ホームスクーリング研究会リポート No.14
子どもをどう理解するか
第4章 遊戯
「学校が大量生産工場と同じであって、教師のなしうることと言っては、ただ、教えることだけだとすれば、教えることが最上であると信ずるに至るのも当然ではあるまいか。私は学習に反対しているのではない。学習は遊戯のあとにくるべきであり、子どもの口にあうように遊びによって上手に味をつけてやるべきである、などと言っているのではない。学習は重要である。しかし必ずしもすべての人に対してではない。・・・・創作家は自己の個性と天才を発揮するに必要な手段として学習しようとする。そしてわれわれは、学習を強調される教室において、どれほど創造力が破壊されるかを知らないのである。」
今年の4月から学校が週休2日制や新学習指導要領が始まるに当たって、「ゆとり教育」論議が盛んで、多くの論者が「子どもは教えれば学ぶものだ」と言うことを前提にして、授業数の増減、教育内容の3割削減を問題にしています。でも「子どもは教えれば学ぶ」というのは、お勉強が大好きで受験の難関を勝ち抜いてきた人たちが抱いている幻想ではないかと思います。このような文科省の方針の変化は、「書物学習の目標をめざすことは、ミルトンの時代の昔から多少ともその価値を認められてきたものだが、それがラジオや、モーター機関や映画や、多数の新しい職業の今日の時代に、なおも続いてゆく。」ことから、さらに時代は進んで現代はテレビやインターネットの情報化時代になり、産業構造も大きく変わって、それに見合って学校教育を変えようとするものなのでしょう。子どもは興味によって学ぶのであって、学校で学んでいるように見えるのは、多くの場合、試験と成績評価による脅迫的な圧力のせいです。その証拠に、試験が終わればすぐに忘れてしまいます。また、話題の総合学習にしても、子ども一人一人にとってどういう意味があるのかという点から見れば、今の学校システムで可能なのかどうか、疑問です。その課題に興味のある子にとってはいいけれども、興味のない子にとっては、それも授業であるからにはただおつき合いをして興味がある振りをするというのが関の山なのではないでしょうか。ただ、教室で黒板を前にして先生にいつ当てられるかヒヤヒヤしながらの授業よりは嬉しいかもしれませんが。
「サマーヒルにおいては時間割は子どもの立場から作られ、別の形をとっている。自由の子どもは、時間割を作らせるとほとんどきまって大部分の時間を遊びに当て、課業にあてる時間はほんの少しである。私の意見では、正しい文明は子どもにたいし、少なくとも18才になるまでは勉強を要求すべきではない。なるほど子どもらはそれ以前の年齢でもたくさん勉強する。しかしそれは遊戯的な勉強であって、親たちの考えるような打算的な勉強ではない。」確かに我が家のホームスクーリングの経験からも、子どもは本をよく読み、子ども自身の興味に基づいたマニアックな知識は豊富で、親の私の方が教えられることも多くありましたが、それは子どもにとって「遊戯的な勉強」だったと言うことでしょう。また、テストされない環境は点数評価によって劣等感を持つこともなく(学校での一番の問題は、多くの子ども達がテストの結果によって劣等感をうえつけられるところにあると思います)、自尊感情が育つのに大いに役立ったと思います。
「多くのヨーロッパの国々において、受験準備のためにする学生の勉強の大変な負担を思うと、私はうんざりさせられる。ある人の話では、戦前ブタペストにおいては、大学の入学試験を受けたあと、約50%の学生は、心理的にか生理的にか損傷を受けた、と言うことであった。」これは、日本の今日的状況と何ら変わりがありません。
(つづく)