2 魔性の囁き






「……ザーレンさま」
 鈴を振るような涼やかな声に、ザーレン・ルードはふと足を止め、振り返った。
 声のしてきた方向――渡り廊下の向こう側に見えたのは、薄いモスリン地の紫色のドレスに全身を包んだほっそりとした美しい女性の姿。
「……これは、義姉上……」
 ザーレンは軽く会釈した。
 その間に、女はゆっくりと彼に近づいてきた。
 俯く彼の耳に軽い衣擦れの音が聞こえた。
 次に目を上げると、すぐ目の先からその愛らしい顔が覗き込むようにこちらを見つめていた。
「……今からお茶を頂くのですが、少しお寄りになりませんこと?」
 囁くように耳元を掠める声が妙に艶めかしく響く。
 ザーレンは冷やかに見返した。
「――申し訳ありませんが、これから所用がありますので……」
 女は肩をすくめた。
「そう言われると思いましたわ。最近はすっかりご無沙汰ですものね。……何かわたくしを避けてでもいらっしゃるかのような――」
 ザーレンは笑った。
「そのようなことは……」
 他意を感じさせない、ごく自然な笑みだった。
 どこまでも抜かりない……と、女は一瞬相手に矢のような視線を投げた。
「そう……ではお待ちしておりますわ。――今宵でも……」
 さりげなくかけられた言葉の中には、紛れもない強制の匂いが嗅ぎ取れた。
 ザーレンは軽く眉を上げた。
 彼が何か言おうとする前に、彼女は笑って手を上げた。
「……お気が向かれたらで結構ですわ。お気になさらないで」
 軽やかな笑い声を上げながら、美しい瞳が秘密めいた色を浮かべて彼を見た。
「――子飼の狼に手を咬まれたというのは本当でしたのね……」
 その瞬間、ザーレンの顔の色が僅かに変化するのを彼女は楽しげに眺めた。
「……ユアンさまが申されておりましてよ。――迫真の演技でしたわね。何も知らない者が見れば、簡単に騙されてしまうくらい。……にしても、あの冷酷さ……いかにもあなたらしい……」
 彼女が先日の大葬の儀式での一件を指して言っているのは明らかであった。
 彼女はそれだけ言うと、くるりと背を向けた。
「……では、また後ほど……」
 ドレスの裳裾が軽やかに揺れた。
 彼女が悠然と去っていくその後ろ姿を、ザーレン・ルードは身じろぎもせず、見送っていた。
 
(……あの女……!)
 城館の中の自室に入ったとき、彼は思わず嘆息した。
 サヴィーナ・ドリス……燃えるような、緋色の髪に褐色の肌。
 時に獣のような狡猾さと鋭さを放つ深緑の瞳。
 この辺りでは見かけぬような特殊な風貌。
 確か、草原の民(チェロム)の血を引くといっていた。

 だが美しい……ぞくりとするほど、冷酷な瞳をする。凍りつくような美貌……。
 これほどあの温厚なランス・ファロンと釣り合わぬものもないように思われたが、なぜか兄にしては珍しくこの女への執心を見せた。
 その結果、周囲の反対を押し切り、サヴィーナ・ドリスは見事にランス・ファロンの妃の座を射止めたのだった。
 今となっては、最初から彼女が野心を抱いてランス・ファロンに近づいたのは明白だった。
 ザーレンはこの冷たい瞳の女に最初から漠然とした警戒心を抱いていた。ゆえに、わざと距離を置くように心がけて接していた。
 それが向こうにはよくわかったのだろう。
 彼の素っ気ない態度が、逆に彼女の関心を引いたのかもしれない。
 彼女はザーレンに近づいた。
 露骨な態度をとるわけではなかった。
 義姉としての親しみを込めた微笑を浮かべながら声をかけ、さりげなく体を寄せる。
 何を危ぶまれる必要もないような、ごく自然な接触に見えた。

 しかし、サヴィーナは狡猾だった。
 体を寄せるたび、彼女の全身からは必ず男を誘うような、何かしら艶めいた信号が発せられているかのようだった。
 何も言われずとも、彼女の体を間近に感じた瞬間に、その意図ははっきりと伝わってきた。

 ザーレンの警戒心は強まった。
(……この女……)
 危険な女だ、と彼は思った。……この女に近づいてはならない。
 しかし、同時にその美しい魅惑的な肉体が彼の雄としての若い本能をそそり立てずにはおれないのもまた事実だった。
 なぜなのか。
 いつも冷静な彼が、サヴィーナの瞳に射られた瞬間、どことなく落ち着きを失うようになっていた。
 まるで、その瞳に魔性の気が宿っているとしか思えぬくらい……。

(馬鹿げている……)
 ザーレンは自嘲した。
 ――女ならどこにでもいる。何もこの女でなくてもよいはずではないか。
 兄の妻であり、しかもこのような得体の知れぬ女を……。

 なぜだろう。なぜ、この女がこんなにも心から離れない……?
 混乱しながらも、いつしか女の仕掛ける甘い誘惑の罠に陥っていく自分を止めることができなくなっていた。
 ――ザーレン様……わたくしを抱いて……
 ある夜、彼女は彼にそっと囁いた。
 ――わたくしをお抱きになりたいと思っておられるのでしょう。
(あなたになら、抱かれてもいい……)
 兄は州内の長期の巡察に出かけており、留守だった。
 婚姻からまだ三カ月も経たぬうちに、彼は兄の花嫁を抱いた。
 それからは定期的に密会は続いた。
 彼から誘うことはなかった。いつも手を伸ばしてくるのは女の方からだった。
 自分が決して女に溺れているわけではないと思ったが、サヴィーナの誘いをはねつける意思もなかった。
 そのように、ひそかに……義姉と義弟は体を重ねた。

 兄への罪悪感を感じながらも女との関係を断ち切れない、そんな自分に嫌悪を抱きながら、彼はサヴィーナを抱き続けた。
 ……サヴィーナが懐妊したと聞いたとき、彼は思わず言葉を失った。
(……あなたの子ではないわ。安心なさいな)
 サヴィーナは悪びれた様子もなく、あっさりとそう言ってのけた。
 無論その言葉を素直に受け取れるほど、ザーレンは単純ではなかったが、かといって真偽を確かめるすべもなく、そうかと頷くほかはなかった。
 ――もし、自分の子なら……
 そう思うとさすがにザーレンは、たじろいだ。
 しかし、また彼の胸の内には、怪しげな思考も首をもたげ始めていた。
 もし……それが男子なら――
 表向きは自分の子がこの領地の継承権を持つことになる。
 その考えは、彼にさまざまな可能性を想像させた。
 ぞくぞくと波立つような野心が彼の心をくすぐる……。

(いや、いけない)
 彼は沸き立つ思いを抑え、敢えて自制しようとした。
 何か……危険な罠の匂いがする。
 直感だった。

 そして、女の瞳を覗いた瞬間、それは確信に変わった。
 サヴィーナは、笑っていた。
 その嘲笑を目にしたとき、ザーレンの胸にいきなり、言いようのない憤りの感情がよぎった。

 女の邪悪な意図が、真っ直ぐに伝わってきたように感じた。
(全て自分の思う通りに事が運んだというわけだ……)
 もはや彼女のお腹の中にいる子が自分の子か兄の子かなどということはどちらでもよくなった。
 彼にはその瞬間、はっきりと彼女の考えが読み取れたような気がした。
 その瞳に宿る酷薄な冷たさを湛えた光。何もかも捨て去ったような、生気を感じさせぬ淡々とした表情。
 しかし、その双眸の奥に微かに垣間見えるもの……それに、彼は突然気付いた。
 狂おしいまでの欲望にたぎる焔の影……

 それは、『滅び』だ。
 破滅への暗示。
 あらゆるものを滅ぼすことへの猛るような欲望。

 この女の望み……それは、ひょっとしたら、このアルゴン州自体を滅ぼすことなのかもしれない。
 ――魔女め……!
(……おまえは何者だ……)
 彼の瞳が鋭く女を射るようになった。
 ザーレンはサヴィーナに対する人としての感情を一切捨てようと固く決意した。

 ――この女は人ではないのだ。
(いや、元々俺はこの女を愛してなどいなかった……)
 ――愛……などではない。動物的な欲情で彼女を抱いただけだ。ただ、それだけだったのではないか。
 彼はそう思い直した。
 すると、気分がふっと軽くなったような気がした。

 彼は、請われれば拒まず女を抱き続けた。
 彼女をただの愛玩物として機械的に自分の欲求を満足させるためだけに。
 ……彼は一切女の前で自分の感情を出さなくなった。

 彼の微妙な変化が感じ取れたのだろう。
 サヴィーナはそんな彼に苛立つ瞳を向けるようになった。
 しかし、敢えて彼女は何も言わなかった。
 ただ、彼を見る眼差しがきつくなった。
 淡々とした瞳の中に、微かに怒りとも憎悪ともとれる焔の片鱗のようなものが窺い見えるときがあった。

 アルゴン侯の具合が悪くなってからは、ザーレンはサヴィーナと触れ合うことを絶つようになった。
 その頃……彼の頭の中を占めることが目に見えて増えたせいもあった。女を求める気持ちが起こるだけの余裕もなかった。
 父の葬儀の中でさえ、あのごたごたがあったこともあり、彼女とは目を合わせることすらなかった。
 そんな中で、先程ようやく……久し振りに彼女と言葉を交わしたのだった。
 あからさまな誘いの言葉。
 彼は女の誘いに乗るつもりは全くなかったが、彼女の口からユアン・コークの名が出たことが妙に気にかかった。
 そして……彼は苦々しく顔を歪めた。
(……イサス……か……)
 ここのところ、敢えて考えないようにしてきたことだった。
 己の手で断ち切った絆。
 少年の黒く燃えるあの瞳が目の前をちらつく。
 後悔はしていない。

 ただ、それをまさかサヴィーナ・ドリスの口から出されるとは……。
 彼女が彼と黒い狼の繋がりを知っているはずはない。
 にも関わらず、あの口振りではまるで自分には何もかもお見通しだと言わんばかりだった。
 それがどうしようもないほど、彼の心を波立たせた。

 ――ユアン・コーク……?
 彼は眉をしかめた。
 ユアンが彼女に話したのか。
 ユアンと彼女が接触しているということか。
 それも、そんなことを話すくらい、親密に……。
 ――嫌な予感がした。
 どうしても確かめなければならない。
 ザーレンはそう思うと、眼差しを強めた。
 
「……あれでよろしかったのかしら?」
 サヴィーナは男の肌にしなだれかかりながら、囁いた。
 閉め切られた部屋の中は薄暗く、互いの顔すら定かに見えぬくらいであったが、全裸の二人は気にする様子も見せず、ぴたりと体を寄せ合っていた。
「……上出来です。サヴィーナさま」
 ユアン・コークはそう答えると、優しく女の首筋に唇を落とした。
 サヴィーナは喘ぎ声を洩らすとユアンの背に回した指の先に力を入れた。
「……本当におやりになるおつもり?ユアン・コーク……」
 サヴィーナは彼の耳元でそっと問いかけた。
 薄闇の中で、瞳がぬめるような輝きを放つ。
「……未練がおありですか?」
 ユアンは唇を離すと、顔を上げ、射るような視線を女に向けた。
「……未練……それはどちらにですの?夫に……それとも……」
 サヴィーナは淡々と答える。
 そんな女の表情を見て、ユアンは視線を強めた。
「……無論、両方に、という意味です」
 途端にサヴィーナの口から高い哄笑が洩れた。
「心にもないことを……わかっているくせに!わたくしが一度でもあの哀れなお方のことを心からいとしんだことがあったなど……本気でお思いになって?」
 サヴィーナの瞳が闇の中でぎらぎらと危険なくらいの輝きを放っていた。
「……いいえ、未練など少しもありません。ご安心なさいまし。ザーレン・ルード……あのお方のこともですわ、無論……でなければ、あなたさまとこうしていませんことよ。そうではなくて?わたくしを何とお思いになっているの?男となら、誰とでも寝るただの肉欲に溺れた淫乱女とでも……?」
 そうではないのか、と切り返したい気持ちを抑えて、ユアンは息を吐くと、苦笑した。
「――これは、失言でした。失礼を……」
 彼はあっさりとそう返した。
 サヴィーナの目が細められた。
 その氷のような冷やかな深い緑の瞳が身じろぎもせず、目の前の男を凝視する。

「あなたこそ、未練のひとかけらでもおありにならないの?……ご自分の血の繋がったお方を、お二人もそのお手にかけようとなさっているのに……顔色ひとつお変えにならない。恐ろしい方ね……。聞きましたわよ。たとえ今は反目しあっている仲だとはいえ、ザーレンさまとは元は兄弟のように育ってきたと聞きますのに……。ご自分のいとしい弟君を何の躊躇いもなくその手におかけになろうというのですね。……本当に冷たいお方」
「いとしい弟……か。よくも言ったものだな」
 ユアンは笑った。冷えた笑みだった。
「そんな昔の話は忘れたな。それは向こうも同じだと思うが……」
(第一、そなたには関係のないことだ) 
 ユアンの目が僅かに吊り上がり、女をじろりと睨めつけた。
 女のいかにも芝居がかった語りが彼を苛立たせた。
 このサヴィーナ・ドリスという女が、今さら肉親の情を云々などというような人間ではないことはわかっているだけに、そういうことを敢えて言ってのける彼女の厚顔さを彼は心から忌々しく感じた。

「……怖い眼……」
 サヴィーナはひるむこともなくその視線を受け止めると、不敵な笑みを浮かべた。
「……いいですわよ。後悔なさらないのなら。わたくしは、ただ、確かめたかっただけですから」
 ユアンは何も言わず、ただサヴィーナの頬に触れた。指先から、ひんやりと冷たい感触が伝わった。
 ユアンの胸にぞくりと悪寒が走った。
(魔物だな、この女……)
 人ではない。
 人の体温が……当然感じるべき肌のぬくみがまるで感じられないではないか。

 こうして抱いていても、体が温まるどころか……逆に心が芯から凍りついていくようだ。
 しかし、そんな魔物だからこそ、今こうして共にいる意味がある。
 全て、自分が望んだことなのだ。

「あなたは、本当に自分のことしか考えられぬのだな……」
 ユアンは皮肉を込めた口調で言うと、目を閉じた。
「自分の望みのためなら、他がどうなろうと全く構ってはいない……自分の夫を殺すことも厭わぬ。ついこの間までこのように抱き合っていた愛人ですら、平気で罠にかける。――つくづく、恐ろしい女だ……」
 彼は蔑むように呟いた。
「……お互い様ですわ……氷の君……」
 サヴィーナは冷たい息を吐き出しながらそう囁き返すと、彼の体を引き寄せ、さらなる愛撫をねだった。

                                               (...To be continued)


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