ホームスクーリング研究会リポート No.7
子どもをどう理解するか
第3章 自律の子ども
「自律の子ども」がどんな子どもなのか。、ニイルは彼自身の愛娘、ゾーイをもっともそれに近いモデルとして4才半のゾーイと、「両親の双方から打たれてきたので、その結果、多くの抑圧された憎悪を持つ子供になっている」5才のテッドを対比的に描いています。「ふたりで遊ぶとき、テッドはいつも玩具に対して、攻撃的になり、破壊的になろうとする。大人に対する彼の態度は疑いぶかく、敵対的である。私が通ると、彼は私を押し、あるいは私を打つ・・・
もっとも悲しむべきことは、彼がほとんどと言っていいほど想像力をもたず、自分で工夫して遊ぶことが出来ないことである。彼のからだはこわばっており、彼の動作にはしなやかさというものがない。・・・」さらにテッドは「いつも中心人物になっていなければ承知できない。そこで彼は、おとなの反応をためしてみようとして、押してみたり、うなってみたり、叫び声をあげてみたりする。」
ゾーイについて、「わが子に対して、客観的になるということは、不可能のことである。」とことわりつつも「最善をつくして記述」しています。「この子どもは完全な子どもではない。この子どもは夜眠りが足りないと、翌朝その行動はまるでテッドみたいになる。でもそれは長くはつづかない。・・・この子どもはおとなに何かしてもらいたくておとなを困らせることもなければ、困らせようとする意欲ももたない。この子どもの今日までの生活を見て私は、私が今まで長年にわたって講演に、著書に述べてきた、子どもはひとを愛することができない、ただ愛されんことを求めるだけだ、という信念の誤りでなかったことを思わせられた。」「テッドに比べて、ゾーイは四肢のしなやかさと自由をもっている。抱きあげると、ゾーイの体はネコのようにしなやかである。しかし気の毒にテッドは、抱きあげてみると、まるでジャガイモの袋をもち上げるようである。彼の体にはしなやかさがない。彼の反応のしかたは、いつも防御的であり、反抗的である。彼はすべての方面に反生命的である。」
いささか類型的に過ぎるかもしれませんが、なぜ子どもがそのような行動をとるのか、あるいは態度でいるのかということを理解するヒントになると思います。私の経験でも、乱暴な扱いですぐにおもちゃを壊したり、空想遊び(ごっこ遊び)にはいっていけないで邪魔ばかりしていた子ども達を知っています。「現在おる子どもはみな、両親や教師や社会によって、鋳型を押しつけられて育ってきた子どもである」とニイルは書いていますが、鋳型を強く押しつけられる環境の中では、子どもはテッドのような態度をとるということになるのだと思います。
(つづく)