1 忍び寄る影
イサスは、二人の兵士にがっちりと抱きかかえられるようにして、通路の端から脇の小部屋へ引きずるように連れ込まれた。
ところが、その中へ入って扉が閉まった途端、いきなり兵士の一人がイサスの体から手を離し、もう一方の兵士に襲いかかった。
その拳が、相手の鳩尾にまともに入った。予期していなかった突然の相手の暴行に驚く間もなく、すぐに兵士はうっと一声呻くと、意識を失って床に沈んだ。
「……イサ、俺だよ」
驚いて身構えようとしたイサスの前で、振り返った長身の兵士がにやりと懐かしい笑みを見せた。
「おまえ……レトウ……なのか……?」
イサスは信じられないように、改めて目の前の兵士に視線を注いだ。
短く切り揃えられた髪に、髭のないさっぱりとした顔。
人相は大きく変わっているが、それは紛れもなくレトウ・ヴィスタであった。
「わからねえのも無理はねえけどな。それにしても、おまえ、一度も顔を上げねえから……」
レトウがやや茶化すように言う。
しかし、彼は内心はあまり穏やかな気持ちではなかった。
確かに、今のイサスはだいぶ参っている。
でなければ、自分が腕をとったとき、すぐに気付いていたはずだ。
常に神経を研ぎ澄ましていた野生の動物の本能そのもので生きていた、ついこの間までの黒い狼の首領イサス・ライヴァーなら。
こんなに全てに対して無防備になっているイサスを見たのは彼にとっては初めてのことで、その分レトウは心を沈ませた。
――本当に大丈夫なのか。こいつは……?
怪我が、彼の心を弱気にしてしまっているだけなのか。
それとも、何か他に大きな要因があるのだろうか。
しかし、レトウはそのような様々に沸き起こる思念を何とか振り払った。
今はそんなことをくどくどと考えている時ではない。
「おまえが、何でこんなところにいる――?」
戸惑いを隠せないイサスに、レトウは腕を差し出した。
「……全部リース・クレインの計らいだ。とにかく、話してる暇はねえ。――さあ、つかまれ!」
そして、レトウはイサスを引きずるようにして、その小部屋から、狭い通路へ出た。
「こっちだ!」
レトウは迷うことなく通路の奥へ向かって歩き出す。
「待て――こっちは出口とは反対方向じゃないのか」
不審気に言いかけたイサスを、
「ああ、知ってるぜ。けど、出口は何も一つとは限らないだろうが」
レトウはあっさりといなした。
次いで彼がイサスの鼻先に突き出したものは、小さな鍵だった。
「……秘密の通路があるのさ。リースが教えてくれた。外へこのまま出たら、騎兵団につかまるだけだからな。確かにこっちの方がまだ安全だ」
イサスは、そういえば……と、そのとき、不意に思い出した。
教会堂の地下から伸びる、秘密の抜け道のことを。
噂では州侯の館は勿論、その他いくつかの拠点とひそかに繋がっているらしいが、詳細は州侯やその側近レベルの人物にしか知らされていないという。
リースが知っているというのは、無論ザーレンを通して聞いたということなのだろう。
アルゴン騎兵団の隊を束ねる職掌柄、知らされていてもおかしくはない。
今レトウがリースの指示で、イサスをその秘密通路を通して逃がす片棒を担ごうとしている。
ということは、まさかザーレンの差し金か、それともリースの独断での裁量か。
――恐らくは後者であろう。
ザーレンの先程の行動が全て、周囲を欺くための演技であったとは到底思えない。
……彼のあの殺意は、確かに本物だった。
わかってはいても――それでもなお、イサスの心を凍てつかせ、絶望の淵まで追い込んでしまうほどに、徹底した固い意志を感じさせる殺意の気が、彼の全身からくまなく飛散していた。
「……おい、急ごうぜ、イサ!」
レトウに促され、イサスは慌てて歩を動かした。
確かに、今はあれこれ思いに耽っている場合ではない。
突き当たりの階段を下へ降りる。地下の霊廟へ通じる階段だ。
薄暗い霊廟の中は、人気もなくひっそりとしている。
ひんやりと、湿った空気が鼻をつく。
代々の司教や諸侯、その他このアルゴンの地に偉大な業績を残した人々の霊を祭るための聖廟である。
通路を挟んで、両側にそれぞれ仕切られた区画の中で故人の名とその残した業績を細かく記した句碑が立ち並び、その下にはその遺骨(聖体)を納めた小さな骨棺(聖棺)が安置されている。
それらの『聖体』に宿る力は、司教によって日々浄化を受けながら、アルゴンの地を守る聖霊の一部となって昇華していくのだと一般に信じられている。
故に、この力の加護を受けようと普段より霊廟を訪れる者も少なくはないが、死者の魂の余韻を感じる場所であることには変わりなく、昼夜を問わず、あまり訪れて気持ちの良い場所でもない。
今日は州侯の葬儀の式典が執り行われていることもあり、表からは霊廟は封鎖されていることはわかってはいたものの、それでも二人はその通路を足早に通り過ぎていった。
霊廟の一番奥……そこにひときわ大きな空間をとって、アルゴン州侯の代々の霊安廟が置かれている。
レトウは迷いなく仕切りを乗り越えて、その墓碑の後ろ側に回り込んだ。
持っていた鍵を後ろにある窪みの奥へ差し込む。
かちり、という手応えと共に鍵がまわり、やがて下の地面から微かな振動が伝わってくる気配があった。
それは次第に大きくなり、土台の石がゆっくりと横へ動き始めた。
その下に続く階段の先に、さらに闇の空間が広がっている。
レトウはひゅうと口笛を吹いた。
「へえーえ、すげえな。やっぱり王家諸侯の輩ってのはやることが違うねえ……」
大仰に感心した素振りを見せながらも、慎重な足取りで階段を降り、秘密の地下通路へと足を踏み入れていった。
彼らが降りていくと、すぐに頭上で台座が再び元に戻っていく音が聞こえた。
二人の前には、閉ざされた闇の空間が広がっていた。
「暗いな……」
レトウは呟くと、懐から何かを取り出した。
蝋燭と、着火剤。
彼が手早く火をつけると、その明かりに照らされて周囲がようやくはっきりわかるようになった。
さほど天井の高くない、土壁に囲まれた狭い通路が真っ直ぐに続いている。
背の高いレトウはやや頭を低めなければならない。
「俺が先に行く」
レトウは言うと、イサスの前を用心深く進んでいった。
イサスは痛む体を引きずりながらも、何とかその後をついていった。
通路の中は、空気が淀んでいて黴臭く、あまり気分のよい場所ではなかった。
体調の悪い彼にとっては尚更だったろう。
しかし、彼は黙って歩を進めた。
しばらくいかないうちに、既に目の前に分かれ道が見えてきた。
レトウはそこで立ち止まり、再び胸をまさぐった。
彼はそこから今度はくしゃくしゃに丸まった一枚の紙片を引き出した。
「この地図を見ていかねえと、迷うらしいからな……」
彼はしばらくその地図を眺めた後に、左の道を示した。
「……よし、こっちだ」
実際にそれから、何回となく岐路に差しかかった。
どうやらこの地下道はかなり複雑につくられているらしかった。
意図的に、といってもよいだろう。
曲がりくねって、あちらこちらに湾曲し、時々、彼らは再び元の道に戻ったのではないかと錯覚しそうになるほどであった。
確かに地図がないと、あっという間に迷ってしまい、悪くすればどの入り口にもたどり着けず、一生ぐるぐるとまわっていなければならないかもしれなかった。
そのようにして、どれくらい進み続けたことか……。
突然、前方に微かな灯りが見えた気がして、レトウは緊張した。
素早く彼は手燭を消した。
「……どうした、レトウ」
イサスが鋭くレトウに問いかける。
それには答えず、しばらくの間じっと前方に目を凝らした後、レトウは不意に肩の力を抜いた。
「……いや、すまねえ。――向こうに、灯りが見えたような気がしたんだが……どうも、勘違いだったようだ」
しかしそのとき、イサスの胸に何か不快な感覚が過ぎていった。
彼はレトウの前に出た。
「おい、イサ!おまえ、一体何を……?」
驚いて押しとどめようとするレトウを振り切って、彼は闇の空間を進んでいった。
何かに誘われるかのように――
闇の向こうに、微かに淡い光が閃いた。
イサスにはそれが、はっきりと見えた。
その幽鬼のような妖しい光。
直感で、彼にはそれが何か忌まわしい力の源であることがわかった。
彼の全身に忽ち緊張が走った。
「やめろ、イサ!勝手に進むんじゃねえ。迷っちまったらどうする!」
レトウが後ろから強い口調で叫ぶと、イサスは足を止め、振り返った。
レトウの様子を見て、少し驚いたような表情を浮かべる。
「……レトウ……おまえには、見えないのか。あの、光が……」
「光……?」
レトウは再び前方に目を凝らしたが、イサスのいうような光らしきものは全く見えない。
先程ちらりと見えたかと思ったものも、気のせいだったかと思えるほど、前にはただ茫漠とした濃い闇が広がるばかりである。
「……俺には、何も見えないが……」
レトウは言うと、不審そうにイサスを見返した。
闇の中でも、相手が異様に緊張した様子であることが見てとれた。
そのただならぬ気配につられて、レトウもごくりと唾を飲み込む。
「まさか……おまえには――何か、見えるとでもいうのか?」
その瞬間、イサスは奇妙な感覚が己の中を駆け巡るのを強く感じ、思わずレトウに警戒の目を向けた。
「――そこから下がれ、レトウ!」
イサスは叫んだ。
その激しい命令の語調は、紛れもなく『黒い狼』の首領イサス・ライヴァーの持つものだった。
レトウはその勢いに思わずひるんだが、反射的に命令に従い、数歩後退った。
そんな彼を置いて、イサスは単身、前に向き直った。
その警戒心に満ちた瞳が闇の中で異彩を放つ。
――来る……!
その『何か』が、明らかに人の領域を越えた、魔性を帯びたものであるということは、感覚でわかった。
それまでに彼の周りで起こった様々な出来事……あの不思議な経験の数々が、それとはっきり認知できるだけの勘を彼の内部に刷り込んでいたのだ。
また、或いはそれも彼の中で目覚め始めている、『あの力』のゆえであろうか。
(おまえは、誰だ……!)
イサスが、対する未知の敵に向かって誰何したとき、その『謎の力』はまさにぴたりと彼の体を捉えた。
一瞬、目の前で光が弾けた。
あっ、と思った瞬間、息ができなくなった。
それだけ強い力が彼の喉を押さえ、呼吸を止めていた。
体全体に衝撃が通り抜けていく。
「イサ――!」
後ろで、レトウが叫ぶ声が聞こえたが、それも次第に微かになっていった。
そのときには彼を掴んだその力は、既に彼の体を異なる空間へと引きずり込んでいたのだ。
(...To
be continued)
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