7 閉ざされた光
(……どんな化け物なんだよ、こいつは……)
情けないくらいに、どうしようもなく膝ががくがくと震える。
(畜生……こんな……こんな、ことが……!)
レトウは呻いた。
目の前で次々に繰り広げられる殺戮劇。
その陰惨な光景に、彼は思わず嘔吐感すら覚えた。
人間……とは思えない。
このように、人が人を殺せるものか。
何の躊躇いもなく、ここまで無惨に……。
身内を沁み通る冷たい恐怖に彼の体は硬直し、その場から動けなくなっていた。
「イサ――」
不意に背後からティランの声が聞こえた。
レトウが振り返ると、ティランは夢遊病者のように、ふらふらと剣を持ったまま、イサスへ向かって進んでいこうとしていた。
「ティラン!……馬鹿、出ていくんじゃねえ!」
レトウは驚いて、叫んだ。
だが、ティランはその声も聞いていないかのように、ただ一心にイサスをめがけて進んでいく。
ティラン自身、自分の行動がよくわかっていなかった。
ただ、彼は無性にイサスを倒さねばならないという強い衝動に駆られていたのだった。
今……この化け物を相手なら、自分はやれるかもしれない。
人間であるイサスには、勝てなかった。
しかし――この化け物を相手になら……ひょっとしたら……。
何の根拠もない、理にかなわぬ馬鹿馬鹿しい考えかもしれなかった。
しかし、ティラン・パウロにはその時、それが己を唯一救える機会であるかのように思えたのだった。
「何考えてんだ、おまえ……!」
制止しようとするレトウの腕を押しのけて、ティランはイサスに向かって突進していった。
イサスはティランを見て、剣先をそちらに向け直した。
ティランが剣を振り上げる。
常ならぬ彼の剣の動きに、後ろから見ていたレトウは思わず目を瞠った。
ティラン・パウロは、自分でも不思議なくらいに剣の動きが軽いと実感していた。
――いけるかも、しれない……!
彼の目が暗い輝きを帯びた。
(イサス……今日こそ、おまえを倒してやるぜ……!)
彼の心は異様に高揚していた。
(今まで、おまえにはどうしたって、勝てなかった俺だが……いや、ほんとは俺、そんなこたあ、とうにわかってたんだ。この俺が所詮おまえみてえになれるはずもねえ。――けど、せめて……せめて、何か一つでもいい。おまえに俺って存在を認めてもらえるような何かが……欲しかった。ずっと、そう思ってきたんだ。おまえを殺してやりたいくらい憎い……確かにそう思ってきたが、本当いうと、おまえを本気で殺したいなんて、思ったことはなかった。思えなかった。それが、忌々しかった……!)
ティランはそういった全てのことを、ようやく自覚し、自分の中に受け入れる気持ちになっていた。
彼は正直に認めた。
自分がイサスに対して抱いていた感情は、単なる恨みや憎しみだけではなかったのだということを。
自分の中に渦巻くどろどろとした醜い嫉妬心……
……その裏で彼をさらに苛んできたのは、そんな相手に対してどこか心の奥で魅かれずにはおれないもう一人の自分がいるという、許しがたい事実。
(だが、今……化け物になっちまった、今のおまえは、もうあの俺の知っているイサス・ライヴァーじゃねえ。
ただの化け物だ。
どっから出てきやがったのかはしれねえが……とにかくどっかの化け物がおまえの心も体も乗っ取りやがった。
もう、イサス……おまえは、どこにもいねえんだ!
……だから、今のおまえになら、俺は……やれる。何の躊躇いもなく、おまえをたたっきることができる……!)
激しい憤りが身内を駆け巡る。
それが、何に対するものであるのかすら、わからぬままに、ティランは夢中で剣を振り回した。
幾度も、二つの剣が激しい交叉を繰り返す。
その度に、青い火花が散った。
――魔の力の片鱗を示すかのような、妖しい光景。
(殺せ……!)
(おまえの邪魔をするものは、全て殺せ……!)
魔に憑かれた黒焔の瞳が、ティランを見据える。
そこには、一片の感情もない。
ただ、冷徹な殺戮の意志が覗くのみ。
そうして、何刻の時間が経過したことか。
奮闘するティランの剣も、間もなくイサスの疲れを知らぬ重厚な剣圧に耐え切れなくなった。
突然剣が弾け飛び、ティランはその衝撃で後ろに倒れ込んだ。
その頭上で、イサスの刃が鈍く光る。
(――殺られる……!)
ティランは思わず目を閉じた。
その瞬間――
「――兄さん……!」
ティランはその声にはっと目を開けた。
「やめて、イサ――!」
――ターナ?
彼の全身の血がさあっと引いていった。
「ターナ、来るな!」
ティランは恐慌に駆られて叫んだ。
イサスの剣の動きが一瞬止まった。
剣の先端が震え、微妙に矛先を変える。
彼の瞳の中に、自分に向かって一心不乱に駆けて来る少女の姿が映った。
(ターナ……?)
その声が……その姿が、彼の心の奥に押し込められていた何かを呼び覚まそうとしていた。
彼は逡巡した。
――俺はこの女を……殺さねばならない。
そうだ。
一度はそう思いながら、果たせなかった。
なぜか。
それは……いつの間にか無意識のうちに、彼女が彼にとって、なくてはならないものになってしまっていたから。
その思いを打ち消そうとしながらも、結局彼はそれを認めざるを得なかったのだ。
次第に記憶がはっきりしてきた。
彼女と交わしたくちづけ。
ふくいくとしたあの甘い香り。
柔らかな触感。
彼は悟ったのだった。
……やはり、自分にはできない、と。
――この女を……殺せない。
ターナ……
……彼の剣を持つ手が僅かに緩みかけた。
しかし、そんな彼の緩やかな思いを、今や彼の中で支配を強める強固な何ものかの力が、突如阻んだ。
――その女を殺せ!
抗いがたい、強い意志。
(いや……だ……!)
イサスは、激しく抵抗した。
――俺には、殺せない……!
しかし、そんな風にあがく彼を、それは決して許さなかった。
心を絡めとられ、さらにきつく捩じ上げられるような激しい痛みが彼の体を猛烈に苛んだ。
――その女を、殺せ……!
――おまえは、わたしに逆らえぬ……!
――おまえの身も心も、既にわたしのものになっている。
――おまえに、選択の余地はない……!
狂ったような冷えた笑いが頭の中をこだましていく。
その響きにさえ、イサスの心はどうしようもなくかき乱される。
――殺せ……!
その強い一言が、彼を金縛りにした。
イサスは、その意志に全身を捉えられた。
目覚めかけた意識が……再び強い力で抑えこまれる。
――殺せ……!
――俺は……この女を……
イサスの中の全てが、闇に包まれた。
――もはや、己自身の存在すら、定かではない。
ただ、彼を支配するのは、その生き物の意志……。
……悪魔の意志、のみ――
イサスはゆっくりと瞼を上げた。
その瞳に、彼のものではない何ものかの意志を映す、冷酷な光が閃いた。
――この女を……
「――殺す……!」
彼の喉から、唸るような一言が洩れ出た。
その瞬間、彼の瞳が魔の色を宿し、その手が走り寄る少女の体に向かって動いた。
ティランが目を剥いた。
「……や、やめろ――っ!」
ティランは必死にイサスへ向かって体を動かそうとした。
その彼の上でイサスの刃が軽く舞ったかと思うと、肩口を切られた彼は鈍い痛みと共に再び崩折れた。
「イサ……ッ!」
レトウが息を呑んだ。
彼の動きもイサスの次の行動を止めるには間に合わなかった。
ターナは目の前に立ちはだかる暗い瞳の少年の姿に、一瞬立ちすくんだ。
その瞳の中に宿る明らかな殺意。
人のものではない、魔性の輝き。
「イサ……」
彼女が口を開けると同時に、目の前を白刃が舞った。
鋭い刃が、彼女の肩から全身を斜めに切り裂いた。
ターナは突然の衝撃と痛みに悲鳴を上げながら、彼の足元へ倒れていった。
「ターナあああ――!」
背後からティランが気が触れたような叫びを上げた。
「ターナ――!」
輪の外から蒼白と化したテリーが駆け寄ろうとした。それを後ろから、サウロが強い力で引き止めた。
「何するのよ、父さん!放してよ」
「行くんじゃねえ!おまえも殺されてえのか?」
「だってあの子が……ターナが……!」
サウロの目がテリーを厳しく見据えた。
テリーは、自分を掴む父親の手も、微かに震えていることに気付いた。
「わからねえのか!……イサスは……今のあいつは、正気じゃねえ。誰にも止められねえんだ。今行けば、おまえも一刀で殺されちまうぞ!」
サウロの激しい勢いに呑まれて、テリーは止む無く足を止めた。
しかし、彼女の目は涙でいっぱいに潤んでいた。
そして娘を押し止めながらも、サウロ自身、やはり動揺は隠しきれなかった。
さすがの偉丈夫な彼も今やその顔はあまりの凄惨な光景を前にして、すっかり青ざめていた。
(……イサス……頼む。――頼む……正気に戻ってくれ……!)
彼はただ弱々しく、心の内で必死にそう呼びかけるしかなかった。
しかし、イサスは憑かれたように、倒れたターナにさらに剣を向けていた。
(この女に……止めを刺せ!)
さらにどこからか、声が囁く。
抗しきれないその妖しい囁き。
イサスは夢を見ているかのように、ただ言われるがままに屈み込むと、血だらけの少女を掴んで引き上げた。
少女の瞳がうっすらと開いて、彼を見つめた。
(……わたしを、殺すのね。やっぱり……)
目が合った瞬間、イサスの頭の中でこの少女との記憶が呼び覚まされたかのようだった。
彼は、目を瞠った。
――俺は……何を、した……?
彼はその瞬間、自分が何者で、今何をしているのか、全てがわからなくなった。
依然として、全てが混沌とした闇の中にある。
そして、彼はどうしても、そこから抜け出せない。
彼は呻いた。
なおもそこから這い上がろうと、虚しいあがきを試みる。
しかし、彼の心の闇の中から冷たい手がしっかりと彼を掴んで放さないのだった。
最後の抵抗もあえなく潰え……
一瞬の思いが、儚く消えた。
彼の瞳は完全なる暗黒の中に閉ざされた。
「……おまえを……殺す――!」
彼はただ一言、冷たく言い放った。
彼女は、弱々しく頷いた。
全てを悟ったような瞳が儚げに揺れる。
「……いいよ、殺して……あんたになら……殺されたって……」
(あんたになら、殺されたって……構わない……)
ターナは声にならない声でそっと呟いた。
彼に向かって言っているのか、それとも自分自身に向かっての言葉だったのか。
薄れゆく意識の片隅で、彼女はただ、呟き続けた。
(好きよ……イサス……)
(あんたが……好き……)
刃が、彼女の心臓を正確に貫いたとき、まだ彼女の唇はその言葉を形作っていた。
――好き……
瞳が完全に閉ざされ、ターナの意識は深く暗い闇に呑まれていった。
二度と戻ってはこれない、永遠の闇の深淵の中に……。
イサスは彼女の胸から剣を引き抜き、さらにその刃を突き入れようとする。
「……やめろ――っ!」
横からレトウが体ごと突っ込んできて、ターナの動かぬ体から彼を引き離した。
「わからねえのか?もう、死んでるんだ!……死んでるんだよお!何で、わかんねえんだ、おまえ……!」
レトウの目には、いつの間にか涙が溢れんばかりになっていた。
「……どうしちまったんだよ、イサ!おまえ、何で……何で、こんなこと……!何で……何でなんだよ――!答えろよ!ほんとのイサはどこにいっちまったんだよ。なあ、答えてくれよ、イサ……!」
彼は悔しさと悲しさと、憤りでいっぱいになって、イサスにすがりつきながら、虚しく叫び続けた。
しかし、イサスはそんなレトウに冷たい視線を注ぐと、剣で一気に振り放した。
レトウは僅かに切られた腕を押さえながら、横転すると、素早く身を起こした。
「――おまえ……!」
レトウは喉の奥から絞り出すように、叫んだ。
「……おまえ、やっぱり――イサスじゃねえな……!」
レトウは、目の前に立ちはだかる相手を、鋭く睨めつけた。
「畜生……誰だ。てめえ、誰なんだよ……!」
イサスは、ふっと笑った。
それは、彼らしからぬ――妙に老成した笑いだった。
「……俺は、イサス・ライヴァーだ。――『エランディル』の選びし者。『契約者』であり、やがてはこの世を統べるべき者。誰にも邪魔はさせない……邪魔をする者は全て俺の敵だ。だから、今ここにいるおまえたちは全て……殺す!」
邪気に満ちた笑いが、静かな空気を冷やかに震わせていった。
(...To
be continued)
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