1 血に濡れた魂
しん――と恐ろしいまでの静寂がその場を支配していた。
誰一人……口を開くことはおろか、呼吸すらするのを憚れるかのような、そんな不気味な静けさ……。
その瞬間人々の胸を満たしていたものは、ただひとつ。
――恐怖。
それは、ただいいようもない、未知なる存在に対する心底震えるような恐怖の感情だけであった。
(こんな……ことが……!)
レトウ・ヴィスタの胸に悪寒が走る。
――何ということか……。
一体なぜ、こんなことになってしまったのか……?
殺しやがった……。
こいつ……本当に、ターナを……。
己がかつて、あんなに愛したはずの女を。
何の躊躇いもなく、いともあっさりと切り捨てやがった。
その、あまりの冷酷さに、レトウは戦慄を感じずにはいられなかった。
(……こいつは……誰なんだ……?)
レトウは、震える全身を必死に抑えながら、愕然とした面持ちで目の前の少年を見つめるばかりだった。
(俺の知ってるイサスはどこへいっちまったんだよ…!)
まるで……悪い夢を見ているようだった。
全てがあまりにも現実離れしている。
(夢なら覚めてくれ……!)
しかし、そんな一縷の望みも、目の前の少年の喉から漏れてくるその陰惨な笑い声が耳に入った瞬間に、空しく潰えた。
「……そんなに、死ぬのが怖いのか?」
イサスであって、ないものが言う。彼の視線が周囲を舐め回すように、一巡した。
彼の目線が通り過ぎていくのを感じると、周囲に佇んでいた者たちは皆すくみ上がった。
「愚かしい感情を持つ者どもだ……所詮人の体など、ただの肉塊にすぎぬ。いつかは朽ち果て、土に還るだけのものを……」
嘲笑うように冷酷な言葉が吐き出される。
人ではない者が紡ぎ出す言葉が……。
言いながら、イサスの剣が新たな血を求めるかのように、ゆっくりとその矛先を周囲に動かし始める。
「次は、誰だ……?」
舐めるように、妖しく光るその黒い双眸が周囲を一瞥する。
その視線を避けるように、至近距離にいた兵士が、蒼白な面持ちでじりっと一歩後ろに足を動かした。
「……貴様か……?」
イサスの剣が標的へ向けて狙いを定める。
「や、やめろ……!」
突然、レトウが二人の間に割って入った。
「……もう、やめろ。これ以上、人を殺して何になる?――おまえの望みは……一体何なんだ?」
「望み……?」
イサスは馬鹿にしたように、顎を上げた。
「……望みだと……?」
その言葉を繰り返しながら、彼はくつくつと肩を揺らして笑い出した。
笑いは、たちまち獣の咆哮のような響きを帯び始め、周囲の空気を不気味に振動させた。
「……最初から言っているはずだが。――俺の望みは、ここにいるおまえたち全員を殺し尽くすことだけだと……!」
「――そうして、また無意味な殺戮を繰り返すのか……『無』(ヌール)……」
その言葉が聞こえた瞬間、ぴくりとイサスの体が反応した。
彼の顔から、突然笑みが消えた。
「……我が名を呼んだのは、誰か……!」
暗い瞳が、声の主を求めて、再びじろりと周囲を睨めまわす。
「――『カル・ヌール』……かつて、『無』と呼ばれし者。それがおまえの真の名だな?古の、禁忌を犯した魔導士。一度は闇の深淵に堕ちたはずのおまえが、なぜ今ここにいる?」
恐怖に硬直した人々の間から、悠然と現れたのは、長身のすらりとした青年の姿。
日の光を反射させて微細にきらめく銀灰色の髪が目に眩い。
その端正な面から覗く、すべてを見透かすような深い碧の瞳がやや人間離れした印象を醸し出す。
佇むエルダー・ヴァーンの表情は、非常に無機質で、一片の感情も感じ取れなかった。
ただその冷えた眼差しだけが、背後から揺るぎもせず、じっと鋭く少年を見つめていた。
イサスは振り返ると彼の姿を見て、一瞬軽く瞼を閉じた。
「……エルドレッド・ヴァーンか」
記憶の中をまさぐると、簡単にその名が口からこぼれた。
再び開かれた瞳が、氷のように冷たくエルダーを射た。
「……おまえからは、嫌な匂いがする。――遠き古の日々に、我が前に姿を晒していた、あの腐れた術を操る徒と同じ匂いだ……」
静かな口調の中にも、激しい憎しみが感じ取れる。
エルダーは、瞬きもせず、その視線を受け止めた。
「……これ以上、おまえを放っておくわけにはいかない」
彼は静かに言った。
「おまえに、俺が止められるのか」
嘲るように応えるイサスの唇が僅かに歪む。
「笑わせるな。『塔』の魔導士ごときに、この俺がそうやすやすと屈するとでも思っているのか?」
言うなり、彼は剣先をエルダーの胸に向けた。
その瞳が暗く燃え立ったかに見えた。
と同時に、耳障りな鈍い振動が空気を揺るがし、刀身から青い焔が噴き上がる。
剣が凄まじい速さで弧を描き、エルダー・ヴァーンの体を引き裂こうとした。
しかし、エルダーの体はひらりと敏捷に動き、危ういところでその凶刃から身を交わした。
獲物を逃した刃が空を切ると、イサスは舌打ちした。
それでも攻撃の手は緩めない。
息つく暇もないほどの間隔で、標的をめがけ、剣はただひたすらに激しい動きを展開する。
それはまさしく、黒い狼の首領として、或いはザーレン・ルードやリース・クレインの教えを受け、これまで培われてきたイサス・ライヴァーの持つ技量の凄さを物語るものであった。
エルダー・ヴァーンは、顔色ひとつ変えずに、優雅ともいえる動きでその剣の下から身を交わしていたが、遂にそのうちのある一閃が彼の胸元を軽く掠めた。
瞬時に、粉が舞い散るように血が飛散した。
イサスは、突然剣を止めた。
エルダーは眉を僅かにしかめながら、動きを止めたイサスの前に身を置いた。
上着の胸が見事に横一文字に切り裂かれ、その間から覗く白い素肌が、既に噴き出す鮮血で真っ赤に滲んでいるのが痛々しい。
イサスの目がふと細められた。
「……この匂い……」
彼の鼻孔が微かに動いた。
「……覚えがある。確かに……いつか、どこかで……俺は、これと同じ匂いを持つ者を知っている……」
視線が、遠く彼方を彷徨った。
何か、遠い過去を偲ぶかのように――不思議な、読み取れない表情がその面に浮かぶ。
「……エル・ヴァルド……思い出した。……アル・トゥラーシュ・エル・ヴァルドという……確かそのような名の錬金術師がいたな……そうだ……この血の匂い……――おまえからは、奴と同じ血の匂いがする……!」
エルダーは何も答えなかった。
ただ、黙ってイサスの前に佇んでいる。
胸を真っ赤に染めながら、それでも表情ひとつ変えず――彼の碧い瞳がイサスをじっと見返しているその光景は、まるでこの世のものとも思えぬほど、妙に現実離れした雰囲気を感じさせるものだった。
「……アル・トゥラーシュの末裔(すえ)か……」
イサスは吐き出すように言うと、激しい憎悪の瞳で相手を睨みつけた。
その物凄い眼差しにも全く動じる様子も見せず、
「……イサス・ライヴァーを解放しろ、ヌール」
エルダーは、ただ一言そう言った。
明らかに相手に対して強要を促す、強い口調だった。
「それは無理だな。――私はこいつを放さない」
『無』(ヌール)が、イサスの口を借りて、答える。
言葉の調子が一瞬、微妙な変化を見せた。
人でない異物が話す言葉。
……それでも、相変わらず相手を嘲笑うような、耳に障るその響きは変わらない。
「できるものなら、力ずくでやってみるがいい」
エルダーは、小さく息を吐き、目を閉じた。
「そうか……ならば、そうさせてもらう」
彼の右手が静かに上がった。
その手の周囲から見る見る白く冷たい焔が噴き上がる。
それを見るなり、イサスの瞳が鋭い光を閃かせた。
彼の持つ剣が青の焔を強めた。
いや、剣だけではない。
彼の体全身が、微かに青い燐光を発し始めている。
と、見る間に激しく焔が噴き上がり、イサスの剣が焔と共に、エルダー・ヴァーンめがけて一気に走った。
エルダーの掌から迸る白い焔がそれを受け止め、剣の動きは強固な焔の壁に阻まれて、止むなく動きを止めた。
「……こざかしい……!」
イサスの口から、忌々しげな呟きが漏れた。
しかし、彼はそれ以上剣を一寸たりとも相手の胸元に突き動かすことができなかった。
明らかに、エルダー・ヴァーンの焔の力が闇の力を上回っていたのだ。
イサスの額からじわじわと汗が滲む。
(……器が、まだ足りぬか……)
『ヌール』と呼ばれたその魔物のひそかに呟く声が、イサスの脳内に響いた。
(……この肉体には、力に見あうだけの地盤が未だできておらぬか。止むを得ぬな。……まあ、だからこそ、この中へ入り込めたのだが)
その目が激しい火花を散らして目の前の青年をますます強く睨み据えた。
「……おのれ、エルダー・ヴァーン……!」
それは、ヌールの呪詛に満ちた叫びだった。
(……私は決してこやつを放さぬぞ。決して……!)
目がかっと大きく見開かれると、青の焔がさらに高く舞い上がり、空を焼いた。
勢いをつけて、真っ直ぐにエルダーの白焔に向かっていく。
対するエルダーの額から、うっすらと汗の滴が伝い落ちていく。
白焔が唸りを上げたかに見えた。
ふたつの焔が火炎を上げて、凄まじい勢いで激突した。
その瞬間、地を揺るがすような轟音がとどろき、眩いばかりの光が周囲一帯を覆った。
人々はそのあまりの激しい光景に、恐れをなし、皆いっせいに地にひれ伏した。
……光は、潮が引くように、一瞬後には消え去っていた。
そして――
次に人々が顔を上げたとき、そこにはただひとり、銀髪の若き魔導士が、片手を庇うように押さえながら、立ち尽くしていた。
その押さえる掌からさかんに噴き上がり、白くたなびく硝煙が、つい今しがた行われた闘いの凄まじさを、いかんなく物語っていた。
エルダー・ヴァーンの表情を見ると、それはさらに明らかだった。
彼の口元からは未だ荒い呼吸がひっきりなしに漏れている。
その端正な顔は、襲いくる激痛に耐えきえれぬかのように、時折激しく苦悶に歪む。
震え、硝煙を噴き出すその掌は、赤く焼け爛れていた。
胸をべったりと染める血の色とあいまって、それは実に凄惨な姿に見えた。
そして……
その足元から少し距離を置いた先の地面に、イサス・ライヴァーの肉体がぐったりと横たわっていた。
「……あ、あんた、大丈夫かよ……!」
ようやく口をきけるようになったレトウが、ぎこちなく声をかけた。
「――来るな!」
近づこうとしたレトウを、エルダーの厳しい声が強く遮った。
その声の強さに驚いて、レトウは自ずと足を止めた。
いったい何で……と問い返すより先に、相手が口を切った。
「……まだ、体の周りに瘴気が纏わりついている。普通の人間は、近づかない方がいい。……そいつにも、だ」
エルダーはそう言うと、目で数歩先の地面に倒れているイサスの方を指した。
レトウはごくりと唾を飲み込み、思わず後退った。
「しかし、どうしたものかな。我々は、そいつを連れて帰らねばならぬのだが」
そのとき、彼の後ろから太い声がして、モルディ・ルハトの巨躯が姿を見せた。
モルディの顔色は心なしか生彩がなかったが、それでも何とか声に威厳をもたせようと努力している様子が窺えた。
「……そなたが、連れ帰ってくれるというのならば、任せてもよいが」
エルダーはそれを見て、眉を上げた。
「……それは、できぬ」
その素っ気ない答えにモルディは忽ち気色ばんだ。
「……なっ、なにっ……?」
モルディは声を上げた。
「……これはユアン・コークさまの命なのだぞ!」
「私はユアン・コークに仕えているわけではない。おまえたちの指図は受けぬ」
エルダーは悠然と言いのけた。
「それとも、身の危険を冒して、そいつを連れて行くか。……恐らく、今ならそいつに触れただけで、あの世行きになる可能性もあるがな。試してみるだけの勇気のある奴がいるか。……なんなら、隊長殿が自らなされてはいかがか」
嘲笑うように、言う。
その言葉に怒りを漲らせながらも、敢えて何とも言い返すことができない。
モルディは唸った。
「取り敢えず、ユアン・コーク殿には、私からあとで事情を申し上げておく。おまえたちは、いったんここから退くがよい。町の者たちが脅えるばかりだ」
エルダーの言葉は有無を言わせぬ響きを帯びていた。
(……こんな魔導士ごときに……!)
忌々しく思いながらも、モルディ・ルハトは言いたい言葉をぐっとこらえて、表向きは平静を装った。
顎を上げて、肩をそびやかす。
「……ふん、まあよい。そなたがそうまで言うのなら、責任はすべてそなたと、そなたの主人とやらにとってもらおう。我々は、戻って、起こった事柄を申し述べておく」
モルディはそう言うと、振り返り、残った部下たちに短く指示を下した。
放心したティランは、しかし、その指示も耳に入らなかったように、その場に残ったままだった。
モルディはちらりとそれを見やったが、馬鹿にしたように鼻を鳴らしただけで、敢えて何も言わず、他の部下たちを引き連れて、そのまま立ち去った。
騎兵たちが立ち去ると、たちまち人々が動き出した。
その人々の動きを背に、エルダー・ヴァーンはそっと倒れ伏したままの少年の元に近づいた。
その動かぬ体を抱え起こす。
「……う……」
体がぴくんと動き、色のない唇から微かな息が漏れた。
瞼が、ゆっくりと持ち上げられる。
イサスは、霞む視界の中に、銀髪の魔導士の姿をぼんやりと認めた。
――また、こいつか。
――しかし、何で、こいつがここに……?
記憶が曖昧模糊としていて、自分の今置かれている状況がはっきりしない。
「……エル……ダー……ヴァー……ン……?」
その瞳の色を覗いて、エルダー・ヴァーンはほっと息を吐いた。
――どうやら、本物のイサス・ライヴァーらしい。
「……俺……何を……して……たんだ……」
イサスは呟きながら、そっと首を回して周りを見渡そうとした。
その彼の頭をエルダーが、軽く押さえた。
「――駄目だ!……見るな」
激しい語調に、思わずイサスの瞳が訝しむようにエルダーを見上げる。
エルダーは、一瞬躊躇った。
「……今は……見ない方がいい……」
彼は、ただそう言うと、そっと目を伏せた。
その背後で、人々の嗚咽に咽ぶ声が聞こえる。
「……ターナ……!ターナ、あんた……なんで、こんなことに……!」
あれは――
テリー・ヴァレルの声だ。
――ター……ナ……?
イサスの耳が、その名に鋭く反応した。
――ターナが……どう……したんだ……?
その途端、急に息ができないくらい、冷たい感覚が胸をいっぱいに満たした。
ぞくっと凍りつくような思いが、震える心を鷲づかみにする。
頭が割れるように痛んだ。
イサスはわけもわからず、ただ漠然と胸に広がる恐怖に慄いた。
――ター……ナ……?
ただ、恐ろしかった。
なぜだろう。
胸が締めつけられるような、この感覚……。
――何を……した……?
悪寒がする。
体の震えが止まらない。
答えを知りたくない……そんな気がした。
(――俺は……彼女に……何を……したんだ……?)
その瞬間、真っ赤な血の色が目の前を覆い込んでいくような気がして、彼は再び意識を失った。
エルダーは、そんな彼の体を静かに抱え上げた。
「……おっ、おい、待てよ!あんた、イサスをどうするつもりだ……?」
その様子を見て、レトウが慌てて呼びかけた。
「……このままでは、どうしようもない。彼の中にあの魔物が巣食っている限り……いつまた、先程のようなことになるかわからない。とにかく、彼は然るべき場所に私が連れて行く――」
「ちょ、ちょっと待て。そ、そんな……!」
レトウが困惑したように言いかけたとき、
「……イサス!――逃がさねえぞ!」
ティランが凄まじい形相で剣を振り上げ、突っ込んできた。
すかさず、振り返ったエルダーの瞳がそれへ鋭い一閃を向けた。
その瞬間、見えない固い壁がティランを弾き返した。
彼はなすすべもなく、レトウのすぐ傍の地面に叩きつけられた。
ティランが再び身を起こしたときには、エルダーの姿は遠くなっていた。
「……ち、畜生めっ……!」
わめきながら、なおもその背に向けて剣を振りかざそうとするティランを、レトウが止めた。
「よせ、ティラン!」
(……そんなことをしても、仕方ねえ……!)
ターナは……もう、戻ってはこねえんだ……!
それに……
「イサスじゃねえ……」
ターナを殺ったのは、あいつじゃねえんだ。
あいつの体を乗っ取った、あの――あの……この世のものならぬ、悪魔のような生き物――!
レトウはぞくりと身を震わせた。
いったい、あいつはどこから……どうやって、やってきやがったんだ……。
何だって、あんな恐ろしい奴を呼び寄せることになってしまったのか。
イサスに何が起こったのか……。
レトウの頭は未だ先程までの恐怖と混乱から立ち直れないでいた。
見渡せば、あちらこちらに、まだ悪魔の所業の爪跡が生々しく残されている。
血と硝煙の匂い。
そこかしこに転がる数々の凄惨な遺骸。
レトウは込み上がる吐き気を必死に抑えた。
目の前を去り行くエルダー・ヴァーンの姿が白い霧の中に霞んで消えていく。
(何が起こっている……?)
人知を越えた存在が――その未知なる力が、レトウを心の底から震撼させた。
ふと、横でティランが激しく息を吐いた。
「……イサスだ」
どうにも手出しができぬまま、ただ消えていく彼らの姿を、瞬きもせず睨みつけながら、ティランは吐き捨てるように呟いた。
「……イサスが、やったんだよ。あいつが、自分の手でターナを殺したんだ。それだけは、間違いねえ……!」
ティランの瞳に暗い怒りの焔が渦巻くのを、レトウは何ともいえない気持ちで、ただ黙って見つめていた。
(...To
be continued)
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