ホームスクーリング研究会リポート No.5

子どもをどう理解するか

第3章 自律の子ども

 自由が子どもにどう作用したかについて、3回に渡ってリポートしてきたわけですが、この章については今回で終わりにしようと思います。ここで言われている「自由」とは、主に環境としての自由であって、抑圧や外的な規制を加えられない状況と理解して良いでしょう。でも「内的な自由」はもう少し複雑で深い問題です。どのように抑圧的な状況でも自由に生きようとする人もあれば、自由な環境の中でも見えない檻の中に入ろうとする人もいます。むしろその中で安心を得ようとする人の方が多いようにも見受けられます。この問題については次の章でもう少し深く考えることになるでしょう。

 さてこの章では、宗教と性の問題にも触れられています。宗教については「人間は宗教を求める自然の傾向を持つかどうかという古い疑問に対して、サマーヒルの経験は何者をも加えない。生徒の大部分は無宗教の家庭からやって来た。だから習慣的な罪悪感や神への恐怖を持っていなかった。・・・・・しかしながら私は考えざるを得ない。性は人間生活における大きな罪であると考えるところから、性の恐怖と羞恥とからまったく解放されている子どもは、その許しや恵みを乞うことのできるどんな神をも求めることをしない。彼らは自分自身を罪あるものと感じていないからである。」このようにニイルは宗教を性の問題と関連させて多く語っています。性を恐怖し、自慰を罪悪視するのは宗教的な(この場合はキリスト教)影響によるものとしているわけですが、現在の日本のように宗教的な影響が少なく、性に関する情報があふれかえり、一見なんの拘束もないかに見える社会においても、性に関する閉塞状況は見え隠れしています。

 性の問題に関して、サマーヒル学園初期には「じゅうぶん心理的な取り扱いをしたものである」が後には「進歩的な家庭から子どもを託されるようになってきたので、性に対するひどい神経症的なコンプレクスは、さほど目立っては見えなくなった。」「真の共学のもとにおいては、羞恥と好奇心の要素は、ほとんどなくなってしまう。だからサマーヒルでは、のぞき見なぞは一つもない。そしてまた自慰についての古い罪悪感も、真の自由と幸福の空気のなかで、次第に消えていっている。」そして社会に対しては「何故に自然あるいは神は、青年に強い性本能を与え、しかも社会の先輩が認めるのでなければ、これを用いることを許さないのか。何びともこれに答えることはできない。それらの先輩のある者は、仲間を求め、性的な刺激の暗示に満ちた映画を氾濫させ、また商売の方面では、少女を、少年にとっていっそう誘惑的であるようにならせるあらゆる種類の品物を売っている。また雑誌類には、青年をひきつけるようなサディスティックな物語や絵画を満載している。ある者は法官席に腰を下ろして、性的に植えた青年の盗み、暴行、殺人を裁いている。もしひとりの老齢な政治家が、かつてホーマー・レーンがリトル・コモンウェルスにおいてしたような方法を取り上げる勇気があり、不良の少年と少女を同じところに集め、それらの者に自己決定の生活をさせ、幸福を与えるならば、

彼はこの国における他の全ての施設におけるそれよりも、不良少年に対し大きな仕事をすることになるであろう。・・・・愛は治療的なものであり、やさしさであり、与える力である。・・・・・」

 この章の終わりに、ニイルはサマーヒルの参観者のことばを紹介しています。「これらの子どもたちは、落ちついており、自信を持っている。攻撃的なところはなく、そういうことはほとんどどの子どもにも見られない。」「彼らは決して見栄をはるということがない。恐怖も屈従もなく、しかも行き過ぎもなく、人間対人間の態度で話をする」「彼らは、物事に興味を持ち、何か珍しいもののようにそれを把握する。」

(つづく)


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