2 狂気への序曲
その朝、ザーレン・ルードは自室で黒い式服の襟を正す自分の姿を鏡越しに眺めながら、物思いに耽っていた。
今日は父であったアルゴン州侯、故ザグレブ・ラファウドの葬儀の式が営まれることになっていた。
黒地に金の縁飾りのついた軍服の胸には、このアルゴン州を代々統治してきたロシュタット家の双槍の紋と聖王家の印である光の神のモチーフを組み合わせた文様が鮮やかに縫い込まれている。
濃茶色のやや長めの髪をきれいに後ろへ撫でつけ、その秀麗な眉目がくっきりと面に見える。
美しいが、どこか繊細で翳のあるその面立ちは、明るい南国のこの地アルゴンの者としては、やや似つかわしくないようにも思われた。
ところが、いったん口を開かせると、彼の不思議な話術やその人懐こい笑顔に誰もが忽ちのうちに引き込まれ、数分もすれば話した相手はそんな彼の魅力にすっかり魂を抜かれたようになってしまうのであった。
人は好いが、その容姿にも言動にもただ凡庸さしか感じさせないランス・ファロンに比べて、この異母弟の存在はあまりにも目立ちすぎた。
人々は自ずとザーレン・ルードに賛美と憧憬の目を注ぎ、正嫡子であるランス・ファロンをそれとなく軽んじるようになった。
そしてこの風潮こそ、ランス・ファロンの周囲に集う者たちを脅かす不安の源であったのだ。
もっとも、当のランス・ファロン自身は、一向に気に懸ける様子はなかったのだが。
というのも彼の関心は、専ら最近生まれたばかりの小さな娘にのみ向けられており、政治抗争には全く介入する意志を示さなかったからである。
そんな中で、ランス・ファロン派の筆頭として急速に頭角を現してきたのが、彼の従兄弟でもあるユアン・コークであった。
武人としても秀で、アルゴン騎兵団の中でも最も荒々しく勇猛果敢で知られる第三部隊を自ら統率する有能な指揮官であると同時に、政争の裏舞台で常に暗躍する陰の策士としても恐れられていた。
このユアン・コークとザーレン・ルードが水面下において、熾烈な覇権争いを繰り広げてきたことは周知の事実であり、それだけに、今回の州侯逝去がこの勢力図に新たにどのような波紋を投げかけるものかと、彼らの周辺ではにわかに緊張感が高まり始めた。
(結局ナルサスからの使者は仕留めそこなったか――)
ユアンと中央貴族との接触は最近特に顕著に見られるようになっていた。
どうやら、侯爵位の継承権のことについて、中央部からの圧力を期待してのことらしかったが、ザーレンはそのことをきっかけとして中央からの要らぬ干渉を招くことを危惧していた。
特に今回のナルサスの領主は、まだ年若いが、いろいろと芳しからぬ噂の耐えぬ人物である。
一説では、異常なまでに魔術に傾倒し、『塔』出身の魔導士くずれのような怪しげな者を多く召し抱えているらしい。
最近ではユアン・コークの周辺にもその影響が現れている。
彼の傍に侍っている妙な女。その邪悪な陰を帯びた眼差しに、ザーレンは女がただの術師以上の存在であることを確信した。
あの奇妙な瞳の色。――女の目の中には、禁忌に足を踏み入れた者のみの持つ魔の光が確かに宿っているように見えた。
(あの女も確かナルサスから来たのではなかったか――とすると、今回の密使を逃したのはますます痛いな)
しかし、もう一つ彼の頭の中から離れないことがあった。
(……イサス――)
懐刀だった少年をユアン・コークの手中に奪われたことは、彼にとっては最大の痛手であったかもしれぬ。
それを初めてリース・クレインから聞いたとき、彼は珍しく動揺の色を隠せなかった。
リースは単純に彼がイサスの身を案じているのだと受け止めたが、実はザーレンの胸中は、もっと複雑なものだった。
(生け捕りにされたか……これは厄介なことになったものだ――)
ザーレンの瞳が、暗澹とした翳の中に沈んでいた。
(――なぜ、殺さなかったのだ……生かしておくにはそれなりの理由があるはず。私を潰す道具として利用するためだと考えれば簡単だが、それだけとも思えない。他に何かわけでもあるのか。ユアン・コーク……一体何を考えている――)
彼がそんな考えを巡らせていたとき、ノックの音がした。
「――入れ」
静かに扉が開くと、リース・クレインが顔を覗かせた。その顔には明らかな戸惑いが表れている。
「どうした、リース」
ザーレンが不審そうに問いかけると、リースはためらいがちに切り出した。
「……ユアン・コーク様がおいでになり、面会を求めておられるのですが……」
「なに、ユアンが……?」
意外な名前に、ザーレンは驚きを隠せなかった。
ユアン・コークがザーレンの元を訪れるなど、幼い頃以来のことだ。近年特に犬猿の仲になってからは、口を利くことさえ少なくなった。
そんなユアンが、今この屋敷に出向いてきたという。
「わかった――通せ。ここで会おう」
「よろしいのですか」
リースが目を見開いた。
「かまわぬ。よほど大事な用があるのだろう。こちらとしても是非聞いてみたい」
リースは小さく息を吐き出した。
「……わかりました。では仰せの通りに――」
彼が姿を消して数刻後、扉から姿を現したのは、軍服の正装に身を包んだユアン・コークであった。
ザーレンと同じくこちらも喪に服す意味であろうか、全身が黒を基調とした地味な色合いである。
「突然押しかけて、申し訳ない」
ユアン・コークはにこやかな笑みを浮かべながら、軽く頭を下げた。
ザーレンはそんなユアンに探るような視線を投げた。
「――確かに驚いたが……一体何の用だろうか。このようにわざわざ私のもとへ出向いてくるなど、子供の頃以来ではないか――従兄上(あにうえ)」
久しく使わなかったその呼びかけが思わず口に出たとき、ふとザーレンは、子供の頃よくこの屋敷の庭でユアンに遊んでもらったことを何となく思い出していた。
ユアンは微笑した。彼も同じ思いを持っていたに違いない。
「そうですね。遠い昔のことのようだ。あの頃はまさか、このような関係になるとは思いもしなかったが。私たちは仲の良い従兄弟というだけで終わるはずでした。残念なことです」
「……言っておくが、私はまだあなたのことを兄のように思っている。私には侯爵位に対する野心など微塵もない。なのに、あなた方が勝手にそう思い込んで事を大きくしているだけなのだから」
ザーレンが言うと、ユアンは肩を竦めた。
「いやいや、無論私とて、あなたと敵対したいわけではないのですよ。ただ、今の状態ではそうならざるを得ないのも確かで……。とにかく、あなたの周囲には何かと疑惑を抱かせるような材料が多すぎますからね。……今回の盗賊団の一件も然りだ」
ユアンはさりげなく言いながら、横目使いにザーレンの反応を窺った。
「――何のことか、わからないが」
ザーレンの表情には、特に何の変化も現れなかった。
ユアンはそんなザーレンの様子を興味深げに眺めた。
「なるほど。あくまで知らぬことで通すおつもりか……」
ユアンのどこか挑戦的な言葉にも、ザーレンはただ黙っていた。
「……哀れなものだな。あちらはあなたのために、いつでも命を投げ出す覚悟でいるというのに。
肝心の飼い主は、保身のためにさっさと見切りをつける、か。……なら、私もわざわざここまで出向く必要もなかったわけだ」
ユアンは皮肉めいた微笑を浮かべた。
「あれを捕獲したのは私だが、他人のものである以上、そう勝手に自分のものにはできない。飼い主であるあなたに、一言許可を求めようと思ったのでね。しかし、あなたが知らぬというなら、別にどうでもいいわけだ。――とにかく、あれは素晴らしい。どこの誰があれほどまでに育て上げたのかは知らないが、あの様子では聖都の騎士にも決して引けをとらぬだろうな。殺してしまうには、あまりに惜しい。――だから、私はあの獣を、自分のものにすることに決めたよ。ザーレン・ルード。あれにはまだまだ使い道がありそうだからね」
ザーレンは依然として何も口を開こうとはしなかった。しかし、その目の奥にはどこか激しい光がちらついているようにも見えた。
「裏切られた狼が、どれだけ危険な存在になるものか――とにかく、気をつけることだな。それに今ひとつ……」
ユアンの目に妖しい光が瞬いた。
「あなたは知っておられたか。あの狼の中にある大きな秘密を……。古代フェールの力を――」
「古代フェールの力……?」
初めて、ザーレンの唇が動いた。
彼はそのとき、殆ど無意識にユアンの言葉を繰り返していた。彼の中で、確かに何か引っかかるものがあったのだ。
イサスの胸に下げられた、あの緑碧の美しい石の輝きが彼の脳裏に微かにちらついた――
「そう、あれは古代より伝わる恐るべき魔の力だ。私は目の前でその力の発現する場面を見せてもらった。だからこそ、奴を殺さぬのだよ。あれだけ素晴らしい、世界をも御せるほどの強い力の源をおいそれと手放すわけにはいかぬのでね」
ユアンは熱を帯びた目で、勝ち誇ったようにザーレンを見つめた。
それを見つめていると、ザーレンはなぜか心が薄ら寒くなる思いがした。
確かにユアン・コークは昔から野心に溢れ、人一倍上昇志向も強かったが、それにしても、今の彼の様子は尋常ではない。
少なくとも、それまでザーレンが見知ってきたユアンとは、どこか違うように思える。
それも、ここ数日で、突然にこのような変化が現れるとは――。
(一体どうしたというのだ、ユアンは……?なぜ、こんな妙な目をしているのか……)
これは――
これは――魔に魅入られた者の目だ。
(イサス……おまえは一体、この男に何を見せたというのだ――)
ザーレンの胸の内を、戦慄の思いが駆け抜けていった。
しかし、彼は表向きには表情を変えなかった。ただ、目の前の男を冷然と見据えるだけだった。
ユアンがそんなザーレンの胸の内を察していたのかどうか。ただ、彼の顔に挑発するような笑みが広がった。
「――では、また後ほど、会堂でお会いしましょう。そのときには、できればあなたの大切な狼も連れて行くつもりです。飼い主に最後の挨拶をさせるために、ね」
ユアンは皮肉交じりに言うと、次のザーレンの言葉を待った。
しかし、ザーレンは淡白な表情で、それをやり過ごした。
ユアンは小さく肩をすくめると、後は何も言わず、そのまま踵を返して出て行った。
その背を見送りながら、ザーレンはしばし身じろぎもせず、その場に立ち尽くしていた。
ユアンが出て行って間もなく、リース・クレインが急ぎ足に入ってきた。
「ザーレン様……あのお方は、何と――?」
リースはザーレンの表情を窺いながら、さっそく問いかけた。
しかし、ザーレンは一心に自分の考えに耽っており、最初はリースがいることにも気付いていないかのようだった。
「ああ、リース。そこにいたのか」
ザーレンは初めて見たように、リースに視線を向けた。
彼の視線はどこか虚ろで、焦点が定まっていないかのように見えた。
そんなザーレンの表情がリースを不安にさせた。
「大丈夫ですか。ザーレン様。どこか、ご気分でも……?」
心配げに声をかけるリースに、ザーレンは軽く手を振っていなした。
「いや、大丈夫だ。ただ、少し考えに耽っていた……」
「あの……まさかユアン様はイサスについて、何か言っておられたのでは――」
リースがためらいがちに言いかけると、
「そのことだが――」
遮るようにザーレンの言葉がかぶさってきた。
ザーレンの厳しい表情を見て、リースはどきりとした。
「まさか、ザーレン様……」
リースはその先を聞くのが恐ろしいような気がした。
彼が言おうとしていることが、突然にして、はっきりと読めたのである。
リースはその考えに、愕然と瞬いた。
(まさか、あなたは……)
その思いを読み取ったかのように、ザーレンはリースに強い視線を向けた。
「そうだ、リース・クレイン。それが私の出した結論だ」
そう言い切るザーレンは冷やかではあるが、どこか憂いを含んだ寂しげな顔をしていた。
(そうだ……止むを得ぬのだ。今、あいつがユアン・コークの手の中にあることが、いかに危険なことであるか。
これは――私個人の問題ではない。イサスの中にある『何か』が、ユアン・コークの狂気に火をつけたのだ。
あれは……もはや、人の領域を越えようとしている者の目だった。何か、違うものに憑かれた目――)
ザーレンは一瞬固く目を閉じ、深く息を吐いた。
次に目を開けたときには、彼はずっと冷静な面持ちで、リース・クレインと瞳を合わせた。
「そうだ、リース・クレイン。私の心は決まった」
ザーレンの口調は、相手にも決意を促すかのような、やや強い響きを含んでいた。
「――あいつを……イサスを、殺さねばならない」
(...To be continued)
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