4 巡りくる思い






(――イサ……)
 誰だろう。懐かしい呼び声がする。
 ずっと昔のことのような気もするが、実際にはそんなに前のことではない筈だ。
 歌うような、甘い響きのする、あの声。
 あれは――
(……ター……ナ……?……)
 突然、栗色の髪の愛らしい娘の顔が目の前に浮かんだ。
(……じゃあ、今夜でお別れだな)
 あの夜、彼はそう言った。
 淡々と、何の感情も込めず。
 ただ、一言……それだけ、言った。

 それで、全てが終わった、と思った。
 ――大したことじゃない。
 一人の女と別れることくらい、どうということもない。
 もともと、自分は一人で生きてきた。
 彼女とも、いつもくっついていなければならないような関係だったわけじゃない。

 時々、一緒の時間を共有し……時には肌を重ねて、ぬくもりを確かめ合った。
 彼の欲求を彼女は完璧に満たしてくれた。
 ……ただ、それだけ。
 いつしか二人は互いに互いの存在を自然なものとして受け入れていた。
 まるで、水と空気のように。
 ……それ以上でも、それ以下でもない。
 彼女がいなくなったとしても、大した変わりはないのだ。
 それに代わる存在はいつでも、手に入れることができるだろう。
 所詮彼女は……ただの『女』だ。
 たまたま、近くに都合良くいてくれた、それが彼女だったというだけのことだ。

 そう、彼は自分に言い聞かせていた。
 自分自身の中では既にそれは当然のこととして消化できているものと思っていた。

 しかし、実際には、彼の心の奥底に眠る本当の気持ちは、嘘をつけなかった。
 水と空気がなければ、生きていくことはできない。
 しかし、住む場所によって、水の味も、空気の匂いも、微妙に異なる。
 いつも自分にぴたりと合う場所を見つけられるわけではない。

 当たり前と思っていたものほど、失ってしまったときの喪失感も大きくなるものなのだということを、彼は思いもしなかった。
 あのとき、無意識のうちに、彼は目の前の娘を激しい、感情のこもった瞳で見つめ返してはいなかったか。
(……ターナ……)
 イサスの唇が微かに動き、その名が空気を震わせる。
「……ターナ……?」
 ゆっくりと目を開いた彼の前に、まるで夢の続きのように、儚げに揺らめく少女の像が映った。
 蝋燭の灯りの揺らめきが生み出す光と影の妖しい交差が、彼の視界を余計にぼんやりと滲ませる。
(……まさか……?)
 彼は信じられぬように、軽く頭を振った。
 ――そんな……彼女がここにいるはずは……?
 まだ……夢の中にいるのだろうか。
 イサスは再び目を閉じた。
「……イサ……!」
 しかし、その紛れもなく聞き覚えのある声が彼を現実に呼び戻した。
 ハッと彼は目を開き、今度こそ違えようもなく、目の前に立っている少女の姿を現実のものと認めた。
 思わず、彼は寝台に半身を起こした。
 体の鈍い痛みやだるさは相変わらずだが、今はそんなことは意識の内に入ってこない。

 それ以上に、彼の注意を奪っていたのは、目の前のこの少女……ターナ・ロッタの存在に他ならなかった。
 ターナは、寂しげな微笑を浮かべて、イサスを見下ろしていた。
 長い栗色の髪が、今日は編み込まれないまま、まっすぐに肩から背へ垂れ落ちている。
 光が反射して、まるで黄金のような艶やかなきらめきを見せる。

「……イサ、わたし……」
 彼女は、しかしその後の言葉を続けることができなかった。
 明らかな戸惑い、そして躊躇いの表情が見られた。

(……わたし……)
 ターナは、黙ってイサスを見つめる。
 イサスの刺すような視線が、痛い。
 彼は――彼もまた、言葉を失っていた。
(……なんで――!……)
 イサスは高ぶる胸を必死で抑えた。
 無性に込み上げてくる怒り……それは彼女に向けられたものなのか、それとも彼女を見て動揺を隠しきれない自身に対する苛立ちであったのか――。
 ――なんで、こいつがここにいる……?
 彼は、ただ目の前の少女を睨みつけるしかなかった。
 言葉は……やはり、出てこない。
 二人の間に、しばし氷のような沈黙の時間が流れた。
 どちらも、何も言わなかった。
 ただ、視線を合わせたまま、幾たびか無言の感情のぶつかり合いを繰り返す。

 とうとう――耐え切れなくなったターナが、最初に口を切った。
「イサ……お願い。やめてよ、こんなの……」
 ターナの声は微かに震えていた。
「……こんなの、だめ。わたし……やっぱり、間違ってた。あんたには、もう会わない方がいいってわかってたはずなのに……」
 自分でもよくわからないままに、言葉が先走った。
 ターナは言いながら、苦しげに視線をそらした。

(わたしを……殺す?)
 恐ろしくて、聞けないその一言が一瞬彼女の胸を駆け抜けた。
(あんたは、今――わたしを……殺そうと思ってる?)
「……おまえ――」
 イサスが、不意に言った。
 その冷たい鋼のような声にターナはどきりとして、視線を元に戻した。

「――そんなに……殺されたいのか。この俺に……」
 彼女の心の声を盗み聞いたかのような、その彼の言葉に、ターナは小さく息を呑んだ。
 しかし、それは同時に、彼女が予測していた通りの彼の反応でもあった。
 わかっていたはずではあっても、実際にその台詞を彼の口から直接聞いてみると……彼女の心は、やはり動揺せずにはいられなかった。
(……今度会うときには、ティランも、おまえも殺す……!)
 あのとき、彼ははっきりとそう言った。
 そして、今も彼の決意は変わってはいないのだ。
 ――やはり、会ってはいけなかった。
 彼女はそう思いながらも、イサスに会えたことで、どこか胸ときめかずにはおれない自分がいることをも否定できなかった。
 危険だとわかっていても、敢えてその危険を冒しても、それでもなお傍にいたい……そんな風に思えてしまうほど、どうしようもないくらい、魅かれてしまう。
 初めて彼と出会い……共に一夜を過ごした、あのときも、そうだった。
 彼の存在に恐れ、慄きながらも、彼女は結局彼の胸に自分から飛び込んでいったのだ。
 危険な罠の中に自ら陥っていく、小獣のように、何も考えず彼の体を無我夢中で抱き締めた、あの夜。

 不意に思い出すと、そのときの、言いようのない思いが再びどうしようもなく切ないほどに彼女の胸を締めつけた。
「……わたしを、殺したい?」
 大胆にも、彼女はそう問いかけた。
 そして、そう言った途端に、彼女の中で何かが弾けた。
 彼女の身内の中で、一気に熱い感情が迸り出たかのようだった。
 彼を見つめる目にも、自ずと熱がこもる。

(構うものか……!)
 彼女は思った。
 ――わたしはやっぱり、イサ――あんたが好きなの。どんなに危険でも、それでも傍にいたい。あんたから、離れられなくなってしまったんだもの。
「いいのよ。あんたになら――殺されたって、構わない」
 ターナは、そっと彼の体に手をかけた。
 イサスは……拒まなかった。
 彼は、黙って彼女の指が体に触れるのを許した。
 それが彼女には意外だった。
「……イサ……?」
 彼女が不思議そうに小首を傾げた瞬間、不意に彼の手が彼女の腕を掴んだ。
 あっ……と驚く間もなく、彼女は寝台の上へ倒れ込みながら、彼のすぐ胸元まで引き寄せられた。
 目の前間近に、イサスの顔が迫っていた。
 異様に燃え立つその黒い双眸が、獣のように、彼女をじっと覗き込んでいた。

 ターナの心臓の鼓動が忽ち激しく高鳴る。
「……俺は……おまえを――」
 彼の吐く息が、彼女の顔にかかった。
 激しい、燃えるような眼差し。
 彼は何を言いたいのだろう。
 その瞳の奥に潜んでいるものは――
 狂おしいほどの、憎しみ――それとも、愛情……?
(俺は……この女を……)
 イサスは、自分でも混乱していた。
(……殺す……)
 ――殺さねばならない。
 そう思う一方で、なぜか躊躇うもう一人の自分がいる。
 何を躊躇っているのか……?
 自問自答しながらも、やはり体は動かない。

(くそっ……!)
 彼は忌々しげに吐いた。
 ――どうして……!
 苦渋の思いが彼の胸を満たす。
 しかし、どうしようもなかった。

(――俺は、この女を……殺せない……!)
 そんな彼の思いに呼応するかのように、
「わたしを、殺して。イサ……」
 ターナの澄んだ瞳がまっすぐイサスを見つめた。
 全てを悟ったかのようなその柔らかな瞳が、イサスの凍りついた心を溶解するように撫でていく。

「……いいのよ。わたしは、今なにも後悔していないもの……」
 言いながら、彼女の唇が彼の頬に、そして唇にそっと触れた。
 その瞬間、イサスは衝動的に、彼女の唇を受け入れていた。
 もはや、彼は何も考えなかった。
 ――考えられなかったのだ。

 そして、そのままターナの体を彼の指先がやさしく愛撫した。
 
      *   *   *   *
 
 翌朝、目覚めたとき、ターナの姿は消えていた。
 イサスは、一瞬、全ては夢だったのではないかと思ったが、枕辺に残る彼女の残り香が、紛れもなく昨夜の出来事が現実のものだったのだということを彼に証言していた。
 彼がゆっくりと体を起こしたちょうどそのとき、バタン、と勢いよく扉が開いたかと思うと、背の高い大柄な体躯の女が飛び込んできた。
「イサ!目が覚めたんだね。……気分はどうなの!」
 これもまた、久し振りに見るテリー・ヴァレルの姿だった。
 元気の良い、大きなよく通る声は全く変わっていない。

「……あんた、ほんとに久し振りねえ。……昨日は半分死んだみたいにぐったりしてたから、ほんとびっくりしたけど。何とか生きてるみたいで安心したよ」
 テリーはイサスの傍らまで近寄ってくると、改めてイサスを見下ろした。
 明るい顔がふと翳った。

「――『狼』もひどくやられちまったんだろ。父さんやレトウから聞いたわよ。大変だったねえ」
 そう言いながら、テリーは寝台の淵に腰を下ろす。
 彼女は体を近づけて、イサスの肩や腹部から覗く包帯におもむろに目を向けた。

「父さんからあんたの傷をみるようにって言われたんだけど、なんか、ひどそうだね。騎兵隊の奴ら、よっぽどひどくやりやがったんだねえ……。
 レトウもひどくやられてたけど、あんた、それ以上だわ。その様子じゃ、あたしの手に負えそうもないけど……あんた、ほんとに大丈夫なの?」

 彼女の手が恐る恐る傷口に触れる。
 しかし、イサスの顔色が変わらないのを見ると、彼女はほっと息を吐いた。
 安心したように、今度はその手を少年の顔に滑らせる。
 テリーの顔がふと和んだ。

「……あら、でもあんた、また男っぷりが上がったんじゃない?なんかこの前見たときより、大人っぽくなったわねえ」
 にやりと笑ってイサスを見る。
 イサスは軽くその手を払いのけた。
「冗談はよせよ、テリー」
 彼はむすっとした口調で言った。
 その顔がいかにも子供っぽい拗ねた表情を宿しているのを見て、テリーは笑った。

「……あはは、やあーね。やっぱり、あんた、前とおんなじだわ。安心したよ」
 テリーは立ち上がると、窓辺に寄り、カーテンを少し開けた。
 そこから差し込む陽射しが、室内を一気に明るくした。

「……で、あの娘とはちゃんと話できたの?」
 彼女は肩越しに、意味ありげな目線を投げた。
 イサスは一瞬返答に詰まった。
「……なんて、野暮な質問だったわね。わかってるわよ。その顔見てたら、一目瞭然だ」
 テリーは艶然とした笑みを浮かべてイサスを見た。
「あの娘……真剣にあんたのこと、思ってるよ。あたしも一応おんなじ女だからね。それくらいのことはわかる。――あの娘を見たとき、リースは嫌な顔してたけどね。裏切ったっていう、あのティラン・パウロの妹だから、まあ、そりゃそうなんだろうけど。でも、あたしはあの娘、好きよ。あんなにまっすぐな娘、いないわよ。特にあんたみたいな子には……ね。必要な娘よ」
 そう話しかけるテリーの目はいつになく真剣味を帯びていた。
 イサスは、何とも答えようがなく、ただ黙って視線を落とした。
 彼の中にはまだ、複雑な感情がわだかまっていた。
 自分自身に対する、さまざまな苛立ちや、戸惑い――そんな種々の思いをまだ彼は整理できずにいたのだった。
 そんなイサスを、テリーは暖かい眼差しで、見つめていた。
「……あんたは、ほんとは優しい子なのよ。イサス。自分で気付いてないだけ。素直になりなよ――自分の気持ちに。無理することないんだよ。もう、あんたは『狼』の首領じゃないんだからさ……」
 ――『狼』の首領じゃ、ない……?
 その瞬間、イサスの中で、その事実が虚しい思いを呼び覚ました。
 これまでの自分。
 少なくとも、自分であったと信じていたもの。
 『黒い狼』のイサス・ライヴァーが、もういない……?

 では本当の、イサス・ライヴァーは今、どこにいる……?
 急に不安が波のように押し寄せ、彼の心をかき乱していく。
「……新しく始めればいいじゃない。あの娘と一緒にさ。あんたはまだ若いんだもの。まだこれから何とでも――」
「……やめろ!」
 そのとき、不意にイサスの強い声がテリーを遮った。
「イサ……?」
 テリーはイサスのあまりにも突然の激しい反応に虚を突かれ、言葉を止めた。
「そんな風に言うな!俺は……!」
 イサスは、募る苛立ちを隠せずに、テリーを睨みつけた。
「――俺は……俺はまだ、何も……」
 ――まだ、何も終わらせてはいない。
 彼は歯がみした。
 『黒い狼』の壊滅。
 ザーレン・ルードとの訣別。
 しかし、それが全てを終わらせたわけではない。
 ――そうだ。何ひとつ、変わってはいない。
(俺はまだ、『黒い狼』の首領イサス・ライヴァーのままだ。俺には、まだやらなければならないことが、あるはずだ……)
 彼は拳を強く握った。
(……俺は、何をしているんだ。どうなっちまったんだ……?しっかりしろ!そうだ……まだ、何も終わってはいないんだ……!)
 テリー・ヴァレルは、嘆息した。
 ――なぜ……?
 彼女は少年の姿に、なぜか言いようのない悲愴感を感じて、暗澹たる気持ちになった。
 ――なぜ、この子はこんなにも自分を追い詰めようとしてしまうのか。
 彼女にはわからなかった。
 ただ、彼を覆う運命の黒い影の不気味な予感に、言いようのない不安を感じるだけだった。

(……神よ。この子の身に、これから何が起ころうとしているのでしょうか――)
 テリーは、胸の内でそう呟くとともに、哀れみのこもった視線を、少年に投げかけずにはおれなかった。

                                               (...To be continued)


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