5 運命の一場





 追悼の鐘が鳴り始めた。
 静まり返った広い教会堂の中は、厳粛な空気に包まれていた。こそりとも音を立てる者はない。
 息をするのですら、何やら憚られるかのような、固く緊張した雰囲気が全体に重々しく漂っている。

 中央の祭壇の上には、壮麗な紋を施した長方形の豪奢な棺が安置されており、その中に故ザグレブ・ラファウド・ロシュタットの遺体が横たえられているのだ。
 黒紫の長いローブに身を包んだ司教が、厳粛な面持ちでゆっくりと壇上に進み、祈祷の儀式を行おうとしている。
(――父上……)
 ザーレン・ルードは、最前列で兄の横に座りながら、身じろぎもせず、じっとその棺に視線を注いでいた。
 妥協を許さぬ強固な意志と判断力を備えると同時に、その大いなる寛容さと包容力で民の心を勝ち取り、長年に渡って安定した統治を続けてきた父。
 幼い頃よりずっと、彼は父を心から敬愛し、常にその姿を範と仰いできたつもりだった。

 しかし――
 ザーレンは、ふと嘆息した。
 ……いつからだったろう。
 その、自分の絶対的な父親への信頼感に、ほんの微細な亀裂が生じ始めたように感じたのは。

 父は幼い頃より、彼をよく可愛がってくれた。彼が覚えている限り、少年時代は常にすぐ傍に父がいたような気がする。
 政務のない、自由になる時間の殆どを、父は彼と共に過ごすことに費やしてくれたのだった。
 そして、最初のうちは彼もそれをごく当然のこととして受け止め、何の不思議も抱かなかった。

 しかし、やがて成長するにつれ、少年は、自分やその母の置かれた微妙な立場のことを、何とはなしに周囲の空気から嗅ぎ取るようになった。
 なぜあんなに母がいつも遠慮がちに、時には怯えたような素振りすら見せながら、父の手を取るのか。
 使用人に対してさえも、目を真っ直ぐ合わせようとはしない。言葉も時に震え、途切れがちになる。
 母が美しく、伸び伸びとした姿を見せるのは、自分と二人きりになるときだけだということに気付いたとき、幼いザーレンは驚きながらも、その理由がどこからくるのか、知りたくてたまらなかった。

 一方では、知らない方が良いこともあるのだという警戒心にも似た気持ちが彼の好奇心を抑えようとするのだが、それでもやはり、自分はそのわけを知らねばならないのだという強迫観念の方が打ち勝った。
 そして、彼は知らなくても良かったかもしれないことを、遂に知ってしまった。
 母が、アルゴンの民でないばかりか、遠い北の辺の地よりさすらい流れてきた流浪の民ソル・ファーヴの娘だったということを。
(――異教徒……!)
 その恐ろしい概念は、少年の繊細な心を打ちのめした。
(自分には異教徒の血が流れている――)
 ソル・ファーヴの一族は、古来より獣に神性を見出だし、異形の半獣半身の神ソアヴを崇拝する。
 いわゆる自らの血や肉片を獣に捧げ、獣そのものと交合するという、古来よりの禁忌にまみれた儀式を未だに行い続けているともいわれる。
 大空位時代の後、古代信仰が消え去った混迷の中で、ソル・ファーヴの民は邪教徒として、人々から敵視され迫害を受けた。
 その結果、民は居住区を追われ、流浪の民となった。現在も異端として、聖都府の教皇庁からは、弾圧の対象とされている。

 ザーレンもそのような事柄は教学士からの授業で学んでいた。
 異教徒たちの身の毛もよだつような恐ろしい儀式(イニシエーション)の数々についても……。

 その異教徒の娘が、どのような経緯でこのアルゴンの地に迷い込み、州侯の目に止まることとなったのか。
 詳細はわからぬが、ザグレブ・ラファウドが美しい異教徒の娘に誰よりも強い愛情を傾けたことだけは確かであった。

 父がいかに母を愛していたことか、それは幼いながらもザーレンにはよくわかった。
 と、同時にそんな風に州侯の心を独占する母子に対する周囲からの異常に冷たい視線も。

 そんな父の愛を、母が本当に受け入れていたのかどうか……ザーレンには未だによくわからない。
 ただひとつ確かなことは、母が不幸だったということだ。
 彼女はいつも悲しい目をして、窓の外を眺めていることが多かった。
 そんな母の様子は、成長するにつれ、ザーレンの心に重い陰を落とすようになった。

 ザーレンには、この父と母の関係は、母が亡くなる最後までよくわからぬままであったが、母が亡くなった後は、彼は父との間に一定の距離を保つようになった。
 父に対して含みがあったわけではない。
 しかし、彼の中には何か重いしこりが残って、どうしてもそれを外へ追いやることができないのだった。
 その苦しさから逃れるためには、ある程度父とは距離を置くしかなかった。

 その頃には、周囲にはある勢力図ができあがってしまっており、ザーレンは自ずとその政争の只中に入っていかざるを得なくなった。
 ――果たして、自分には、本当に野心があるのか、ないのか。
 兄ランス・ファロンを押しのけて、州侯の地位につく。この異教徒の血を引く自分、ザーレン・ルードがアルゴンの民を統べる。
 その考えに、全く魅力がないわけではない。
 そう、彼にも人並みの野心はあるということだ。
 ただ、そのために兄を弑してまで、とは考えたことはない。では彼がこの無意味な派閥抗争の中に、身を投じている主なる理由はどこにあるのか。
 それは――

 ユアン・コーク。
 ――彼にとって気がかりな唯一の人物。
 このユアンの危険な野心の萌芽が、ザーレンを彼の対抗勢力として存在させている主な理由であるといえた。

 ザーレンはランス・ファロンとではなく、ユアン・コークと戦っているのだ。
 ユアンを牽制するために。
 州侯の地位を掴むためではなく。

 だが、そのことをわかってくれる者が果たしてどれくらいいるだろうか。
 いやしかし、彼自身もそれが本当に自分の本心かどうか定かに思えないときがあるくらいなのだから、それを他者にわかってくれといっても所詮無理な話なのかもしれない。
「ザーレン。父上とも、これで本当にお別れだな」
 そのとき、不意に傍らから声をかけられて、ザーレンははっと我に返った。
 すぐ傍に、ランス・ファロンの心から父の死を悼む、哀惜に満ちた顔があった。
 まさに感極まりないといった表情……その瞳が微かに潤んでいるのがわかる。
 その表情を見た瞬間、忽ちザーレンの中に複雑な感情が湧き上がった。
(この方は……幸せなお方だ。私もいっそこの方のように、物事を単純に受け入れ、自分の気持ちを素直に表に出して生きていけたら、どんなにいいか――)
 皮肉とも羨望ともつかぬ思いが、ザーレンの胸に一瞬漣を立てていった。しかし彼は表には平静を装った。
「……はい、兄上」
 ザーレンは短く答えると、改めて壇上の司教に視線を戻した。
 司教の祈祷は終わり、代わって、会堂の中に荘重な音楽が流れた。
 司教の合図に従って、全員が立ち上がり、棺に向かって一礼をする。
 同時に後方の扉がゆっくりと開いた。ここから、一般会衆も祭礼に参加できるのである。

 縄で仕切られた会堂の中央付近まで、警備の衛兵に導かれて葬送に参加しようと外で待っていた民衆が、静かに入ってきた。
「では、どうか最後の別れを……ランス・ファロン・ロシュタット様」
 聖杯を手に持った司教が最初に正嫡子ランス・ファロンの名を呼ぶと、人々の間に一瞬ほう、という吐息が洩れていくのがわかった。
 この大葬の式の場で、最初に故人の棺に聖水を注ぐということは、自らがその後継者である旨を高らかに宣言しているも同然であった。
 当然わかってはいたものの、これまでの勢力抗争の経緯を知っている人々の中には、何となく複雑な思いが去来していたに違いない。
 彼らの間には、どうしてもある種の緊張感が高まらないわけにはいかなかった。

 そんな会場の雰囲気を感じ取ったものかどうか、ランス・ファロンは平然と前へ進み出た。
 中央の階段から壇上へ上がり、衆目が見守る中、司教から受け取った聖杯の中身を、儀式ばった動作でゆっくりと棺の中へ注ぐ。
 普段は何かと軽く見られがちな彼も、さすがにこの時ばかりは正嫡子としての自覚もあってか、その挙措動作はいつも以上に堂々としており、威厳をさえ感じさせるものだった。
 空になった杯を司教に戻すと、再び元の位置まで戻っていく。

「では、ザーレン・ルード・ロシュタット様――」
 司教は、次に視線をザーレン・ルードに振り向け、重々しく呼名した。
 ザーレンは無表情にそれを受け止め、傍らの兄に軽く会釈すると、前へ進み出ようとした。
 が、そのとき――

 突然音楽が止んだ。
「――お待ちを……!」
 凛とした声が、堂内の空気を鋭く貫いていった。
 誰か……と思う間もなく、その声の主が颯爽と中央通路に歩み出て、ザーレン・ルードの行く手に立ち塞がった。
「――ユアン・コーク……」
 ザーレンは、そんなユアンに誰何するような鋭い視線を向けた。
 ざわっと、会堂内に動揺が広がった。
「ユアン・コーク……何事か。この神聖なる席で――」
 通路を挟んで反対側の前列に席を占めていた従兄弟の突然の行動に、ランスは訳がわからず、困惑の色を浮かべている。 
 しかし、ユアンは周囲の動揺をよそに、驚くほど冷静な面持ちで、会堂内をさっと一望した。
 そして、最後に再びザーレンの元に視線を戻した。その唇の端が僅かに上がったかにみえた。

「その前に、ザーレン・ルード様に、是非ともお聞きしたき一事がございます」
 ユアンは、明瞭な声でそう切り出した。
「ユアン殿!……何も今、聞かねばならぬことでもあるまい。控えるがよい――」
 後方に控えていた年配の武人タリフ・プラウトが、たまりかねたように口を差し挟んだ。
 彼は、かつて故州侯ザグレブ・ラファウドを力強く支えてきた右腕でもあり、半ば朋友のような存在でもあった。
 アルゴン騎兵隊の先頭に立つ第一騎兵隊を束ねてきた豪腕の武人として名高かった人物でもある。
 州侯が引き込むようになってから、自らも引退し、息子に後を委ねてはいたが、まだその意気軒昂さはいっかな衰えてはいなかった。

 しかし、ユアンはそんなタリフの厳しい視線にも、全くひるむ様子もなかった。
「……非礼は承知の上。だが、今どうしてもこの場で――このザグレブ侯のご遺体の前で、はっきりとさせておかねばならぬ一事であるゆえ……」
「今は神聖な大葬の儀式の最中であるぞ!侯のご霊前であるというに――一体何を考えて……!」
「――いや!」
 タリフ・プラウトがなおかつ眉を吊り上げて怒鳴りつけようとするのを、ザーレンが鋭く抑えた。
「何のことかはわからぬが、余程重要なこととみえる。かまわぬ。今、この場で申し立てられよ!」
 ザーレンの言葉は、研ぎ澄まされた刃物のような鋭い響きを含んでいた。
 そこに感じ取れる、どことなく切迫した声の調子が、ざわめきかけた堂内を再びしんと静まり返らせた。

 それは、この因縁に繋がれた二人の、最後の対決ともなり得る運命の一幕が今まさに切って落とされようとしている……そんな予兆を感じさせるような、緊迫した沈黙の一瞬であった。

                                                  
(...To be continued)


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