ホームスクーリング研究会リポート No.9
子どもをどう理解するか
第3章 自律の子ども
幼児期の子どもの遊びとおもちゃについて、ニイルはこう書いています。「子どもが台所道具を玩具にして遊ぶことに対しては、これを禁じなければならぬ理由はない。・・・・・子どもは、大部分創造の要素も、構成の要素もないような、玩具屋で売っている普通のおもちゃは好まないで、かえってこういうものを好むのである。実際たいていのおもちゃは、子どもをあやして寝つかせることができるくらいにすぎぬものであるが、まやかしの乳首もこれと同じことで、創造の喜びの代わりに、代用品の快楽を与えるにすぎない。」
私の娘のモモが1歳〜2歳くらいの頃、やはり台所道具で遊ぶのが好きだったことを思い出します。特に彼女は食器棚の前に座り込んで、引き出しから中のものを取り出して遊ぶのがお気に入りで、仕方がないのでナイフやフォークなどの危険なものは手の届かないところに置くことにしていました。そのころは、ぬいぐるみか積み木など木製のシンプルなおもちゃを置いていたのですが、出来合いのおもちゃより、大人が使っている日用品の方に興味を持っていたし、それを大人が使うようにまねをしてみたがったものです。”まねる”は”学ぶ”に通じます。それは想像力を駆使することであり、創造する事です。それにしても現代の子どもは、あふれんばかりの高価なおもちゃの中で「代用品の快楽」ばかりを与えられ、心の中では欲求不満をつのらせているような気がします。
「おもちゃの動かし方は、決して子どもに教えるべきでない。事実子どもが、自分でやってみても動かし方がわからないで、助けを求めるまでは、決して教えてやるべきでない。自律の子どもは、自分のおもちゃや遊びを、長期にわたって、自分が喜び満足できるまでやるものである。彼らは型にはめられた育ちの子どもがしばしばするように、おもちゃをつぶしてしまうようなことはしない。」
「ライヒの小さい息子ピーターは、シャボン玉を作って、その美しい色を喜んでいた。しかし型にはめられた育ちの彼の遊び仲間は、それを一つ一つこわしていった。『よせよ、こわしちゃダメだよ、あんなにきれいなのに』とピーターは激しく叫んだ。」たしかにシャボン玉遊びの場面で、シャボン玉が光を受けて虹色に輝いたり、ふわふわと飛んでいく光景を楽しむ子どもと、次から次にシャボン玉をこわすことを楽しむ子どもとにわかれますが、それは固定的なものではないように思います。自分でシャボン玉を吹いて飛ばしているときにはこわされたくないし、飛んでいるシャボン玉を追いかけてこわすのは誰でもやってみたくなるものです。それはこわそうというのではなく、シャボン玉をつかまえようとしてさわると、すぐにこわれてしまうと言った方がいいと思います。でもここでニイルが、シャボン玉遊びのエピソードで象徴的に表現したかったのは「世の若き親たちよ、もしもあなたの子どもが破壊を喜ぶならば、それはあなた方が、子どもの内にもつ何か生命的なもの、置き換えることのできない生命的なものを、破壊してしまったからであり、子どもの生命の自然の愛を憎悪に変えさせたからである。教護院や、牢獄屋、絞首台や電気イス等のすべての存在も、実は愛すべき子どもを反生命的なものにする訓練を数世代にわたってしてきたからである。」と言うことなのです。
(つづく)