4 闇に魅入られし者





 馬車が止まると、エルダー・ヴァーンはゆっくりと立ち上がった。

「どうやら、着いたようですね」
 彼はイサスの足の縄を手早くほどいた。
「ご苦労だったな、エルダー・ヴァーン。狼小僧は、よもやくたばってはおるまいな」
 幌が取り払われ、数人のアルゴン騎兵の顔が覗いた。その中央に立っていた巨躯は、無論モルディ・ルハトだった。
 彼は荷台の中へ乗り込んでくると、イサスの体をぐいと引っ張り上げた。

「ふふん、まだ息はあるようだな。なかなかしぶとい」
 モルディは、少年の顔を一瞥すると、鼻を鳴らした。しかし、その顔には僅かに安堵の色が表れていた。
 エルダーの言った通り、イサスが息をしていなければ一番困った立場に追いやられるのは彼自身であっただろうということは、その表情から明らかに見てとれた。

 イサスは何も言わず、ただモルディを暗い目で見返した。
「ユアン様がお待ちかねだ。さあ、降りろ」
 モルディは少年の体を、乱暴に幌の外へ突き出した。外から他の騎兵が彼を受け止めるようにして、下へ降ろした。
 イサスは久し振りに地を踏みしめる感覚に、体がついていけず、少し平衡を崩して足元をふらつかせた。
 外の涼しい空気が彼の鼻孔に新鮮な息吹を注ぎ込んだ。周囲は既に暮色が濃くなっていた。
 ――すると、あれから既に丸一日が経過したのか、とイサスはぼんやりと思った。
 モルディとの戦いで意識を失ってから、彼には時間の感覚が全くなくなっていた。傷の痛みに押されてか、空腹感も殆ど起こらないのでそれは尚更だった。

 薄闇に包まれた中、目の前に赤い石造りの城館が聳え立っていた。
 彼はその赤錆びた色合いの建物に見覚えがあった。
 ――ユアン・コークの館だ。
 しかし、さすがに実際に中へ足を踏み入れたことはなかった。
 ユアン・コーク本人の姿はといえば、実のところまだ彼は一度も見たことがなかった。

 彼はアルゴン騎兵に両脇をはさまれるようにして、時には背中を突つかれながら、玄関の重々しい二重扉の間をくぐった。
 中へ入った途端に、背後で重々しい音を響かせて扉が閉まる音が聞こえた。
 前を行くモルディ・ルハトと両脇の騎兵、それにいつのまにか少し離れた斜め後ろを、歩くエルダー・ヴァーンの姿がちらりとイサスの視野を掠めた。

 内部は、大方の身分ある者の屋敷の例に違わず、中世からのいかにも年代を経たらしい、古めかしい造りになっていた。
 一階は吹き抜けになっており、豪奢な赤い絨毯が一面に敷き詰められている。中央にやはり絨毯が敷かれた大きな幅広い階段が弧を描いて二階へと続いていた。
 まだどの燭台にも灯は入っておらず、全体的に薄暗い印象だった。

 その階段を彼らは上がっていった。上がりきると、正面にそのまま天井の高い、長い廊下が続いている。
 不意に、横から手燭を持った女性が現れた。
 頭を黒いレースのヴェールですっぽりと覆い、俯いているので顔はよく見えない。
 身体をぴったりと包み隠した黒いドレスの裾は長く、彼女が歩く度、軽く床を引きずっている。
 召し使いという雰囲気はないが、かといって女主人とも思えず、何ともその場にはそぐわない。
 黒い衣服に身を包み、俯きながらひっそりと歩く姿は、見る者にまるで寡婦のような印象を与えた。

 彼女は軽く頭を下げると、手燭で廊下の奥を示し、先頭に立って彼らを導いた。
 モルディたちも、よく知っているものか、さして不審気な様子も見せず、黙って頷くと女の後に従った。

 しかし、イサスは女が彼の傍を通り過ぎるとき、ちらと刺すような視線を投げかけたことに気付き、身を硬くした。
 こちらからは顔は見えなかったが、女の方は確かに彼を認めたのだ。そしてそこには、気のせいか何かしら邪悪な空気が存在していた。

 ――この女は、敵だ。
 その瞬間、彼の直感がはっきりとそう告げていた。
 もっとも、もともと彼は敵の中に捕われている身なのだから、敵以外いるわけがないのだが。
 しかし、女から感じたものは、それとはどこか違う類のものだった。
 ずっと、遥かに凶々しいなにか――別の脅威といったものか。それは、彼の本能が自然に嗅ぎ取ったものだった。

 ふと視野の隅に入ったエルダー・ヴァーンの表情を見ると、女の背を見つめるエルダーの顔も、とても険しいものであった。
 強い不信と警戒心。そこにはむしろ敵意すら、見出せたかもしれない。

(こいつにとっても、ここは気の抜けない敵地ということなのか……)
 そもそもエルダー・ヴァーンとユアン・コークはどういうつながりがあるのか、イサスには何もわかっていない。すべてが謎に包まれたまま、ここまできた。
 エルダーが敵なのか味方なのか、彼の存在自体が謎だらけだ。
 古代フェールの錬金術師の子孫。『焔の守護者』――イサスにとってはあまりにも現実離れしたことばかりで、実際に彼が何をもくろみ、なぜここにいるのかということについては、まったくといってよいほど、わかっていないのだ。

 そんなことを考えているうちに、いつのまにか歩みが遅くなっていたのだろう。右脇を歩く兵士に、ぐいと強く縄を引っ張られて、イサスは我に返った。
 彼らは廊下の突き当たり、重層な両開きの扉のすぐ手前まできていた。
 そこで、女が振り返り、ヴェールの下からじっと一同を見やった。
 彼女はすっとエルダー・ヴァーンの方へ近寄り、軽く会釈した。

「エルダー・ヴァーンさま。申し訳ございませんが、あなたさまはこちらでお待ちを」
 エルダーの眉が僅かに上がった。
「それはユアン殿のご意志か、それともおまえ独自の判断か」
 女はふっと息をつき、軽く肩をすくめてみせた。顔は見えずとも、それが嘲笑を含んだ仕草であることは誰の目にも明らかであった。
「無論、主の命によるものです。それ以外に、何がありましょう。あなたさまのお力は、あまりに強すぎますゆえにわたくしの結界の中には、相容れないので止む無く。他意はございませぬ。それともまさか、このわたくしが、あなたさまに疑心を抱いているとでも、お考えで?――わたくしとあなたは、かつて同じ塔で学んだ同志ではありませぬか」
「『同志』……か。おまえの口からそのような言葉が出るとは、思いもよらなかったな。ジェリーヌ・ヴァンダ」
 今度はエルダーが皮肉な笑みを浮かべた。
「まあ、いい。俺はここで待っている。ただし、警告しておく。おまえが何をもくろんでいようが、無駄なことだ。石は、主との契約を違えぬもの。所詮おまえなどの手に負える範囲のことではない。下手に手を出せば、火傷するのが落ちだぞ。……用心するがいい」
 ジェリーヌ・ヴァンダは一瞬ぴくりと怒ったように肩を震わせたが、敢えて何も答えず、さっさとエルダーから離れると、両扉に手を触れた。
 扉が音もなく開き、彼女はエルダーを残した一団を室内へ導いた。
(結界、だと。相変わらず、用意周到なことだ。そんなに、この俺の……いや、わが君の力が怖いのか、ユアン・コーク。……おまえもまた、『闇に従いし者』になろうとしているのか。身の程もわきまえず――愚かしいことだ)

                *   *   *   *   *

 エルダー・ヴァーンは扉が閉まるのを眺めながら、心の内でそっと呟いた。

 室内は一面に赤い毛織の絨毯が敷き詰められており、歩く足音を吸収した。
 一歩足を踏み入れるなり、イサスには室内が大きく歪んだように見えた。
 同時に体を通り抜ける奇妙な感覚。彼は目眩を覚えて一瞬、立ちすくんだ。
 ふと横を見ると、彼の両脇にいた兵士たちも同じように青ざめた表情をして足を止めていた。

(結界……といっていたな。この部屋には何かの呪術が施されているということか。恐らく、あの女が……)
 見ると、先に立つ女は平然と歩を進めている。
 イサスは一瞬襲った嘔吐をこらえて、再び足を動かした。
 幸いなことに、気持ちの悪さは長くは続かなかった。
 呪術によって歪められた空間の歪みが、そこへ入る瞬間に人の感覚器官に刺激を与えるのだろう。イサスは気を取り直し、改めて目の前を見た。

 さほど広くもない書斎だった。真正面に古めかしい大きな文机が置かれ、その前にこの部屋の主人が座って一同を出迎えていた。
 その人物こそがユアン・コークだった。

 まだ若い。
 ザーレン・ルードと同じくらいか少し上……それでも、せいぜい二十代後半といったところか。
 やや痩身であるが、顔つきは武人としての厳しさや、知的な政治家としての切れの良さを一目で相手に強く印象付けるものだった。
 尖った顎やきつく吊り上がり気味の鋭い光を閃かせる両眼を見ると、なるほど一筋縄ではいかなそうな切れ者としての風格を感じさせる。
 ザーレン・ルードとはまた違った意味で、彼も人の上に立つ者としての独特の風貌を漂わせていた。

「……ようやく、来たか」
 彼らが机からほどよい距離で立ち止まり、兵士が軽く敬礼をすると、ユアン・コークは椅子に身をもたせたまま、ゆっくりと目の前の少年に視線を走らせた。
「……また、えらく若いな。このような子供が『黒い狼』の頭目であったとは、全く驚いたものだ。――ザーレン・ルードも何を考えているものか。……そなた、名は何という」
 ユアンは少年に問いかけたが、答えはなかった。

 イサスは黙って下を向いたまま、顔を上げようともしない。
「おい、何をしている。ユアン様の聞かれたことに答えぬか!」
 そんなイサスの憮然たる態度に、傍らの兵士は苛立ちを抑えきれず、彼の体を小突いて答えを促した。
 しかし、少年は依然として何の反応も見せなかった。

「この……!」
 さらに怒鳴りつけようとする兵士をユアンは軽く手でいなし、黙らせた。
「――よい。何もおまえたちがそのようにむきになることもなかろう。黙りたいなら、黙らせておけばよい」
 ユアンは苦笑したが、ふと少年の微かな息遣いの荒さに気付き、その血の滲んだ体に眼を止めると、僅かに眉をしかめた。
「それに、どうやらひどい怪我をしているようだ。口の聞ける状態ではないのかもしれんな。
 ――何もそのように念入りに縛っておく必要もあるまい。縄を解いてやれ」

「恐れながら、ユアン様。それはなりませぬ!」
 そのとき、すかさず後方からモルディ・ルハトが進み出て、異議を唱えた。
「――いかに手傷を負っていようと、こやつは自由にするにはあまりに危険すぎる獣。このままにしておくのがよろしいかと」
 ユアンは目を眇めた。
「……ほう、これはまた、おまえらしからぬ弱気な発言だな、モルディ・ルハト。さすがのおまえも、よほど手こずらされたものとみえる。だがここでは心配は無用だ。この部屋はジェリーヌ・ヴァルダに結界を張らせているゆえ、逃げ出すことは不可能なのだから」
 ユアンが揶揄するように言うと、モルディはやや鼻白んだ様子だったが、主の断固とした顔つきを見て、渋々引き下がった。
 ユアンに命じられ、イサスの両脇にいた兵士が戸惑いながら彼の両手を縛っていた縄をほどいた。
 いましめが解かれ、両手が自由になったその瞬間、イサスの全身が突然息を吹き返したかのように、動いた。
 驚いた兵士の目には、少年の体がすっと地に沈んだかに見えた。

 何がどうなったかわからぬままに、兵士は足をすくわれ、あっと声を上げる間もなく、ほどいた縄を持ったままその場に横転した。
 もう一人の兵士が慌てて剣を抜こうと腰に手を回す前に、その足にも少年の強烈な蹴りが入り、彼もまた平衡を失って転倒した。
 イサスは倒れた兵士が気を取り直す前に、既にその腰鞘から剣を素早く抜き取っていた。その刃が、起き上がろうとした兵士の首筋を容赦なく掻き切った。

 血飛沫と悲鳴。
 他の者が我に返ったときには、既に二人のアルゴン兵はイサスの足元に動かぬ体を横たえていた。
 全てはほんの束の間の出来事であり、その場にいた者たちは皆、しばし呆気に取られてその場に立ちすくんだ。
(――なんと、大胆なことをする……!)
 ユアン・コークは目を瞠った。
 それは、彼には予測もつかぬ行動……であったか。
 いや、或いはそうではなかったかもしれない。
 モルディ・ルハトが警告した時、彼も心のどこかで、この少年が自由になった瞬間にこのような行動に出るのではないかと、漠然と予想していたはずだ。
 それでも、敢えて彼は賭けに出た。それは、彼の内にひそむ、また異なる欲求が自然とそうさせたものかもしれない。

 ――この獣の動きを見てみたい。
 そんな、はなはだ理にかなわぬような、それでいて同時に胸の高鳴りを抑え切れないほどの、ひそやかな興奮を伴う欲求。
 そう思わせずにおれない何かがこの少年の気から発していたのか。

(しかし、美しい動きだ。……ザーレンが仕込んだのか。それとも、生まれついてのものか――)
 そのとき、何とはなしに彼はやや離れたところに控えていた黒衣の女性に眼をやった。
 ヴェールに包まれたまま、その顔は見えないながらも、彼女もまた憑かれたようにイサスに視線を注いでいることがわかった。

(やはり、そなたも興味をそそられるか。ジェリーヌ・ヴァンダ。――いや、そなたの場合は少し違う意味でということであろうが……そなたは、この獣の中に何を見る――)
 ユアンは僅かに口の端を上げた。
「この……!」
 一方、気を取り直したモルディ・ルハトは怒りも露わに剣を抜き、イサスに向かっていった。
 しかし、その前に少年の身軽な体はひらりと文机の上に躍り上がった。剣が宙に振り上げられる。

「……ユアン様!」
 モルディが鋭く警告の叫びを上げた。
「ユアン・コーク!……ザーレンのために、おまえを殺す」
 イサスは机の上に立ったまま、すぐ真下のユアン・コークを見下ろした。
 はじめて両者はまともに顔を合わせる形となった。
 イサスの黒い瞳の中で燃えたぎる焔の、そのあまりの激しさに、ユアンは思わず感嘆の目を瞠った。
(ザーレン・ルードのために……か。自分は、死ぬ気だな。おそらく、こいつは私を倒した後は何のためらいもなく、己の喉を掻き切り果てるのだろう。……全く、何という忠実な獣か。そしてまた、何という純心さか――)
 しかし一方で、ユアンは頭上から打ち下ろされる刃先を、恐ろしいほど冷静に見つめていた。
 彼の右手がしなやかに動き、その細剣(レイピア)が少年の剣撃を見事にはね返した。
 毛の先一筋たりとも動かすことなく、まるで魔術でも用いたかのように見える鮮やかさであった。

 イサスは剣を交わされた衝撃で机から転げ落ちた。
(なんだ、今のは――!)
 信じられぬ思いの中で、それでも彼は跳ね起き、再び敵に向かっていこうとした。
 そんなイサスの前にモルディ・ルハトが立ちはだかった。
「なめた真似をしおって――」
 モルディの剣が、息もつかせぬようにイサスに向けて打ち込まれる。
「邪魔をするな……!」
 イサスは舌打ちしながら、その剣を必死で打ち返す。しかし、その力も長続きしないことは自分の体自身がよく知っていた。
(ここでユアン・コークさえ倒せば、俺の役目は全て終わるというのに……――ザーレン……!)
 イサスは全身に再び押し寄せてくる痛みの波に耐えながら、半分朦朧とする意識の中で、その名を虚しく呼んでいた。
 何度目かの剣戟で、とうとう耐え切れずイサスの手から剣が落ちた。
 壁に背を押しつけた状態で、彼の眼前にはモルディの剣先が迫り、もはや彼はどうにも身動きが取れなくなった。
 前回モルディから受けた例の傷口はとうに開き、彼の足元には体から流れ落ちる血の滴でみるみるうちに血溜まりができていく。

「ユアン様。やはり、こやつはこのまま殺した方が……!」
 モルディが両眼を怒りにたぎらせながら、ユアンに迫った。
 ユアンの裁可を仰ぎながらも、その剣は今にもイサスの心臓を貫かんばかりであった。

「なりませぬ!」
 ユアンが答えるより早く、黒衣の女が鋭く制止の声をかけた。
 その厳しい声に、モルディは一瞬顔色を変えたが、すぐに目を剥いた。
「何を――魔導士ふぜいが、しゃしゃり出るな!」
「いや、ジェリーヌの言う通りだ。冷静になれ、ルハト。剣を引け。今度こそ、彼にはもはや抵抗するだけの力は残っていないはずだからな」
 机の向こう側から出てきたユアンがモルディ・ルハトのすぐ背後に立っていた。
「ユアン様……」
 振り向いて主の姿を認めたモルディはためらう様子をみせたが、ユアンのきつい眼差しを受けると止むなく剣を引いた。
「よし、下がれ、ルハト。おまえの役目はもう終わった」
 ユアンはモルディを押しのけるようにして、イサスの前にその身をさらした。
「ユアン・コーク……!」

 イサスは息を荒げながらも、なおも闘志に満ちた眼で、ユアンを見返した。
「立っているのがやっとだろうに、まだそれだけの気迫が残っているとは、全くたいした奴だな」
 ユアンは呆れたように息を吐いた。
 彼はイサスよりも長身であったので、向かい合うと少年を軽く見下ろす形になった。その眼が興味深そうに、改めて少年を検分する。
「おまえには、いろいろと驚かされる。ザーレン・ルードがどうやっておまえのような者を拾ってきたのかわからんが、実に羨ましい限りだ。できれば、私の方が先に見つけ出したかったものだな……――だが、私がおまえに興味を抱いているのは、何もおまえが兵士として有能だからというだけの理由からではない」
 ユアンはそこで不意に言葉を止めた。
 その眼差しに、一瞬何か妖しげな光が宿ったかのように見えた。

「――おまえには、まだ大きな秘密があるな。……このジェリーヌ・ヴァンダによると、おまえには何やらいわくつきの『力』なるものがあるらしいが。古代フェールの魔導士が生み出したという、あやかしの力が――」
 そう言いながら彼の微かに熱を帯びた眼は、イサスの胸元を探るように見つめていた。

                                                  (...To be continued)


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