ホームスクーリング研究会リポート No.11

子どもをどう理解するか

第3章 自律の子ども

今回は「懲罰」についてニイルが語っていることを拾ってみたいと思います。「親たちは六才のわが子に向かい、『あんたはトミーより大きいんだから、あんたくらいになったら、道を走るんじゃありませんよ』と言ってきかせるが、彼らはこの年齢の子どもが、このような言葉を理解するほど理性的に論理的に発達していないことを理解できないのである。親たち、ときには先生たちでさえ、幼い子どもに対しては、お説教は無駄であるという真理を、本当に掴んでいる人ははなはだ少ない。ネコの尾っぽを引っぱる子どもに対して、『もしかだれかが、あなたの耳を痛くするほど引っぱったら、あなたはどう思う?』という昔ながらの訓戒には、耳を傾けるような子どもは存在しない。」かといって、実際に子どもの耳をひっぱて痛いことをわからせるなどと言うやり方は、もちろん論外なのはおわかりでしょう。

また「子どもは原因結果の関係を理解することができないものだ」とも述べています。「『こんなおいたをした子には、土曜日の小遣いはあげませんよ』というのはよくない。なぜというに、子どもは土曜日になって、自分の非行とその罰を思い出すとき、彼は本能的に欲求不満と怒りを覚えるだけだからである。子どもにとっては、その事件のあった─たとえば─月曜日は、遠い、遠い過去のことであって、それが現在の土曜日の小遣いと関係があるとは、思えないのである。彼はぜんぜん罪悪感というものを感じない。ただ小遣いをくれぬ親をひどく怨むだけである。」だからよくある、後でお父さんに叱ってもらいますよなどというのは、父親のお説教の意味を子どもは理解しないばかりか、怖い父親に対する憎悪を抱く結果になるという二重の意味でよくないやり方ということになります。このことに関するサマーヒルでのエピソードについても紹介されています。「サマーヒルにはおやつのプディングをやらぬという罰がある。屋根に登ったとか、カタパルトを用いたとかいうものに課せられるのだが、これは困ったものである。これは学校自治会のつくったものだが、悪い罰則である。もしトミーがこの罰則によりプディングを与えられぬとなると、トミーの憎悪は、正直に自治会の規定を実行しただけの処罰と関係のない料理人に向けられ、これに毒づく形となる。子どもらも、これは悪い規則だと気がついているが、よりよい規則が考えられないのである。」

それでは「懲罰」をニイルはどのように考えているのか。「懲罰には権威の裁断、親なり教師なり、警察なり、国会なりの裁断がある。自律の育て方においては、家庭に権威は存在しない。すなわち、従わなければならぬと要求して大きな声を出すことはないという意味である。実際問題としては、もちろんそこには何か、権威に似たものがある。それは保護、予防、おとなの責任、などと呼ばるべきものであるかもしれない。それはときには相手に服従を要求し、ときには自分自身服従することである。」「懲罰は循環論法の形を作る。子どもが打たれる。打たれると憎悪をおこす。そして打たれるたびに憎悪はひどくなる。そこで子どもの行為はいっそう悪化する。するとまたいっそうひどく打たれる。その結果は、態度のよくない、すねた、破壊的な、小さな憎悪者となる。そして懲罰に馴らされて、今はそれがないと寂しく感ずるようになっている。このようにして子どもは、両親から何らかの感情的反応を得るために、『罪を犯す』ということになる。」「子どもに対する懲罰は、生命そのものに対するおとなの干渉の一方面として現れる。・・・たいていの懲罰は単なるおとなの怒りに発している。子どもはおとなを小さくしたものではないからである。そして子どもとおとなとは、その興味において多くの方面において、反対だからである。」「私の見てきた限りでは、自律の子どもは何ら懲罰の必要がない。」なぜなら「自分のことを自分の自由にすることが許されたとき、子どもは平和になり、社会的になり、親切になる。」「ただ一つ必要なことは懲罰は憎悪を意味することを特筆大書しておくことである。そして憎悪と自律とは反対であるから、新しい育児には懲罰は入り得ないであろうことである。」

(つづく)


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