3 予期せぬ再会






「おい、イサ!どうした?」
 レトウの声に、イサスは不意に我に返った。
(……俺……は……?)
 ――一体どうしたのか、と慌てて周囲に視線を動かす。
 先程までの出来事が嘘のように、周りの風景はまた元通り、あの暗い地下通路の中に戻っている。
 彼は呆気にとられたように、その場に立ち尽くした。
 ――夢でも見ていたのだろうか……。そんな、馬鹿な……?
 夢にしては、あまりに鮮明すぎる。
 それに、この体全体を覆う何ともいえぬ気だるさは、どうだろうか。
 決してこれは、傷のせいばかりではない。

 頭が重い。
 全身の筋肉が、突然変異でも起こしてしまったかのように、妙につっぱっている。
 体を動かすと、まるで自分のものではないかのような奇妙な感覚がある。

「イサ!おまえ、大丈夫か?」
 レトウが背後から、彼の肩に手を置いた。
 その暖かい人の手の感触に、イサスはようやく振り向いた。

「レトウ……?」
 その目が少し放心したように、ぼんやりしているのを見て、レトウは思わず呆れたように声を高めた。
「……おいおい、しっかりしてくれよ。どうしちまったっていうんだ?
 急に立ち止まったかと思うと、何度呼んでも返事もしねえし……。
 さっきのおまえの言い方じゃ、まるきり敵がきたって風にしか聞こえなかったがな。
 お陰でこっちは、すっかり肝を冷やしちまったんだぜ……!」

「俺は……ずっと、ここにいたのか……?」
 イサスは訳がわからず、尋ねた。
 レトウはあんぐりと口を開けた。
「何言ってんだ、おまえ……?なんか、ずっとどっかに行ってたみてえな言い草だが……」
「違う……のか?」
 イサスは、混乱していた。
 ――一体、何がどうなっている……?
 まさか――全てが幻だったとでもいうのか。
 そして、実際には自分はずっとこの場にいて、ただ意識だけが一瞬どこかへ飛んでしまっていたのだとでもいうのだろうか……?

 いや、そうではない。
 そんなはずはない。
 彼は一時、確かにあの空間の中に存在していた。

 そして、『あの空間』は、人間の目に触れうる空間ではなかった。
 通常とは異なる空間に迷い込んでいた、その空白の時間が必ずあるはずだ。
 なのに、レトウの言うことを聞いている限りでは、自分はここから全く動いていなかったらしい。

 そんな僅かな時間経過の中で、彼は異次元空間へ飛び、あれだけの体験をしてきたというのか。
 そんなことが、あり得るのだろうか。
「イサ……おまえ、何か顔色が悪いぜ。傷が痛むのか?」
 レトウが急に心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「……いや、大丈夫だ。それより――もう一度聞くが、俺はさっきから、ずっとここにいたんだな?」
 それを聞いて、レトウはまた変な顔をした。
「ああ、おまえ、さっき俺に『下がれ!』って怒鳴っただろうが。あれから、まだ五分とたっちゃいねえぜ」
 イサスは黙り込んだ。
 自分の気が狂ってしまったのでなければ、何らかの人知を超えた力が働いたのだとしか考えられない。
 いや、それともやはり、自分の錯覚……だったのか。
 答えの出ない問いがぐるぐる頭の中を回っていく。
 そんなイサスを不審気に見る一方で、レトウは素早く現実に目を戻した。
「とにかく、何もないんなら、先を急ごうぜ。俺たちが逃げ出したことがわかったら、まず一騒ぎ起こってるはずだからな。面倒からは少しでも早く遠ざかった方がいい」
 きびきびとしたレトウの口調に、イサスもしばし考えを中断し、頷いた。
「ああ、行こう。だが、やっぱりおまえが先を行ってくれ。俺は何だか……」
 そこまで言って、イサスは不意に言葉を途切れさせた。
 その先を何と説明したらよいのか、わからなかったのだ。
 今の自分を支配するこの奇妙な常ならぬ感覚……それはあまりにも現実感を伴わない、漠然とした曖昧さを含んでいた。

 ――またか。
 レトウは眉をひそめた。
(本当に、どうしちまったんだ。こいつは……。俺の知っているイサス・ライヴァーとはまるで違う……全く、らしくねえぜ……こっちの調子まで狂っちまう!)
 しかし、レトウは敢えてその思いを胸にしまいこんだ。
 とにかく今ここでそんなことを嘆いていても仕方がない。

 彼は黙って先頭に移動した。
 再び、手早く蝋燭を灯す。
 微かな灯りが暗い通路をぼんやりと照らし出し、彼らの行く先を示した。

 それからは、二人は地図を頼りに、ただ黙々と通路を進んで行った。

            *     *     *     *     *

 ……そうして、どのくらいの時間、地下通路を紆余曲折していったことか。
 やがて、ようやくレトウは目的の場所への出入り口を見出したようだった。
 何度目かの分岐路を曲がっていく通路が次第に細く狭まっていき、彼らの前はついに行き止まりとなった。
 しかし、よく見ると、一見壁と同化しているようであったが、そこには石の扉が隠れていた。

「どうやら、ここだぜ。俺が間違えてなきゃな……」
 しかし、言葉とは裏腹に、彼は自信ありげにその扉の下にある窪みに鍵を差し込んだ。
 鍵が反転すると、数秒置いて、石扉が重く軋むような音を狭い通路いっぱいに響かせながら、ゆっくりと横へ移動し始めた。

 その扉の向こうに、ぽっかりと開いた薄暗い空間が見えた。
「……おい、待てよ。おまえ、ここがどこかわかっているのか」
 さっさと中へ入って行こうとするレトウに対して、イサスが訝しげに問いかけた。
 レトウは一瞬足を止めたが、にやりと笑ってイサスに頷いてみせた。
「ああ、わかってるさ。おまえもここがどこかわかりゃあ、驚くかもな!」
「……驚く……?」
「まあ、とにかく入れよ!」
 レトウがイサスの体を引っ張って中へ入れた。
 二人が中へ入ると、レトウは再び内側から鍵を操作し、壁は元通りに閉まった。
 内側から見ると、扉は全くそれとはわからず、完全に壁の一部となっている。
 もはやどこに扉が存在しているのかはわからなくなっていた。

 ひんやりとした薄暗い室内……ぷんと全体的にどこか生臭い匂いが充満している。
 レトウの持つ蝋燭の残り僅かな光がかろうじて照らし出すものを見る限り、どうもこの部屋は食料の地下貯蔵庫になっているようだ。

 小麦の入った大きな麻袋や、野菜の入った大きな籠が隅に幾つも積み上げられている。
 また、天井からは、絞められた家禽が何羽かぶら下がっているのが見えた。

 レトウは床を横切り、反対側から上へ続く階段を指し示した。
 彼は手燭を消した。
 闇が辺りを覆う。
 イサスは黙って、彼の後について階段を上がった。

 扉は跳ね上げ戸になっている。
 レトウが頭の上の戸を、そっと押し上げると、途端に薄光が流れ込んでくる。
 屋内の薄明かりであるとはいえ、長い間暗い場所に慣れた目には、それでも十分に眩しいくらいの光の量だった。

 そこはやはり小さな食料部屋のようになっていた。
 しかし、どこかで見たような覚えのある場所である。
 イサスは、首を傾げた。
 ここは……まさか――?
 そんなイサスの戸惑いを見て、すかさずレトウがにやりと笑った。
「そうさ。ここがどこか、おまえもよく知ってるはずだぜ」
 彼はわざと焦らすかのように悪戯っぽい視線をイサスに投げる。
 と、そのとき、外へ続く扉の向こうから突然声が聞こえた。
「……誰かいるのか?」
 扉越しではあっても、その声には明らかに聞き覚えがあった。
「ああっ!俺だよ、親父!」
 レトウが大きな声で答える。
「レトウ……?」
 驚いたような声と共に、扉が開いた。
 そして、そこに立っていたのは、大柄な体躯の居酒屋の主人――イサスにとっては久し振りに見る、サウロ・クライヴの姿だった。

 サウロは素早く室内に目を走らせると、薄闇の中で目を凝らしてレトウを、次いでイサス・ライヴァーの姿を認めた。
 イサスを見た途端に、サウロの目が大きく見開かれた。

「おまえ……イサスか……?」
 サウロの声は驚きに満ちていた。
「サウロ……?」
 イサスも、呆然とその名を呟いた。
「イサス、おまえ、よくもまあ……!」
 イサスが次に何か言うのを待たずに、サウロは彼の前につかつかと歩み寄り、いきなり少年の体を引き寄せた。
 イサスはそんなサウロの荒っぽい抱擁にいささか驚いた。
 彼は……他人からそんな接し方をされた経験があまりなかったので、一瞬どう反応すればよいかわからず、戸惑いを隠せなかった。

 以前の彼なら、即座に体を振り払い、相手に対する拒絶の意を表していたことだろう。
 しかし、なぜか今の彼には敢えてそれを突き放そうという気持ちは起こらなかった。
 以前なら、絶対に許さなかった接触……それが、今は心地よいとさえ感じられるのだ。
 サウロの体のぬくもりが、イサスの冷えきった体にはことさらに暖かい。
 彼は黙って、サウロの抱擁を受け入れた。

「おまえ、どうなっちまったのかと、心配したんだぞ……。まあ、よくも無事で戻ってこれたもんだな。本当に、良かった……!」
 サウロはそう言うと、改めて少年の顔を検分するように眺めた。
 彼は僅かに眉をひそめた。

「……だが、顔色が良くねえな。そうか、おまえ、怪我してるんだったな。だいぶ無理してるんじゃねえのか。……すぐテリーに言って、寝床を用意させてやるから、まず体を休めた方がいいな」
「テリーも……元気なのか」
 イサスはリースの遥かに年の離れた姉、背が高く大柄で、陽気な笑い声を立てる気さくなテリー・ヴァレルの姿を思い浮かべた。
「ああ、うるさいくらい、毎日元気に店を手伝ってくれてる。テリーの亭主も、双子の子供達も、みんな元気だぜ」
 サウロはにこやかに答えた。
「それと……実は、もう一人、最近新しく手伝ってくれてる子がいるんだが……おまえもよく知ってる人間だ。顔を見たら驚くぞ」
 そう言うサウロの目が意味ありげに瞬いた。
 イサスは不審気に相手を見返したが、それ以上は問い詰めようとはしなかった。
 サウロとの再会で、少し安心したせいか、彼の中に一挙に疲労が押し寄せてきたのだった。
 彼の思考は既にそれまでのように鋭敏には働かなくなっていた。

 どことなく熱を帯びた体が気だるさを増し、今では立っていることすら辛く感じられる。
 思えば長い間、異様なまでに神経の張りつめた状態が続いていた。
 彼の肉体も精神も、とうに限界点を超えていただろう。
 これまでよく持った方だといわねばならない。

 それなのに――サウロの顔を見た瞬間、そんな彼の緊張の糸は、突然ぷつりと切れてしまった。
 彼は……無意識のうちに、ただ、無償の安らぎを求めていたのかもしれない。
 気のおけない者の中で、安心して過ごせる時間――ほんの一時でもよい、何も考えなくてもよい時間が欲しかった。
 それほどまでに、彼は心身ともに疲弊しきっていたのである。
 急に、視界が霞んでくる。
 意識が遠くなっていく感覚。
 彼はそっと目を閉じた。

 イサスは何も言わず、そのままサウロの腕に身を預けた。
 そんな彼を横目で見ながら、レトウは軽く息を吐いた。
(ま、こいつがこうなるのも無理はねえか……。けど、これから、どうなっちまうんだろうな。こいつも、俺たちも……)
 仕方がないと思いながらも、彼の胸を一抹の不安がよぎっていく。
 アルゴン自体に暗雲が垂れ込めている。
 州都全体を覆い始めている、暗い影。
 あの後、ザーレン・ルードとユアン・コークの間の関係がどう変化するのか。
 何か嫌な予感がして仕方がない。

(――ああ、やめたやめた!)
 レトウは不意に首を振った。
(こんな風にぐだぐだ考えるなんざ、俺らしくねえな!これじゃあ、サウロの親父とおんなじだ)
 そう思ってふと目を上げた彼の視界の端に、偶然のように飛び込んできたその人物の姿を認めたとき、レトウは思わず息を呑んだ。
 いつの間にか、音もなくサウロの背後に忍び寄っていた、その意外な人物……レトウは慌ててイサスを見た。
 だが、既に意識が遠ざかりつつある彼はその存在に全く気付いていない。

「……ターナ……おまえ、何でこんなところに……?」
 その名を呟くレトウの声は心なしか掠れ気味だった。
 同時に、サウロに問いかけるような視線を送る。

 サウロはその視線をさりげなくかわしたかのようだった。
 一方、ターナ・ロッタは、疲れたような微笑を浮かべてレトウを見た。
 その目はしかし、強い光彩を放っていた。
 ある意味、挑戦的ともいえるような激しさを含むその強い眼差しに、レトウは少々ひるまずにはおれなかった。

「お久し振り……レトウ・ヴィスタ」
 彼女は事もなげにそう言うと、次いで、サウロの胸にもたれかかるイサスに物思わし気な視線を投げた。
「わたしがここに来たのは……そう……ここにいれば、きっと彼に会えると思ったからよ。……もう一度、イサに会いたかった。ただ、それだけ……」
 イサスの顔にじっと目を注いだまま、彼女は静かにそう言った。
(――次に目を開けたとき、わたしを見たら、あんたは何て言うかしら、イサ……)
 彼女の脳裏に、不意に街道宿での別れの光景が甦った。
 冷たく彼女を見据える、あのぞくりとさせるような、彼の瞳に映る氷の刃……。
 危険な予感に捉われながらも、なお魅かれずにはいられない。
 彼女は心の奥で深く嘆息する。

(――あんたは、やっぱり、わたしを殺すと言うかしら?)
 彼女の表情にふと憂いの影が落ちた。

                                               (...To be continued)


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