ホームスクーリング研究会リポート No.4

子どもをどう理解するか

第二章 半ば自由な子ども

  自由が子どもにどう作用したかについてもう少し。「人が自由の生活に生きるということは、他人の自由を妨げないということを、大体において直接の目的にすることである。そしてこの場合、自由と放縦との区別を明らかにすることは、我々に与えられたしごとであった。しかもこのしごとは、今もって多くの大人たちが解決できないでいるところのものである。独断的になるかもしれぬが、だいたいにおいて、早くこの学校にはいって来た子どもたちは、すなわち7才以前くらいに来た者は、自由と放縦の区別を知っている。しかしもっと年上になってから来た子どもたちは、それのどこに境界線を引くかということを知るために、長い月日を要した。ときには新しく来た職員で、放縦の態度を示す者もあった。」抑圧的な環境からいきなり自由が与えられた子どもの様子が具体的に紹介されています。「例えばそれが13才の少年であるとすれば、その際彼は悪口を言う、タバコを吸う、そしてあつかましい態度になり、しかもそのとき、自分のあつかましさゆえに、罰せられることを恐れている。彼は何日も手を洗わないで過ごすかもしれない。たぶん朝は、9時になれば朝食は片づけられてしまうということは承知の上で、寝坊しているかもしれない。彼はめったに創造的意欲を示さない。かえってしばしば破壊的な強い意欲を示す。」など。このような状況は、子どもと大人の力関係が逆転したときにもみられるのではないでしょうか。例えば中学校での荒れは、それまで力で押さえられてきた子どもたちが肉体的にも大きくなって教師との力関係が逆転したことによって、自由を得たように思うところからくるのではないでしょうか。でも彼らは本当に自由を得たわけではなく、絶えず力関係の中でおびえているに違いありません。結局、力による子どもの支配はその支配の外に出たときに放縦を生み出すと言うことだと思います。怒られなければ、見つからなければ何をしても良いというように、自分の中できちんとした行動の規範が持てないままに大人になってしまった人がたくさんいると思いませんか。

 「感情的自由に対する子どもの反応の問題」について、ニイルはもう一つ重要な指摘をしています。「それの主な外観上の徴候は、真実さや人情味の増加であり、それに加えて、攻撃欲の減少がある」「恐怖と訓練の下におかれていない子どもは、決して攻撃的ではない。30年のサマーヒルの生活において、鼻血を出すほどのけんかを見たのはたった一度だった。」最近続発する少年事件に関連して、成長過程の特に男の子のもつ攻撃性、暴力性について気になっているのですが、この点についてもニイルは示唆的だと思います。つまり、子ども達が「恐怖と訓練の下」におかれつづけているということが問題なのです。


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