1 暴走する力
「私が興味を抱くのは、そのおまえの内に眠る古代フェールの『力』なのだ」
ユアンの言葉は一見穏やかであったが、その底にはどことなく威嚇するかのような響きが感じ取れた。厳しい、冷徹な表情がその面に表れていた。
「――ジェリーヌ」
ユアンに呼ばれ、その傍らに進み出た女が黒いヴェールを静かに取った。
その下から、現れ出たのは美しくも冷たく酷薄な面。その顔の半分は黒髪に隠れて見えない。
彼女は瞳を上げ、イサスを見た。その瞳の色が妖しい黄玉(トパーズ)の光に輝く。
人のものとも思えない不可思議なる色。その魔性を帯びた瞳が、イサスをとらえた。
「ユアン様。お下がりを」
ジェリーヌ・ヴァンダはそう言うと、ユアンに代わって少年のすぐ前に身を置いた。とらえた視線は離さぬまま。
――この女は、危ない。
再び、イサスの本能が強い警告を発する。しかし、今の彼にはもはやその危険から逃れようとするだけの意志も力も残っていなかった。
ただ、全身を覆う圧倒的な嫌悪感が、彼を苛んだ。それは殆ど生理的な拒絶感とでもいった方がよかっただろうか。
「……やめろ。俺に触るな――」
イサスは乾いた喉から絞り出すように、ようやくそれだけ言葉を発した。
しかし、それをも無視するかのように、女の手はためらいなく彼の胸元へと伸ばされた。
同時に女の口元が微かな動きを示し、何か解せぬような言葉が瞬時に吐き出されたようだった。その手の先が、次第に淡い光を帯び始める。
「……やめろ――!……」
ジェリーヌの指先が彼の胸に接触した瞬間、イサスの口から悲鳴に似たような苦痛の叫びが洩れ出た。
彼は本能的に身を捻ってその手から離れようとした。
そのとき、周りの空間が歪み、逃れようとするイサスの体を四方からがっちりと羽交い絞めにした。
(これが結界にいることの意味なのだ――おまえはどこへも逃げられない)
女の声が無情にイサスの脳裏に響いた。
そして、ジェリーヌの伸ばした指先がイサスの胸の石に触れた。
その刹那――冷たい衝撃が彼の全身を駆け抜けた。
(それに触れさせては、いけない――)
本能が必死で抵抗の叫びを上げるのに反して、彼の体は金縛りにあったかのように微動だにしなかった。
彼の体が弱っているせいなのか、それともジェリーヌ・ヴァンダの結界の力に抑えられているせいか。
ジェリーヌの手が石を掴み、それを紐から引きちぎった。
その瞬間、鋭い痛みとともに、イサスは自分の体の中で、何かが弾ける音が聞こえたような気がした。
それまで保たれていた均衡が崩れ、何かが砕け散ったような感覚――
途端に彼の体の深い奥底から何か強力な力が一気に溢れ出てきた。
それは、あまりにも激しすぎる力の奔流だった。
力に押され、呼吸もままならない状態で、気の遠くなるような痛みに切り刻まれながら、彼はただ声にもならぬ悲鳴を上げていた。
イサスの全身から発せられた強烈な閃光が、部屋全体を真っ白に包み込み、人々は皆、目に見えぬ力の衝撃に圧されるとともに、その目眩めく光の洪水に耐え切れず、目を両手で覆いながら、その場にうずくまった。
ジェリーヌは、何とか踏み止まり更に触手を伸ばそうとしたが、力の波の激しさに抗しきれず、後退せざるを得なくなった。
顔半分を覆っていた彼女の髪が後ろへ吹き飛ばされ、その下から焼け爛れた醜い半面を露にした。
しかし彼女は気にする風もなく、ただ驚愕と畏怖に満ちた瞳を大きく見開いていた。彼女は身内に震えが走るのを止めることができなかった。
(このままでは私の結界が、もたぬ――!)
イサスの中から解き放たれた力は、間違いなく彼女の結界の力をも突き破ろうとしている。
そして結界が破られたときには、この無軌道に暴走しようとする力の洪水がはたして外界にどのような災厄をもたらすか、さすがの彼女にも想像がつかなかった。
ジェリーヌは少年からもぎ取った、手の内の緑石を見た。
石を包んでいた護符の袋が破け散り、剥き出しの石の表面に先程まで見えていた緑の光源は既にその光を失っている。
(どうやら、戦術を誤ったか。……フェザーンの力は想像以上のものだった。再びこの石で封じ込めねばならぬようだが、この私の力でできるかどうか――)
そう思うとさすがの彼女の心も重くなった。
一方、ユアン・コークの表情は対照的だった。
「これが、『エランディル』の力なのか。何という……まさにこの世のものとも思われぬ――」
彼は、熱に浮かされたかのように低く呟いていた。彼には恐怖の感情はなかった。
眩しさを避けるように、腕をかざしながらも、その下から覗く面にはただ、魅入られたような、歓喜にも近い表情がありありと現れている。
彼の眼は一時もイサスから離れようとはしない。
(そうだ……もっと、存分に見せるがよい。フェールの古の力を……
――素晴らしい……まさしく、私が夢に描いた力そのものだ。私が欲しいと思った強さと輝きに満ちあふれている。
これほどの力をその身に宿している者がいようとは……何と羨むべき……そしてまた、何とも嫉ましいことか……!)
しかしイサスは、自分の体の内奥から発するその激しい力の波に翻弄され、かつて感じたことのないような強い恐れに身を震わせていた。
自分の意志とは異なるところで、未知なる力が勝手に暴走を始めている。そして、彼にはどうしてもそれを止めることができないのだった。
(――誰か……!)
(――誰か……これを止めてくれ……!)
イサスは激痛に悶えながら、悲痛な叫びを繰り返すばかりだった。
そのとき突然扉の前の空間が大きく歪んだかと思うと、銀髪の若者の姿が鮮やかに現れ出た。
その全身には微かに白い燐気が漂っている。銀の髪がひときわ神秘的な輝きを映していた。
「ジェリーヌ・ヴァンダ……はやったな。愚かな真似をしたものだ。『契約』の力を侮ったか」
「……エルダー・ヴァーン――!」
ジェリーヌが眉を上げた。その怒りに満ちた眼が青年を睨みつける。
しかしエルダーは構わず、口中で何か呟くなりその眼をイサスへ振り向けた。
彼の瞳の碧が一瞬強い光を閃かせたかのように見えた。
イサスの混濁した目が、目眩めく光の渦の中でその碧を捉えた。
(静まりたまえ、我が偉大なる父祖の生み出したる力……エルム・ヌ・ランズ・ディオウル。今はまだ、時至らぬ。そなたの出でうる時ではない。――『焔の守護者』(レグス・ヌ・フューレ)の名にかけて、そなたの主(あるじ)たる肉体に決して危害は与えぬことを誓う……!)
エルダー・ヴァーンの声の凛としたその強い響きが、イサスの頭の奥を駆け抜けていく。
それと同時に、気のせいか僅かに体の中から噴出し続ける力の波がやや弱まったかのようであった。
イサスは、不思議な思いに駆られ、ほぼ無意識に反芻した。
――『焔の守護者』(レグス・ヌ・フューレ)……
(なぜだろう。……俺は、その名を知っている……?)
だが、思考は長くは続かなかった。彼の意識はもはや半分以上霞んでいたのだ。
「石を貸せ。ジェリーヌ・ヴァンダ!……もう一度それで『エランディル』を封印する」
エルダーはジェリーヌが持つ緑石に目を向けた。
「……そなたに、できるのか」
ジェリーヌの目に微かな疑惑の色が浮かぶ。
「おまえにできぬというのなら、俺がやってみるしかあるまい。『塔』で学んだ者にしかできぬ業だ。今ここで封じなければ、結界が崩れたときには間違いなくこの館など、跡形もなく吹き飛んでしまうだろう」
(――いや、館どころか、下手をすればもっと大きな被害が出るかもしれないが……)
エルダーはひそかに心の中でそう付け足していた。その顔に皮肉な笑みが広がった。
「確かにそなたの言う通り、時間の問題だな。現にそなたがこうしてたやすく我が結界の中に侵入しているのが何よりの証拠だ。――止むを得ぬ」
ジェリーヌは渋々ながら、石を彼に渡した。
エルダーは石を受け取ると、軽く目を閉じた。石の感触を確かめ、自分の気を石の中心に集中する。
彼の全身に強い衝撃が走った。
石の中の何かが激しく抵抗しようとする。
じわりと、エルダーの額に汗が滲んだ。彼の口元が僅かに動き、低い呟きが洩れた。
彼の体から白い焔が噴き上がったかのように見えたが、エランディルの光の渦の中にあってはそれもあまりはっきりとはわからない。
しかし彼の手の中では、それに合わせたかのように、石が小さく閃いたかと思うやいなや、見る見るその緑の不思議な光芒を強めていく。
エルダーは再び目を開いた。その碧の双眸の奥には、魔力を湛えた白い光が焔となって燃え立っている。
「――イサス!」
エルダーがその名を叫ぶと、イサスははっと我に返り、反射的にその面を上げた。
エルダーの瞳が――その白い焔が、すかさず彼を捉えた。
(古の力よ、静まれ――!)
エルダーの体全体を包むように焔が燃え立ち、凄まじいまでの激流となってイサスの方へ流れた。
イサスは途端に自分の中の力が方向を失って、行きつ戻りつし始めるのを感じた。焔の力に圧されているのだ。
力が悶え始めている。エルダー・ヴァーンが、力を抑えようと試みていることが、朧気ながら彼にもわかった。今の彼にはただエルダーに身を委ねるしかなかった。
息のできないような、目眩めく光の洪水の中に身をさらしながら、エルダー・ヴァーンはなおも少年から視線をそらさなかった。そらしたら最後、彼を二度と捉えられなくなってしまうだろう。
全身から汗が噴き出す。彼は歯を喰いしばり、頑強な力の抵抗に耐えた。
エランディルの光が白い焔とぶつかり、せめぎあい、互いに渦を巻いて、大きくうねった。焔が光を包み込もうとする。
力の激突、拮抗――果てなく続くかに見えるような、その繰り返し。
ともすれば、隙をついて光の渦が何とか逃れ出ようとするが、焔の力がそれに勝る勢いですぐに覆いかぶさってくる。次第に光の力は弱くなりつつあった。
焼けつくような熱い焔の舌が、イサスの体を撫でるように掠めていった。
意識が急速に遠のいていき、彼の体はその場にがっくりと崩折れていった。
光は弱まりながらも、幾重もの光線に分化して、彼の体の周囲を生き物のように駆け巡っていた。
エルダーは、光る緑石を手に、ゆっくりとイサスに近づいていった。
それとともに、彼の体を包んでいた白焔も、その火焔を少しずつ鎮めていく。
彼がイサスのすぐ前に屈みこんだときには、既に双方ともに常と変わらぬ状態に戻っていた。
エルダーが石をイサスの手に握らせると、イサスはぴくりと体を震わせ、目を開けた。
石はイサスの手の中で、一瞬強い光を放ったようにみえたが、すぐに色を失い、それから後は何の変化の兆しも見せなかった。
「……なぜ……なんだ……?」
石を見つめながら、慄然たる思いでイサスは呟いた。
(……なぜ、俺の中に……こんな力がある……?)
古代フェールの不可思議なる力。彼の内に眠っていたその力が、目覚めた。
「あなたの持つ力の恐ろしさが、おわかりになられたか」
そう言うエルダー・ヴァーンの表情は常ならぬ厳しさに満ちていたが、同時にその顔には疲労の色も濃く表れていた。まだ呼吸もひどく乱れている。
彼は明らかに、ひどく消耗している様子だった。
暴走するエランディルの力を抑えるため全力を注ぎ込んでいたのだから、それも当然のことであったろう。
エルダーを見上げて、イサスは再び不思議な感覚に囚われた。
(俺は、こいつをずっと知っていた。いや、こいつをというより、こいつの中にあるあの『焔』の感覚を――)
それは、はたして同じ古の血を受ける者同士であるがゆえの、同族的直感であったのかどうか。
(そう……あなたは、いずれいやでも学ばねばならなくなるだろう。――自らの力を御する方法(すべ)を……)
エルダー・ヴァーンは冷静な目で、目の前の少年を見返した。
(――さなくば、いつかあなたは、その力に飲み込まれ、自らの身ばかりか、この全世界さえも滅ぼすことになるのだろうから……)
(...To be continued)
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