2 変異する力
(――う……)
目を開けると、薄闇に包まれる中、どこかで見たような光景が広がっていた。
それもそのはず、そこはつい先程彼がレトウと共に通り抜けたばかりの霊廟の中だったのだ。
背中に触れる堅く冷たい感触。
彼はロシュタット家の石碑に背をもたせかける格好で、その前に座り込んでいた。
彼は腕を持ち上げようとしたが、なぜか体全体が鉛のように重く、全く自由がきかない。
何か目に見えない大きな圧力が全身を抑えつけているかのようであった。
ふと、首筋にひやりとする感触があり、何かの触手が首から頬へと通り過ぎていった。
同時に、彼のすぐ前に何者かの影が立った。
透けるような白く細い両の手が、イサスの顔を持ち上げたかと思うと、その前で彼に向かい合っていたのは、この世のものとも思えぬほどの妖艶な美しさを湛えた蒼白の面だった。
艶やかな長い髪は青みがかった暗い銀の色を閃かせ、真っ直ぐに肩から腰の辺りまで、流れ落ちている。
その黄金色の双眸は、魔物のように、人知を越えた不可思議な未知の光を宿している。
あまりにも華奢で細いその体。
透き通るような肌の色合い。
その全身は、今にもこのまま空気中に溶け入ってしまうかのような、どこかこの世のものならぬ妖しい雰囲気を感じさせる。
その視線を浴びると、忽ちイサスの心臓の鼓動は激しく波打ち始めた。
なぜか、異様なまでに緊張感が高まる。
(……人間……なのか……?)
この、魔性に満ちた雰囲気。
――いや、とても普通の人間とは思えない。
人の面をつけてはいるものの、その全身から漂うのは、人ならぬものが持つ、あの邪悪の気に満ちた、独特の危険な匂い……。
それは、到底人とは呼べぬ。
――怪しい未知なる『生き物』の姿。
(――おまえは、誰だ――)
問いかけたい――なのに、なぜか言葉が音声となって出てこない。
まさか、声にまで金縛りの呪縛がかかってしまっているのか。
物も言えずに、硬直するイサスのすぐ目の前で、その『謎の生き物』は、にやりと妖艶な笑みを浮かべた。
そのほっそりとした、透けるような長い手が、イサスの頬をそっと撫でる。
その冷たくぬるりとした手の不気味な感触が、イサスをぞくりと体の芯まで震わせた。
激しい嫌悪感が全身を駆け巡る。
この『生き物』が一体何ものであるのかはわからないが、とにかく何か忌まわしい存在であることだけは確かだろう。
その瞬間、彼はそう確信した。
その美しい外見とは裏腹に、そこから絶えず飛散する邪悪な気が濃くねっとりと周囲の空気を重くしている。
イサスは少しでも身を離したくて仕方がなかったが、体の自由がきかないため、どうしようもない。
いつしか彼の額から汗が滲み出していた。
(……この……魔物め……!)
彼が心の中でそう吐き出したとき、彼の前にいるその『魔性のもの』が、突然口を開いた。
「『魔物』か……そのように、見えるか。このわたしが……。フェールの古き魔の力をその身に宿すそなたが、このわたしを『魔物』と呼ぶか……」
嘲笑にも似た響き。
かろうじて人の言葉を紡ぎ出してはいたが、その口調は、どこか人間離れした異様な抑揚を帯びている。
「……なら、おまえは、何だ……?」
ようやく、イサスの喉から音声が迸った。
重く垂れ込める空気を緩く震わす、その声はいつもの自分の声とはどこか違っているようにも思えた。
――そうか……と、イサスはようやくその異様さに気付いた。
今いるこの空間自体が、異質なのだ。周囲の光景は、一見、先程いた霊廟と同じ場所に見える。
しかし、それでいて、どこか違う。
空気自体が異なるのだ。
どことなく、異様な空間の歪みが感じられる。
「その通り。ここは、異なる空間。人間の触れうる場所ではない。目に映る景色は同じでも、そなたは今、異なる次空間にいる。逆に申せば、通常の世界では、そなたは既に存在してはおらぬ」
『それ』が、淡々と答える。
まるで、彼の心の声をそのまま聞き取って答えているとしか思えぬようなその言葉にイサスは驚き、更に警戒を強めた。
(……こいつは……まさか、俺の考えを読み取っているのか……?)
「そう、わたしにはそなたの思いが手に取るようにわかる。ゆえに、わたしから何かを隠そうとしても、無駄なこと」
『それ』が、黄金色の瞳を細め、嘲笑うかのようにイサスを見る。
その指先がイサスの頬から首筋へと弧を描くようにゆっくりと滑らかに移動していく。
そして、そのまま胸元へと落ちていこうとしたとき――
その指が突然、ぴたりと静止した。
「――なるほど。やはり……」
瞳が一瞬鋭い光彩を放つ。
「――光の王の玉(ぎょく)……エルム・ヌ・ランズ・ディオウル。アル・トゥラーシュ・エル・ヴァルド……あの小面憎い術師めが、かつて我らより掠め取った、かの力……それが、今、ここにある――」
指先が、着衣の上からイサスの胸元を軽くなぞる。
と同時に、そこから僅かな刺激が彼の体を静かに駆け抜けていく。
ふと見ると、胸元が淡い緑の燐光を発していた。
心臓の鼓動が再び速くなっていく。
――イサスの中に不安が生じた。
……また、体の中で、『あの力』が暴れ出そうとしているのではないか。
「……ふふふ。恐れずともよい。そなたの力は、わたしを受け入れる。光が応えているのが、良い証拠だ――」
(……応える……だと?)
イサスは信じ難いように、自分の胸に手を伸ばし、中から光の源である石を手繰り出した。
途端に、強い光線が目を射抜き、イサスは思わず顔をそむけなければならなかった。
反対に、目の前の『生き物』は、その光に爛々と目を輝かせた。
「……素晴らしい……これは、まがいなき本物の玉(ぎょく)……離れていても、こんなにも強く感じる……これ以上はとても待ちきれぬ。――それでは、早速わたしを中へ入れてもらおう……」
貪欲な光を瞬かせた黄金色の瞳がイサスにぴたりと吸い付く。
イサスは背筋を震わせた。
相変わらず、金縛りにあったかのように、体はびくとも動かない。
「……来るな……!」
イサスは一言嫌悪の声を上げたが、それも虚しい叫びでしかなかった。
そして……
――そのとき、突如にして彼にはわかったのである。
石が――いや、彼の中に潜む例の『力』が、それ自身の意志で、この魔物を呼び寄せたのだということを……!
しかし、本当に『エランディル』が、それを望んでいるというのだろうか?
イサスの中で疑念と葛藤が生じる。
――なぜ……?
自分には理解できない領域において、着実に『何か』が進行している。
何か、とてつもなく怖ろしいことが……。
イサスは、自分の身内に宿るこの恐るべき未知なる力に対して漠然とした畏怖の念を覚えずにはおれなかった。
それは、もはや彼の手に余る力となりつつある。
そして、彼にはそれを止める方法(すべ)がない。
まさか――宿主であるイサスを無視して、『力』そのものが本当に自らの意志で一人歩きをしようとしているのであろうか……?
その考えはあまりにも恐ろしく、イサスはすぐにその疑惑を頭から振り払おうとした。
しかし、現実の状況を見れば、そう疑わざるを得ない。
現に今、この『邪悪な生き物』を前にして、彼の中の『力』がこんなにも強く反応している。
それは確かに、拒絶ではなかった。
あのエルダー・ヴァーンや、ジェリーヌ・ヴァンダといった魔導師たちが手を触れようとしたときの反応とは明らかに違う。
それは――求めているのだ。
目の前のこの生き物を、取り込んで、自分のものにしようとしている……。
(……なぜなんだ……?)
イサスは、呆然と同じ問いをただ繰り返すしかなかった。
そんなイサスの心の内を全て見透かしたかのように、『生き物』が嘲笑った。
「そなたの中には怒り、恨み、憎しみ、そして絶望の感情が鬱積しているな。今、そなたの中に入るのはたやすい。そなた自身がわたしを望んでいるのだから」
「――馬鹿な……なんで、俺がおまえなんかを……!」
イサスはそう言いかけたが、なぜか言葉はあえなくそこで途切れた。
新たな疑念が押し寄せ、彼を悩ませる。
――そんな……
――違う……俺は、そんなこと、望んじゃいない……!
――だが、本当に……そうなのか?
イサスは、一瞬自分の中に渦巻く感情を整理しきれなくなり、混乱した。
(恨みと絶望……?)
確かに――
信じていた者に裏切られたことに対するやりきれない思いが、彼の胸の中に暗い影を落としていたことは事実であった。
そして、抑え切れない憤怒の感情も……
それがザーレン・ルードに対する怒りなのか、それとも自分自身に向けられたものなのか……彼にはよくわからなかった。
「……そなた自身が、『力』を変容させようとしているのだ。ゆえに、この私をも引き寄せた。そなたが『力』を制御できぬゆえに、招いたこと。もっとも、私にとってはそれが幸いしたが……」
そう言うと、それは手を差し伸ばした。
イサスの体を絡めとろうとするかのように。
逃れたくとも、もはや逃れようがなかった。
白い手が、彼の胸の石に触れる。
その瞬間、石が強い閃光を放った。
冷たい触手が、彼の心臓を掴んだ。
息ができない。
鋭い痛みが瞬時に全身を駆け抜けていく。
と同時に、イサスの体内で、何か異様な変化のうねりが生じた。
気が付くと、すぐ眼前に悪魔のような笑みをいっぱいに浮かべたその『生き物』の顔が迫っていた。
あっと思った瞬間に、その顔から、まるで鍍金が剥がれるかのように、皮膚が砕片となって、ぼろぼろとこぼれ落ちていった。
そしてその下から、現れたのは……
――何もない空間。
……それは、ただの『闇』の広がりでしかなかった。
しかし、その闇の色は何と暗く、底知れぬ深さを宿していたことか。
そこに落ち込んでしまえば、恐らく二度とこの世へは戻ってこれなくなるのではないかと思えるほどの、深く暗い闇黒の世界の広がり。
イサスは、わけもわからぬまま、ただ恐怖に慄いた。
「……『無』(ヌール)……!」
自然とその名が、口をついて出た。
――その言葉の意味は彼にはさっぱりわからなかったものの、それが何か彼自身に深い関わりを持つ言葉であることを彼の本能的な直感が教えてくれた。
自分は、それを知っている。
遥か以前……恐らくはこの世に生を受けるずっと前から――
遥か彼方に埋もれた記憶。
その記憶の微細な断片が、彼の頭の中で激しく飛び交っていた。
自分自身が、何者であるのか。
その答えを探す重要な鍵がそこにある。
しかし、肝心なところで、記憶に靄がかかり、再び全ては虚空に沈む。
イサスは、もどかしさに駆られた。
もう少しで手が届きそうなのに、あと一歩のところで全てが霧散してしまう――。
それでも、ひとつだけ確かに感じられたことがあった。
――俺は、『こいつ』を知っている。
『無』と呼ばれるもの……闇黒の世界に巣食うこの『魔物』を……!
怖れと強い警戒心が沸き上がる。
しかし――
(――もう、遅い!)
『魔性のもの』の哄笑が彼の脳裏一杯にがんがんと響き渡った。
その瞬間――
『それ』は彼の中に侵入することに成功した。
イサス・ライヴァーは、抵抗する間もなく、既に『そのもの』の手の中に、捉えられていたのだった。
大きなうねりが彼の身内を駆け巡り……その不快な異物の侵入に、体は声のない悲鳴を上げ、衝撃で彼の意識は一瞬途絶えた。
そして、次に彼が立っていたのは、何もない闇の空間。
何も見えないし、何も感じられない。
……永遠とも思えるような虚無の広がり。
その中で、ただひとり――
苦悶に喘ぐ息を吐き出しながら、イサスは、自分のものであってなきかのような異物の蠢くその体を、どうしようもないほどに打ち震わせていたのだった……。
(...To
be continued)
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