3 囚われた狼





 イサスは苦痛の海の中を、漂っていた。
 全身を、何か鋭い刃物で切り刻まれているかのように、彼の体を絶え間ない激痛が襲っていた。
 息をしようとするたび、新たな痛みが口を塞ぎ、彼はひっきりなしに喘がねばならなかった。

 いったい自分がどこにいるのか、彼には全くわからなかった。ただ、茫漠とした空間の海の上を漂っているかのようだった。
 時々、体の下から突き上げるような揺れが感じられる。それは波が動いていくのにも似た感覚であった。
 揺れは大きくなったり、小さくなったりした。普通なら、波の上を漂うなら、心地よさを感じてもよい筈だが、今の場合は異なっていた。
 むしろ、揺れを感じるたびに、不快感が募る。まるで船酔いしているかのようだ。
 それはやはり肉体の痛みに起因しているのだろうか。

 実際にひどい痛みだった。
 内部から抉られるような痛みに加え、手足がひきちぎられるように痛む。
 ふと見ると、体全体に細い糸が幾重にも巻きつき、それが常に彼の体をきりきりと締め上げている。
 まるで、蜘蛛の巣の糸に絡めとられた獲物のようであった。
 彼はもがいた。が、体を動かせば動かすほど、糸はますますきつく身に食い込んでくる。
 特に左腕の痛みがひどい。このまま肩から肉が裂けてしまうのではないかと思うほどであった。
 彼は声にならない呻きを上げた。

(いったい、俺はどうなっちまったんだろう……何でこんなに、息ができないほど苦しいんだ……)
 そうぼんやりと思ったとき、ふっと冷たい手が彼の額に触れる感触があり、彼は突然目を開いた。
「……気が付いたか」
 涼やかな声の主が、すぐ間近から、じっとイサスを覗き込んでいた。
 イサスが目の前のその人物の顔に焦点を合わせるのに、しばらく時間がかかった。

 ――確か、前にも同じような場面があった……。どこでだっただろうか――
 そう思ったとき、彼には突然それがわかった。
(そうだ、こいつは――!)
 あっと声を上げ、反射的に起き上がろうとした。
 が、その瞬間、体を締めつける耐え難いような痛みに、彼は再び苦悶の声を漏らした。

 体の自由がきかない。太い縄で後ろ手にしっかりと縛り上げられているのだ。足も同様に縛められている。
 手足がちぎれるように痛んだのは、この縛めのせいだった。

「動かないで。――傷が開く」
 遊芸師――エルダー・ヴァーンの碧い瞳が不思議な光を湛えて、じっとイサスを見つめていた。
「おまえ――」
 掠れる声で呼びかけたものの、その先を何と続けてよいかわからず、イサスはそこで絶句した。
 がくんと体の下から揺れが伝わってきた。エルダーもやや平衡を崩し、苦笑した。

「これは荷駄用の車ですから、揺れもひどいですが、まあ、辛抱して下さい」
 そう言われれば、ガラガラと車輪の回る音が聞こえていた。彼らは荷馬車の荷駄を積む幌の中に乗っているらしい。
 突如、鮮明に記憶が甦った。
 モルディ・ルハトとのあの戦い。モルディに組み伏されて、切っ先を突きつけられ、そして目の前の画像が急速にぼやけていった。
 すると、どうやらあの後、モルディは気を変えたのか。最後に彼が覚えていた場面からすると、どう考えても彼は死んでいなければならない筈だった。
 或いは、何か横槍が入ったのか。例えば、この目の前の若者がその一幕に関わっているのではないか。

 様々な考えが渦巻いたが、どれもはっきりとした答えには結びついていかなかった。
 何よりも今のこの状況では、頭が明晰に働かないのも当然だっただろう。
 彼は身じろぎをした。自分の体を改めて眺めると、かなりひどい手傷を負っていることがわかった。モルディから受けたものだ。
 右の脇腹辺りが特にひどい。取り敢えず、何か布が巻かれているが、じわじわと血が滲み出しているのが見える。どくどくと脈打つような痛みの感覚からして、まだ出血が続いているものと思われた。
 左肩も布で縛られていたが、こちらも裂けた傷口から染み出る血のぬるぬるとした生々しい感触があった。手を後ろにきつく縛られているため、余計に痛みが増す。

 次に大きく車が揺れたとき、イサスは傷に響く衝撃に、思わず大きく喘いだ。じわりと脂汗が額に滲み出る。
 彼の苦しげな息遣いを聞いて、エルダーは僅かに眉をひそめた。

「――痛みますか」
 彼は懐を探り、何かを取り出した。次いでイサスの方に屈み込み、その体をそっと持ち上げると、指で彼の口をこじ開けた。
「さあ、これを飲んで。――少しは痛みが引くはずです」
 つんと鼻をつく異臭がしたかと思うと、イサスの口中にその粉末状の何かが入れられた。
 次いで、筒先が唇の端に触れ、乾いた喉へ冷たい水が流れ込んでくる。

 その何ともいえぬ匂いと味に、イサスは少しむせたが、何とか口の中のものを喉下へ流し込むことができた。
「一応止血はしておきましたから、じっとしていれば、それ以上傷口が開くことはないでしょう。思ったより、傷が浅かったのが幸いしたな。……しかし、あのモルディ・ルハトの剣をよくもそこまで交わせたものですね。さすがは『黒い狼』の首領。やはり、あなたは常人ではない、か」
 エルダーはイサスの傍に座り込み、彼を見下ろすと、にっこりと微笑いかけた。
 まるで旅の途中で道連れになった旅人同士で世間話をしているとでもいうかのような、気のおけない親しみを込めた口調であった。
 しかし、それは勿論血に塗れ、拘束された相手を前にしている今のような状況からはおおよそ不似合いなもので、それだけにその不自然さを自然に演出しようとするこの若者のしゃあしゃあとした態度は、却って身の内を凍らせるような不気味さを感じさせた。

(こいつ……!)
 イサスは彼を見上げながら、一瞬心の中がぞくりと震えるのを感じた。
 エルダーの濃紺の瞳は一見柔らかに見えるが、その奥には確かに底知れない未知なる闇が潜んでいることを、彼は本能的に悟っていた。

 その感情を単に「恐怖」と名付けてよいものかどうか。……イサスにはよくわからなかった。
 少なくとも、モルディ・ルハトのような猛獣から感じる切迫した、生命を脅かされるような危機感とは違う。それはまた別の種類の怖れなのだった。
 生命、ではない。彼の存在そのものに関わる、何か深い因縁めいた繋がりを感じるのだ。
 「月の雫」亭の表で、あの時、この碧い瞳に覗かれたときの感覚がふと甦ってくる。
 あの時この青年が自分にしたこと。あれは、何だったのか。なぜ、彼がここまで自分に関わってくるのか。
 この未知なるものの存在が、彼をどうしようもなく脅かすのだった。

「……恐い目だな。まあ、仕方ないか。この状況じゃ、どう見ても私はあなたの味方には見えないでしょうからね」
 イサスの射るような視線に気付いて、エルダーは小さく肩をすくめた。
 彼はイサスの方に再び近寄ると、腹部と肩口の傷に軽く手を触れて、具合を確かめた。

「今の薬が効いてくれば、少しは出血もおさまると思うんですが。――縄を解いてあげてもいいんだろうが、手負いの獣ほど、危険なものはないといいますからね。普通なら、深手ではないとはいえ、それだけの傷を負っていたら、ちょっとやそっとじゃ動けないところだ。わざわざ縛っておく必要もないんでしょうが、少なくとも、今のあなたの目つきを見たあとじゃ、とてもあなたを自由にする気にはなれないな。この点では、モルディ・ルハトは正しかったということがわかりましたよ。最も、彼はもともとはあなたを生かしておくこと自体が危ないんだと主張してたんですけどね。悪いが、しばらくはそのままでいてもらいましょうか」
「……どこへ、連れて行く」
 水で少し喉が潤ったせいか、今度はうまく言葉が出た。
「ジェラトへ向かっています。少し厄介なことになりそうですよ。ユアン・コークがあなたに興味を示しているようです。恐らくザーレン・ルードへの揺さぶりにあなたを利用するつもりなんでしょう。まあ、モルディ・ルハトも命拾いしたわけだ。あそこで私が現れるのがもう少し遅ければ、あなたはあいつに殺されていただろうし、そうなったら、ユアン・コークはモルディを決して許さなかったでしょうからね」
 イサスははっと息を飲んだ。
「ユアン・コーク――ザーレンに……何かあったのか?」
 イサスの表情を見て、エルダーは意外そうな顔をした。
「自分の身より先に、ザーレン・ルードの方が気になりますか。これはまた……狼らしからぬ、涙ぐましいばかりの忠誠心だな」 
 彼は面白そうに笑った。しかしすぐに真面目な顔に戻ると、エルダーは改めてイサスをじっと見据えた。
「――仕方がない。では、教えてあげよう。実は……州侯の死が自然死ではなかったという疑惑が持たれているのです。その中で、今、ザーレン・ルードはかなり危険な立場にいる」
 イサスは愕然となった。
「まさか……そんな――」
「ユアン・コークはここで一気にザーレン・ルードを叩き潰すつもりでしょうね。――そこで、あなたは格好の材料となるわけだ。恐らく、あなたもザーレンも、ただでは済むまい……」
 エルダーはそう言いながら、イサスの顎を片手で持ち上げた。息がかかるほど、二人の顔が接近した。
「――さて、どうします。このまま私と聖都イシュナヴァートまで、逃げますか。それなら、力になれるかもしれない。ただし、このエランディルを私に委ねてさえ下さるならの話だが……」
 エルダーの手が、イサスの胸元を探った。そこにあるはずの、石の冷たい感触を求めて――
 本能的な嫌悪を感じて、イサスは体を捩り、エルダーの手を激しくその身から振り払った。
 瞬時に鋭い痛みが体を苛んだが、彼は気にかけなかった。

「……ふざ……けるな……!誰が――!」
 エルダーは溜め息をつくと、身を引いて再び床に腰を下ろした。
「やはりね……そう言われると思った。いいですよ。仕方がない。こちらも当分成り行きを見守ることにします。しかし、相当覚悟しておいた方がいいな。ユアン・コークは切れ者ですからね。モルディ・ルハトの比ではない。さて、どんな手を使うことか……」
 エルダーはそれだけ言うと、ついと顔をそむけた。彼は少し自分だけの考えに耽り出したようだった。
 イサスにとっても会話が途切れたことは、有難かった。彼にもいろいろと考えなければならないことが山積していたのだ。
 しばらく沈黙が続いた。車輪の音だけが、虚ろに響く。
 イサスはふと呼吸が楽になってきたことに気付いた。痛みもやや、やわらいだように思える。先程の薬の効果か。
「ようやく薬が効いてきたようですね。だいぶ楽になったでしょう」
 エルダーが、そんなイサスの様子を横目で窺うように見て、声をかけた。
「――もっとも、あなたの中に眠っている、そのエランディルの力のせいもあるかもしれませんがね。エランディルは、『契約者』を最後まで守る。『契約者』が自らの意志でその『契約』を破棄しない限り」
 エルダーはそう言うと、イサスに鋭い視線を送った。
「……また、それか」
 イサスは息を吐いた。
 彼にはまだわからないことばかりだった。いったいこの若者が何の話をしているのか。
 自分の中にあるという『エランディル』とはそもそも何なのか。――彼には皆目見当もつかなかった。
 ただ、その言葉が自分にとって、初めて聞いたものではないということだけは、直感的にわかるのだ。
 どこまでも、遠く記憶の糸を手繰り寄せてみると、その端にひっそりとぶら下がっているのかもしれない。

「古代フェールの伝説を、ご存知ですか」
 突然、意表を突くように発せられたエルダーの問いに、イサスは一瞬何と答えてよいかわからなかった。
「フェール――あの、神話や昔話に出てくる……?」
 そう言いながらも、『フェール』という言葉を聞いたとき、すぐに彼は自分の胸に下がる石を包む袋に縫い取られていたあの奇怪な文様を思い出していたのだった。
(そういえば、古代フェール文字だと、ザーレンが言っていた……)
 しかし彼はそのことについては何も言わなかった。
 ただ、それでも彼は問い返さずにはおれなかった。

「――そのフェールが、何か――?」
 エルダーは、そんなイサスの心の内を知ってか知らずか、淡々とした調子で続けた。
「大方の者は、単なるお伽話に過ぎないと思っているようですが、実際はそうではありません。大空位時代より遥か以前、フェールは確かにこの世界に存在していた。大いなる力を礎にしてね……都は栄え、世界には安寧と秩序が保たれ、人々は光の王を讃えた――」
 エルダーは歌うように言った。
 イサスはまるで吟遊詩人の歌を聞いているかのような錯覚に襲われた。

「そのフェールに一人の錬金術師がいた。名をアル・トゥラーシュ・エル・ヴァルドという。彼は、フェールの聖なる力をあらゆる手法を用いてこの世に具現化しようとした。なぜかはわからぬが……そのうちの最も大いなる力……それが『エルム・ヌ・ランズ・ディオウル』――後の世には『エランディル』と略された――すなわちフェール語で、『光の王の持たれし玉』という意味ですが、これはその名の通り、フェールの王に受け継がれていったのです。しかしフェールが滅亡した後、これらの力も離散し、行方がわからなくなった。それが今、なぜかここにある。フェールの『光の王』と呼ばれた血筋の者のみが受け継いでいた古の力が、あなたの中に……。これが何を意味しているのかわかりますか。――イサス・ライヴァー」
 エルダーの眼が探るように、イサスを見た。
 その眼差しの刃のような閃きが、イサスの中に生じつつある未知なるものへの怖れを再び掻き立てた。
 イサスは何か言おうとしても、何も言葉を発することができず、ただ呆然と口を開けたままでいる自分に気付いた。

 ――何という、荒唐無稽な話か。
 イサスは一笑に付そうとした。――これは単なる与太話に過ぎない。あまりに現実から遊離しすぎている。
 そうだ。笑って流してやろう。そして、下らない話を恥ずかしげもなく滔々と語り続けるこの愚かな遊芸師のお喋りな口を今度こそ閉ざしてやるのだ。
 しかし……実際には、彼はどうしても、そうすることができない自分がいることを自覚していた。
 そんな彼の心中を見透かすかのように、エルダーの瞳に皮肉な光が宿った。
「――あなたの中に、その答えがある。いずれ、その口から聞かせてもらいましょう」
 エルダーは言い終わると、すっと視線を落とした。
「おまえは――」
 そのとき、イサスはようやく声を絞り出した。
 その声にエルダーが再び目を上げる。
 その彼を真っ直ぐ見上げて、イサスは言葉を押し出した。

「……おまえは――誰なんだ……!」
 エルダーはふと目を細めた。
 何とも読み取れぬような、不思議な表情がその秀麗な顔に浮かび、消えた。
 ――その一瞬の表情が何を意味していたのか、イサスにはわからなかった。

「そういえば、まだ名を言ってなかったな……」
 エルダーのその呟きは、まるで自分自身に向かって言っているかのようだった。
「私はエルダー。エルドレッド・ヴァーン。『レグス・ヌ・フューレ』――『焔の守護者』――とも呼ばれています。……アル・トゥラーシュ・エル・ヴァルドの血を引く者……と言って、信じていただけるものかどうか――」
 なぜかその口調には、どこか自嘲めいた響きが感じ取れた。

                                               (...To be continued)


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