以下は何年か前にインターネット上で見つけた怪文書です

核心をついていそうな部分もあるのですが、剣道が武道であると思い込んでいる剣道家の説でしょうか?  
剣道の連盟は一つだけに限られていますが 外から見ると剣道の段位にも全く同じことが言えますよね



居合道の闇
「何も判らず居合道を志す人に」

                              
1.段位の意味について     
  剣道連盟は居合道の実力に対する評価のようにいいますが居合道の実力とは是何ぞや。
  段位を明かさず演武したら初心者と大して変わらない高段者もいます。こういう人に限って人に教えたがります。
  道を極めるため時間をやり繰りし正直に修行している方々には時間を無駄にされ迷惑な存在です。

  居合を拝見する時は段位の高低は考慮に入れず率直な気持ちで鑑賞しましょう。
  そのような人が居合修行についてもっともらしく語るときはほとんど人からのパクリ、借り物の意見です。
  世間一般の人は高段者をりっぱな人のように考えますがそれは明治時代より培ってきた先人たちの権威の貯金です。
  江戸の昔から武道の世界では義理免許、身内免許、はたまた金免許の類があったのですから、本来の実用性を持たなく
  なった居合では当然然るべきです。
技を極めるのが修行であって段位を購なうのが修行ではありません。
 
2、宗家について      
  無双直伝英信流という流派では同じ流儀にも係わらず宗家と称する人がたくさんいます。
  もともと土佐藩の流儀ですが宗家など存在しません。土佐藩の藩政上芸家制度というのが有り藩主山内家より君命を
  受けた家系が流儀の伝承を行っていたのです。廃藩置県後、芸家は存在せず流祖から数えて何代目何世というのが
  正しい表現です。
たとえば二十一世と名乗るひとがいますがそれはそれで正しいのです。
  無双直伝英信流から近年分派し別流儀を立てた方が宗家と名乗るのは別段問題は無いのですが果たしてそのような流儀
  が本当に居合の真髄を伝えているのかどうか疑問に思います。


3、居合道関係の連盟について
  現在、全日本剣道連盟、全日本居合道連盟、大日本居合道連盟、全国居合道連盟、武徳会、その他独自の流派で構成する
  会派がありますが独自の会派を除いてだいたいが段位問題とか自称宗家問題で烏合集散した過去があります。

  入会するときは十分所属団体の性格を見極める必要があります。怪しげな所に入門したら最後その修行は無意味なものに
  なるかもしれません。


4、居合道の幻想について。

  戦後の出版物に「居合道○○」という本があります。神田の武道専門の古本屋で今も見かけます。曰く抜きつけから納刀
  までコンマ何秒、詳しく解説したいが悪用されるを恐れ技の断片写真のみで我慢あれと称しある有名流派の型の写真を掲載
  しています。ある程度解った人には抱腹絶倒ものですが
素人には限りない幻想をいだかせます。
  演武写真といい文章の内容といい初心者の域を出ない代物です。

  かなりの有名な流儀の高段者の出版物にも相当な嘘が見受けられますし浅学な説を吹聴する人がいます。
  一度それを信じてしまうとなかなか認識を改めるのに苦労します。ここでも段位とか肩書きに騙されてはいけません。
  高段者が優秀な古武道研究者であるとは一概に言えないのです。
出版物にはご注意あれ。

5、流儀について
  大きな連盟の中で認められている流儀の中でも怪しげなものもあるので注意しましょう。
  もともと見世物芸のいわゆる居合抜きであった流儀が武道として潜り込んでいたり、昭和に入ってから創作されもっともらしく
  流布されたものもあります。こういったものまで居合道と名乗って存在しているのです。

  居合は型を通して修練しますが、怪しげな流儀においてはその流儀特有の型に先人が血を流し完成させた根本原理や魂が無い
  ゆえに居合の奥義には到達し難たく山師のもっともらしさを継承するのみではないでしょうか。

6、剣居一体について
  剣道と居合道は車の両輪と唱える方がいらっしゃいますが立派な見識です。ただし大方の剣道家には無視されています。
  なぜでしょうか。
簡単なことです、あまりにも現在の居合道家がお粗末だからです。
  
剣道家として大成なり得なかった人に剣道の高段位は与え難いが居合ならばという図式が多いような気がします。
  
剣道範士かつ居合道範士という方でつい最近までは道を極めた方々がいましたが現在はどうやら居合の段位はおまけの段位とし
  て扱われているような気がします。

  見識ある剣道家が居合を嫌うのはまずその未完成さにあります。何事にも基本が大事ですが居合道において基本と言う概念が
  あまりにもいいかげんです。抜き付け、切り下ろし等の重要な所作においても 両足で踏ん張り体を固定し体制を固めてから
  所作を行うのが大方の居合道家ではないでしょうか。
  真剣を使う故に斬る事を念頭にしているのでしょうが居合道は試し斬りを行う試刀術ではありません。体全体の運動エネルギー
  を剣先に伝え抜き付け斬り下し、かつ次の動作のおこりをも連続させうる所作が重要だと考えます。
  
細い人差し指ほどの竹を切ったり、巻き藁を切ったりしていますがただ情けない限りです。試し斬りで満場の喝采を浴びたいなら
  むしろ敵対動作が無い試刀術を修行するのをお勧めします。
  居合と試刀術は混同され試刀術も居合と称していますが居合道と試刀術はまったく別のものです。

  居合ならぬ居付きの斬り下ししか出来ない居合道家が大した修行もせず高段位を得ただ日本刀を扱うだけで剣道家に対し剣の真髄を
  説くのはあまりにも不遜かつ軽率です。気剣体の一致においては数センチの刀の動作で人間の腕など簡単に斬り落とせるのです。
  
元来は居合道家が体得すべきことでしょうがそういう方にはめったにお目にかかれません。
  ただ格好だけの立ち回りしか表現できぬ居合道家に対し剣道家はもっと批判的であるべきです。


7、正座居合について
  正座というのが日本社会に定着したのは江戸中期頃とかのことで、かの千利休もあぐらをかいて茶をたてたとか。現在の正座居合は
  江戸中期頃完成したと考えられます。
正座の居合は鍛錬法であって居合を理解する方便なのですがそこのところが解っている高段者は
  あまりいません。

  根性だとか修練だの精神論に騙されてはいけません。すべからく居合道家とは科学者であり運動生理学者であるべきなのです。
  理合あっての精神論であるべきなのです。体に覚えさせよとよく言いますが、正しい動きを理解してという前提が必要です。

  所詮居合とはある域に達するまでは「首から上で抜くもの」この意味がお解りでしょうか。

  これは私が日頃考えていたことを文章化したものです。舌足らずな表現かつ浅学な意見で真面目な居合道家にはご迷惑をかけるかも
  しれませんが、古武道という曖昧な名に騙され実力の伴わぬ怪しげな高段者によって無駄な努力と時間そしてお金を費やす犠牲者を
  なるべく少なくするよう警告を発する意味も込め発表いたしました。

  誰しも居合道を修行するにあたり大道芸とか創作剣舞まがいに時間を費やしたく無いものです。居合道を志す方々にくれぐれもご注意
  申し上げます。また、どう贔屓目にみても実力の伴わぬ高段位を鼻にかけもっともらしいお説教をたれる居合道家に悩まされ苦々しく
  腹立たしい思いを抱いている剣道家の諸氏にも彼奴めらの未熟、無教養さを看破し黙らせましょう。
それこそ彼らが本当の修行に目覚める
  起爆剤だからです。居合道を真の武道として再生するにはいたし方ありません。
ご協力よろしくお願いします。