ホームスクーリング研究会リポート No.6

子どもをどう理解するか

第3章 自律の子ども

 今まで「不自由な子ども」「半ば自由な子ども」と述べられてきて、いよいよ「自律の子ども」について語られていきます。でもなぜ「自律の」子どもで「自由な」子どもではないのか・・・「自律ということばは、私の友人であるウィルヘルム・ライヒがそれを用いていることを知るまでは、私は知らなかった。・・・ホーマー・レーンは、自己決定ということを言った。他の者はまた自治ということばを用いた。しかしこれらのことばは、自律と同じではなかった。なんとなれば、それは個々の児童が自分自身をしまつしていくということ以上に、社会的に自分たちを治めていくことを意味するからであった。」「現在においては自律の子どもと言いうるものはきわめて少ない。だから自律の子どもというものを説明しようとすると、試験的に、推測的になる他はない。そういう子どもを育てる結果は、新しい文明を生み出すことになるとも考えられる。しかもそれは、どんな政党が約束する新しい社会よりも、はるかに大きなものを意味しているのである。」「自律は人間性に対する信念を意味する。生まれながらの罪などはなかったものであり、決してないものであるという信念を意味する。この信念は新しいものではない。多くの人々はこれを主張し、これを実行に移そうとしてきた。たとえば自然主義の教育と呼ばれ、ルッソーの名に関係づけらてきたものなどそうである。しかしそれはたんに子どもの心理に応用したものに過ぎなかった。子どもの精神身体ともに、というものではなかった。自律とは、子どもが身体精神ともに、外界の権威にわずらわされることなく、自由に生活する権利をもつことの意味である。それは乳児がお腹が空いたときは乳を飲ますべきである、ということを意味する。清潔の習慣も、子どもがそれを求めるときになって、はじめてなされるべきであることを意味する。子どもはどなりつけられたり、たたかれたりすべきでなく、常に愛され、保護されるべきであることを意味する。」自律について長い引用になりましたが、「自由」は子どもが自律的に育っていくための条件であることが解ります。それは産まれたばかりの赤ちゃんの時から配慮される必要があと言うことです。それにしても、昨今、児童虐待が深刻な社会問題になっていることを思うと、ニイルのこれらの言葉が切なく心にしみこんできます。

 ではなぜ「自律」が大切なのか。ニイルは「条件づけがなされると、恐怖や憎悪に導かれる筈のものである」と述べています。

(つづく)


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