ホームスクーリング研究会リポート No.13
子どもをどう理解するか
第4章 遊戯
「なぜ子どもや子ネコは遊びたわむれるのか、私は知らない。遊戯についての理論は今までもあった。子どもが遊戯するのは、後年にいたっての活動の準備のためであると一般に考えられてきた。・・・もしこれらの仮定が退けられるとしたら、子ネコや子イヌがたわむれるのは、そういうようにできているからだ、とかんがえるよりほかはない。」「子ども時代は遊戯の時代である。」
ニイルの子ども観のなかで「遊戯」はとても重要な位置を占めています。「サマーヒルは遊戯を極めて重要視する学校である、と定義することができるかもしれない。」とも述べています。では「遊戯」とは何か。「私が遊戯として考えているのは、空想の遊戯であって、フットボールやホッケーのそれではない。」として、遊びの要素としての空想ー創造性を大切にしています。ですからルールに従ってやる組織競技は「遊戯」の概念からははずされています。でも「遊戯はわれわれにとっては、時の空費であるとかんがえる」から「何か遊戯に役立つような簡単な用具や設備さえもない小さなコンクリートの空地を提供するにすぎない。」この思想は今も生きていて、運動場や児童公園に如実に表れています。子ども達が公園で遊ばないのもうなずけます。学校も公園も子どものための施設といいつつ、「子どもの遊戯本能に応ずる」ようにはつくられていないのです。大人達は子どもの遊びを、それ自体として価値のあるものだというふうには受け入れたがりません。冒頭の引用にあるように、大人になってからの活動の準備であるとか、また何らかの目的、意義を子どもの遊びに求めます。あるいは学習効果を上げるために遊びを取り入れるような方法が開発されたりします。遊びながら学べるー市販されている教材によくあるキャッチコピーです。ニイルは、このように遊びを「目的への唯一の方法」としてしまうことについて、「にがい薬を砂糖でのませるように遊戯を利用する」ことであり、「子どもは何か学習していなければ時を空費しているという考えであり、一つの禍いである。」と指摘しています。
つまり、子どもは遊ぶものだから遊ぶ、それ以外に理由はないということです。結果として遊びのなかで子どもは成長していきます。そういうものとして子どもを受け入れるべきだとニイルは言っているのだと思います。「遊戯には騒々しさはつきものであるが、それが7才から14才の間に、こと済めばもっともよい。文明の害悪は、だれもが子ども時代にじゅうぶんな遊びをさせられなかった結果である。あるいはまた別のことばで言えば、すべての子どもはおとなになるまでの長い間、おとな的に温室育ちにさせられてきたためである。・・・今日の学校の教科はおとなの立場からのものであり、なんといっても子どもの興味には遠い。」
子どもに子どもの時間を取り戻すことは今日的な重要な課題だと思います。
(つづく)