居合って何? 
全日本剣道連盟居合道に関する野々村耕二的考察
  2018/11〜   トップページ

私が日々稽古する居合とは、抜き始めはあくまでも柄頭や鍔を用いての防御、鞘を引ききったら切先にての攻撃、一瞬の間に防御と攻撃という心の働きと身体の動きがある日本刀を使う剣術という武道の一つの分野であると考えています。
ところが現代においては「居合」とは「立合い」に対する言葉として語られることがあり 立合いを稽古の根幹に置く剣術(剣道)に対して抜刀の瞬間に雌雄を決するという居ながらに合わせる居合とがそれぞれが独立した武道であるかのような解説を耳にします。

江戸時代以後の平和な時代には刀は自らを守るための武器であると規定しています。刀に対する基本的な思想です。
そこで考えるべきは身を守る武器である刀は通常は鞘の中に在ります。身を守る事態が生じたときに刀は鞘を離れますが身を守る必要が生ずる時、それは特殊な状況を除け大抵は突発的で刹那的であろうかと考えます。そうであるならば刀を使う初動としては現在私達が「居合」の道場にて稽古しているような防御を伴った咄嗟の抜刀である場合がほとんどではないかと想像するのです。

鞘から刀を抜かなければ立合いは始まりませんから鞘から刀を抜きだすことはどのような剣術の流派にも必須です。ということは抜刀はあらゆる剣法の端緒に他ならないのであって剣術という武道の中に包括されるものではないでしょうか。
私は現状の「居合」という言葉で剣術の抜刀の方法や型のみを各流派を横断的に捉えて一つの独立した武道を形成するという考え方に大変に違和感を覚えます。
刀身から素早く鞘を外す動きが居合という言葉で表わされるのであってそれは刀を扱う技術の一部分に過ぎず居合が独立して武道を形成するなどとは思えません。

ところが剣道と居合道を分割して認識しようとするのが以外にも今の全日本剣道連盟であると感じます。
嘗て心ある剣道家が従来の竹刀剣道に日本刀の抜刀の方法を取り入れて刀を扱う技術を基本とする剣術の集大成を目指したであろうにもかかわらずです。全剣連は竹刀剣道に傾倒するあまり原点である日本刀の存在を「竹刀は刀である」などと詭弁を弄して軽視する文化を醸成しています。

嘗て剣道連盟主催の居合道地区講習会において私共の担当のO先生が連盟居合の6本目7本目10本目などの指導の際に
「どこまでが居合でしょうね」とポツリと話されていたことを覚えています。その居合道委員は居合を独立した武道と捉えるならば剣術という武道との境目をどう規定するのかという問題を意識してのことと承りました。

その後O先生が如何なる結論を得られたかは存じませんが、
全剣連には現在の硬直した権威主義的な組織に陥らない刀と
身体の一体感を模索する本来の剣術という
日本刀を原点とする剣道を模索して欲しいですね。
ネットで見つけた怪文書


 
居合とは刀から鞘を外すだけの動作であって武道と言うにはいささか面はゆくないいですか
 また現代の竹刀剣道を武道と認める武術家も殆ど居ません さてそれらが武道と認められるには? 



   視点を変えて居合を一つのパフォーマンスと捉えるならば刀を扱うその洗練された様式美を追求
する動きは「茶の湯の手前」に似た緊張感を伴う心の在り方であり価値観であるように思う 
但し瞬時の危機に応じて身を守り敵を制圧する武道とは一線を画するか

村岡、北口の打ち太刀の演武

村岡、北口の打ち太刀演武写真