4 嵐の予感





 ――そして、同じ頃。

 州都ジェラトは、暗澹たる影に包まれていた。
 普段は人で賑わう街並みも、朝から閑散として、店も殆どが自主休業が多いせいか、人の姿は少ない。
 それも当然のことであろう。
 この日は、中央の教会堂で一般にも公開される正式な故アルゴン州侯ザグレブ・ラファウド・ロシュタットを送る葬送の儀式が執り行われるせいで、州全体に自粛の雰囲気が漂っているのだった。

 かつては、武人としても優れ、その寛容な温情厚い人柄から、民から絶対的な人気を誇ったロシュタット侯も、晩年病に倒れてからはめっきり公の場に出ることも少なくなり、政治の表舞台からは既に一線を退いているといってもよい状態が続いていた。
 代わって、長子のランス・ファロンが政務を代行したが、こちらは至って凡庸な人物で、事務的な事柄には秀でた能吏としての一面を発揮したが、政治家としての手腕は振るわず、また人民を引きつける指導者としての特性にも欠けていた。
 ただ一つ、彼が父から譲り受けた徳性は、その穏やかな優しい人柄であったろう。
 だが、人間としては褒め称えられるべきその徳性も、あまりに過剰すぎると、時に為政者としての道を阻むことともなり得る。

 ランス・ファロン・ロシュタットの不幸は、その生まれ落ちる場所を誤ったことだろう。彼が、仮に従兄弟ユアン・コークの立場にあったなら、事は万事うまく収まっていたかもしれない。
 ユアン・コークがロシュタットの正嫡子であったならば、最初からザーレン・ルードの出る幕はなかっただろう。
 多少目立つ存在として脚光を浴びることはあったかもしれないが、あくまでユアンを喰うまでには至らなかった筈である。
 むしろ、ユアンにとっては、ザーレンの存在は頼もしい右腕として歓迎すべきものとなり、ザーレンも二番目の位置で満足して終わったかもしれないのだ。

 もともと、二人は幼い頃はよく共に遊び、一緒にいることが多かった。その複雑な生育環境から、ともすれば引き込もりがちな幼いザーレンを気遣ったザグレブ侯が、年の近い遊び相手をと探し求めたときに目についたのが、この利発な妹の子の存在だった。
 ユアンの母は、ザグレブ・ラファウドの末の妹にあたるが、もともと病弱な体で、嫁してすぐユアンを生むと、そのままはかなく世を去った。
 ユアンにとっても、母親のいない寂しさを埋めるという意味で、ちょうど良い環境となった。
 この二人の少年は、そんな風に互いに行き来を繰り返すうちに、自然に気も合い、いつしか親密な関係を築くようになった。
 ザーレンにとっては、ランスとよりもむしろユアンとの方が兄弟のような絆を感じていたほどだった。

 ――しかし、そんな少年期の穏やかな関係も長くは続かなかった。
 成長していく中で、互いを取り巻く環境も変わり、さまざまな政争に巻き込まれていくにつれ、いつしか二人の間の関係は激変した。

 ランス・ファロンを補佐する位置についたユアン・コークにとって、兄を越えるまでに文武共に優れた能力を持ち、外見も人を惹きつけてやまないザーレン・ルードの存在はただ忌々しい以外の何者でもなかった。
 また、この微妙な人間の位置関係の中で、ユアンの中に眠っていた野心がふつふつと頭をもたげてきたせいもあっただろう。
 アルゴン州侯が亡くなった後、ランス・ファロンが後継となる。それは当然の成り行きであっただろう。
 だが、この凡庸な州侯の世が果たしていつまで続くことか。
 もしかすると、ランス・ファロンがふとしたことで、早世することもあり得るのではないか。
 そうなれば、その後は誰が州の為政者となるのか。――ランス・ファロンにはまだ男子がいない。

               *   *   *   *   *

「……どちらにしろ、アルゴンの先行きも怪しいな。こりゃあ、一波乱ありそうだ」

 居酒屋『酔いどれ猫』の店先に立っていた主人のサウロ・クライヴは暗澹たる面持ちで呟いた。
 普段は大らかで陽気な気性のサウロも、今はとても楽天的な見通しを立てることができなかった。がっしりとした大柄な体躯も、今日はどこか頼りなげに見えた。

「――えらく、弱気だなあ、あんたらしくもない」
 突然背後から声がかかって、サウロは驚いて振り返った。
「誰だ!」
 暗い店内には先程まで、確かに誰もいなかった筈だ。
 自分がこの入り口に立ちはだかっている以上、入ってくるのは裏口からしかない。
 しかし、裏から入ってくる人間といえば、限られている。

「その声……おまえ、レトウか?」
 サウロは目を眇めて、暗い奥に立つ人影を凝視した。
 人影がゆっくりと近づいてきて、その姿がはっきりと見えるようになった。
「よ、久し振りだな、親父」
 長身でひときわ大柄な体躯の若者がそこに立っていた。
 しかし、その顔をひと目みるなり、サウロは口をあんぐり開けた。

「リースから、おまえがここに来ることは聞いてたが――それにしても、こりゃあ……本当にレトウ・ヴィスタか。……驚いたな。何か、人相が変わったなあ、おまえさん」
 サウロがそう言うのも無理はなかった。
 レトウの特徴だったあの無精髭がきれいになくなっている。
 髪も短く切り、すっきりと整えられたその風貌は驚くほど若々しく、幼さを残しているといってもよいくらい、本来の年相応の少年らしいものに戻っていた。
 それだけに、彼が右肩に巻きつけている血の滲んだ包帯が、ことさら痛々しく映る。

「そんなに、変わったかい?参ったなあ……よっぽど、俺ってこわもてだったかな。さっき、テリーにも言われちまったよ」
 レトウは照れたように、笑った。
「まあ、その方が、いいんだけどよ。なんせ、面が割れてるからな、俺あ――」
「とにかく、中へ戻れ。ここじゃあ、人目につかんとも限らんからな」

 サウロは言うと、奥へ顎をしゃくった。レトウは頷き、中へ戻った。
 サウロは店先へ出ると、周囲に間断なく視線を注ぎ、何も異常がないことを確かめた上で、扉を閉め鍵をかけた。
「――で、その腕は大丈夫なのか」
 奥の台所へ入ると、サウロはレトウの包帯に目を向けて、気がかりそうに尋ねた。
「……ああ、何とか、大丈夫そうだ。――左でも十分剣は使えるからな」
 レトウはそう言うと、左の手を軽く振ってみせた。
 サウロは軽く息を吐いた。
「――とにかく、この辺りでもここのところ、『黒い狼』の噂でもちきりだ。今おまえさんはあまり出歩かん方がいい。
 いくら人相が変わったとはいえ、特におまえのその体躯じゃ、目立つからな。
 ……それで、肝心のあいつ――おまえらの首領(ボス)は、どうなった。リースは、何も言っちゃくれないんでな」

 サウロが問いかけると、レトウの顔が曇った。
「――そのことなんだが……」
 彼がためらうように言いかけたとき、不意に扉が開いた。
 あっと警戒の声を発する前に、その見慣れた姿が目の中に飛び込んできて、彼は安堵の息を吐いた。
 サウロもにっこりと笑みを浮かべた。
「――リース。遅かったな」
「ああ、いろいろ忙しくて、なかなか抜けてこれなかった。すまないな、親父」
 リース・クレインは、次いでレトウ・ヴィスタに視線を投げた。

「レトウ。何とか無事に戻ってこれたようだな」
「あんたのお陰で何とか、な。約束通り、何とかここまで辿り着けたぜ――だが、イサは……」
 レトウは暗い目を、問いかけるようにリースに向けた。
 そんなレトウに、リースは大丈夫だというように、軽く頷いてみせた。
「イサスは無事だ。所在もつかめた。とはいっても、あまり良い状況ともいえないが――」
 リースが言いかけた途端に、サウロの表情が変わった。
「おい、リース。それは、どういうことなんだ。イサはどうなっちまったっていうんだ!うまく、逃げたんじゃなかったのか。おまえがついていて、一体なんだって――」
 父が息を弾ませて、矢継ぎ早に言葉を投げかけるのを、リースは黙って受け止めた。
 サウロ・クライヴにとっても、この四年の年月の間に、イサス・ライヴァーは、自分の息子と同様に気にかけるべき存在となっていたのだ。
 もっとも、サウロは、もともとイサスを盗賊団の中に置くことには反対していた。
 リース以上に、少年を愛おしみ、折りあらば普通の生活に戻したいと思い続けてきた人間だったのだ。

 サウロ自身、権力や地位などとは終生無縁のような人間で、息子がアルゴン騎兵隊でしかるべき地位を得たとあっても、頑としてその暮らしぶりを変えようとはしなかった。
「いったい、何だって、この俺の息子が騎兵隊なんぞに入っちまったのかねえ……」
 未だにそうぼやくのが、サウロの習慣になっていた。
 そんな父親の姿を見てきたリースにとって、イサスの現状をありのままに話すのは心苦しいことでしかなかった。
 しかも、今……ザーレン・ルードのあの言葉が彼の胸を押し潰しそうになっている今、彼の心は余計に重かった。

 しかし、リースは気持ちを奮い立たせた。
 時間がない。一刻も早く、できるだけの手を打たねばならない。
「ユアン・コークが、イサスを手の内に置いている。――奴は、ザーレン様に、今日の大葬の式典にイサスを連れてくると言ったそうだ」
 それを聞いて、レトウが目を瞠った。
「な、何だって……!ちょ、ちょっと、待てよ。俺には何のことかさっぱりわからねえ。何だってユアン・コークはイサスを州侯の葬儀に引っ張り出さなきゃならねえんだ?」
 リースは首を振った。
「……俺にも詳しいことはわからない。だが、公の場を利用して、ザーレン様に何らかの揺さぶりをかけるつもりなのかもしれないな」
(そして、そこで何が起こるか――)
 そう思うと、リースの不安は否が応でも高まるのである。
(――イサスを、殺さねばならない――)
 ザーレンの言葉が、未だに彼の頭の中で冷たい鋼のように残響していた。
(……そんなことは――)
 あってはならない。そんなことは断じて許してはならないのだ、とリース・クレインは固く思い返した。
 ザーレンにとっても、イサスにとっても、それは絶対にあってはならぬことなのだ。
「リース……?」
 リースの異様に険しい表情に、レトウがやや驚いたような目を向けた。
 サウロも、不審気な視線を、息子に注いでいる。
 リースははっと我に返った。
「とにかく、何か考えがあるんなら、言ってくれ」
 そう言うレトウを、リースは真剣な眼差しで見返した。
「ああ、俺もそれでおまえに会いたかったんだ。かなり危険を伴うかもしれないが……おまえを、当てにしていいか、レトウ――」
 レトウはにやりと不敵な笑みを見せた。
「……いいぜ。聞かせてくれ。俺も、イサを助けたいんだ。そのためなら、何だってするぜ――」

                                        (...To be continued)


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