仏教の精神が伝わればなぁと思いました。
実は盆踊りや日本のあらゆる踊り(歌舞伎等)の起源は、日本仏教のお念仏の教えにあると言われます。平安時代の僧で踊り念仏で全国を行脚した空也上人や、鎌倉時代の一遍上人が起源だといわれていますが、当時飢饉や天災、そして疫病が蔓延する中、死と隣り合わせに生きておられた方々に、「南無阿弥陀仏と称えれば、必ず極楽に往生させてもらえる」と説かれたのです。民衆は死への恐怖や生きていくことの絶望感から救済され、自然と「なんまんだぶ!なんまんだぶ!」という歓喜の踊りとなり、それがお盆に先祖を思い慕う行事と一緒になって、今の盆踊りとなったという説があります。日本の伝統や、文化のあらゆるところに、仏教の影響があるようです。
今年も亡き人を偲びつつ、今わたしたちが「生かされている」という感謝の気持で、お盆を迎えさせていただきましょう。
合掌



浄土真宗本願寺派 一念寺
〒600-8344
京都市下京区柳町324
電話075-352-8635
FAX075-204-4012
住職:谷治暁雲(たにじ ぎょううん)
daylight@gaia.eonet.ne.jp

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